山登り,京都

【京都・大山崎町 2022.1.3】明智光秀が突如謀反をおこし織田信長を討った本能寺の変。その報せをうけた羽柴(豊臣)秀吉は、当時敵陣と向き合っていた備中高松城から世にいう「中国大返し」でもって摂津まで駆けもどり、そして山崎の地で一気に明智軍と雌雄を決するため合戦に及びます。山崎の地の背後にあるのが天王山。その天王山に登ってみます。 登山口へ 踏切をわたって天王山へ 踏切の向こうに盛り上がっているのが天王山です。山というより、小高い丘レベルです。 宝積寺 天王山の麓にある宝積寺につきました。ここは打出と小槌を祀っていて「宝寺」の別名があるそうです。山崎の合戦に関する本を読んでいると、たびたび宝寺の名で登場します。縁起が良いからでしょう、初詣をかねたけっこうな人出でした。 秀吉と宝積寺https://www.oricon.co.jp/article/682746/ 天王山の登山口にあるオリジナルのマンホール蓋です。両方ともにおそらくは一点物。 いざ天王山へ 登山口の案内にも「ハイキング道」と紹介されていたぐらいで、整備された道を登ってゆきます。 天王山 ハイキングhttp://www.town.oyamazaki.kyoto.jp/annai/kikakuzaisei/kannkou/kanko/machinokankosupotto/tenkawakemenotennozan/965.html 山崎の合戦場をのぞむ 途中に展望所があります。風景自体はわざわざ見るほどのものではないのですが、合戦時の両陣営の配置図と見比べながら遠望すると、違った楽しみ方もできます。 天王山を山崎側からのぼると、途中々々に秀吉の側から見た「本能寺の変」「山崎の合戦」「天下統一への道」がこのような解説版によって紹介されています。堺屋太一氏の作と記されていますが、氏の私見というよりも、秀吉を英雄にすることを前提につくったもののようです。 十七烈士の墓 山頂まで0.1kmの案内 山頂・山崎城跡 山崎城址 天王山山頂に到着しました。 秀吉は山崎の合戦を経験して、この天王山の地理的な重要性を認識し、ここに山崎城を築いたそうです。 明智光秀vs羽柴秀吉 そえぞれの山崎の合戦https://kyotolove.kyoto/I0000208 宝積寺のある南西から登りはじめ、北東方向へ下ることにします。 小倉神社 小倉神社につきました。大山崎から登る場合はまず宝積寺がありましたが、こちら側から登る場合はまずこの小倉神社を詣でることになります。 なお秀吉は、山崎の合戦に先立って家臣の片桐且元をつかわしてこの小倉神社で戦勝を祈願し、勝利したため毎年米三千俵を寄進したそうです。 【歩行距離】阪急大山崎駅→宝積寺→天王山→小倉神社→阪急長岡京駅 16,000歩【入場料】すべて必要なし【満足度】★★★☆☆ ... Read More | Share it now!

神社・仏閣,京都

【京都市・右京区 2022.1.2】京都市・嵐山の北にそびえる愛宕山。その山頂に鎮座する愛宕神社へ向かいます。 愛宕神社へ 明智越えから明神峠を経ての登山道は、なんとまあ、こんな雪道になりました。 JR亀岡駅から歩きはじめて4時間、愛宕山山頂(正確には山頂ではないので、ほぼ山頂)の愛宕神社に到着しました。 山門へ まずはこの階段のぼりからはじめます。亀岡駅からずっと雪のつもった山道を上がってきたのでいい加減脚が疲れており、正直なところこの階段はきつい。 上り下りする人の姿もチラホラ 横写しの写真よりも縦の写真の方が、きつさが伝わってくるかと思います。 山門に到着しました 愛宕神社・山門 なぜ神社なのに山門があるかというと、神仏習合の時代には愛宕権現を祀る「白雲寺」として存在していました。 社殿・本殿 愛宕神社・社殿 ここ京都愛宕山の愛宕神社は、全国に約900ある愛宕神社の総本社ですが、山頂という場所ゆえか意外に小さいんです。 火の神をまつる京都の霊山https://thegate12.com/jp/article/367 愛宕神社・本殿 愛宕神社・若宮 ここ愛宕神社は日本の神々の先祖にあたる、イザナミノミコト(伊弉冉尊)ほか五祭神を祀っていますが、若宮に火の神であるカグツチノミコト(加具土命)を祀っていることから火除けのご利益で親しまれています。また勝軍地蔵菩薩が本殿に祀られていることからむかし戦国武将が戦勝祈願に訪れたそうです。明智光秀も本能寺の変のまえにここを訪れ、連歌の会を催し、みずから「ときは今 あめの下しる 五月かな」と事変を予兆させるかのような発句を詠んだのは有名な史実です。 明智光秀と愛宕神社https://www.kameokacci.or.jp/akechikamemaru/mitsuhide/mitsuhide1.html 愛宕百韻で、光秀は本能寺の変を予告したのかhttps://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20210210-00221808 参道を下る 社殿から山門を見下ろす この階段は雪がおおかた凍っていて、とにかく滑りやすくて危険でした。 参道 雪をかぶった石灯篭がかわいい 間もなく日が暮れそうなので、この雪をかぶった階段道を駆け下りました。 【アクセス】明智越えルートを通ると、JR亀岡駅から徒歩約4~5時間【拝観料】必要なし【満足度】★★★☆☆ ... Read More | Share it now!

山登り,京都

【京都市北部 2022.1.2】亀岡市街より明智越えを文字通り「越えて」愛宕山にのぼってみます。愛宕山には過去3度のぼりましたが、明智越えをたどってゆくのははじめてです。 登山口へ SANGAのスタジアムがある JR亀岡駅から亀山城とは反対に、橋をわたって北へとむかいます。 大堰川 大きな川を渡ります。標識には「大堰川」と書いてありました。この川を船で下るのを「保津川下り」といいます。さらにずっと下って京都・嵐山あたりでは「桂川」になります。 明智越えへ向かって脇道にはいると雪が残っていました。 明智越え 明智越えスタート地点 明智越え ハイキングhttps://www.kameoka.info/course/standard/akechigoe.php 明智越えの道 明智光秀の軍勢13,000は信長急襲のため3隊にわかれて本能寺にむかい、そのうちの1隊がこの明智越えを通ったとも言われていますが、その事実はありません。なぜ明智越えといわれるかといえば、光秀が愛宕山の山頂にある愛宕神社に参詣する際にはこの道を通っていたからでしょうか(?) 明智光秀はどう動いたのかhttps://www.kk-bestsellers.com/articles/-/1366/ 進むにしたがい じょじょに雪量が増えてきます 明神峠への分岐点 「明智越え」はここから分岐して保津川峡方面へむかってゆきます。愛宕山山頂をダイレクトに目指したいので明神峠へとむかいます。 このあたりから雪が深くなってきました。 明神峠へ 雪がずいぶん深くなり歩きづらい 明神峠付近から愛宕山をのぞむ 愛宕山 登山https://yamap.com/mountains/69 明神峠でいったん車道に出ました。 愛宕山山頂へ 雪道をすすむ さらに雪道をすすむ 雪道を歩きながら 雪道をすすむ... Read More | Share it now!

城郭・史跡,京都

【京都・亀岡市 2022.1.2】明智光秀が近江坂本につづいて織田信長から拝領した丹波の国、その統治のための拠点として築いたのが亀山城です。 亀山城址へ JR亀岡駅前 JR亀岡駅の改札を出ると、その先に亀山城址の杜の茂みが見えます。 明智光秀ブロンズ像 近付いてゆくと、「明智光秀公像」がありました。以前きた時にはなかったのですが、しらべてみると令和元年建立とのこと。 後方の茂みは亀山城址です。 明智光秀と丹波亀山城https://www.kameoka.info/mitsuhide/kameyama-castle.php 濠の跡 濠の跡が池になって残っています。 一般道に沿ってのこる石垣 かつての亀山城の、もっとも外側にあたる石垣ではないでしょうか。 亀山城址内 宗教法人・大本 現在この亀山城は宗教法人・大本が管理しています。というか、廃城となり荒れ果てていた亀山城の敷地をそっくり「大本」が買い取り、整備して自らの活動の場としているようです。亀山城を見学の際には、先にこの社務所(?)で入場料(拝観料)300円を払って、あとは自由に見学することになります。 亀山城・石垣 亀山城・石垣 城内にはたいへんきれいな状態で石垣が保存されています。もっとも石積みがあまりに整いすぎているので、明智光秀の時代のものではありません。この亀山城は明智光秀のあと、羽柴(豊臣)秀吉がその存在を重視し家臣を城主として入れた一時期もありますが、さらに江戸時代になって徳川家康の命で、築城の名手といわれた藤堂高虎が中心になって大修築したそうです。亀山城の石垣https://kojodan.jp/castle/193/memo/1202.html 案内板 宗教法人の私有地ゆえ「神苑案内図」となっています。ところで亀山城が敷地ごと宗教法人の所有になったこと自体がよいのか悪いのかは別にして、さずがに管理は行き届いており、新年早々気持ちよく見学できました。 丹波亀山城址と大本教の歴史https://kyotofukoh.jp/report979.html 【アクセス】JR亀岡駅より徒歩10分【入城料】300円... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,京都

【京都市内 2022.1.1】織田信長は天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、家臣である明智光秀の謀反により洛中の滞在先本能寺にて非業の死を遂げます。天下統一まであと一歩というところでしたが、そこに至るまでには明智光秀の多大な尽力があったことも事実で、また光秀が弑逆しなくとも、他の誰かの手で討たれていただろうとも言われています。その本能寺の変にまつわる地を歩いてみました。 本能寺へ 京阪電車三条駅を出てすぐに鴨川をわたります。 高瀬川 木屋町通り沿いの高瀬川に舟入が残っています。かつて船で荷を運んでいたころ、この場所で荷の積み下ろしをしたり、船の方向転換をしていました。 現在の本能寺 御池通りをまっすぐに歩いて行くと、じきに本能寺につきます。この本能寺は信長が討たれた本能寺ではなく、秀吉が信長を弔うため別の地にあらためて建てたものです。 本能寺・本殿 本殿の裏手にある信長公廟 本能寺跡へ 蛸薬師通り 蛸薬師通をどんどん西に歩き、旧本能寺へとむかいます。京都には画像の左にあるような古民家をつかった店がたくさんあるのですが、コロナの影響でこの建物も貸物件になっていました。 本能寺があったことを伝える石碑 さんざん探してやっと見つけました。といっても、本能寺跡地はすべて宅地となり、いまは「ここにあったんだよ」と伝える石碑があるのみです。うしろの建物は老人介護施設でした。 本能寺跡https://rekishidou.com/honnouji/ 織田信長と本能寺https://toyokeizai.net/articles/-/397458 二条殿跡地 信長の嫡男・信忠は、本能寺での変事をうけ、滞在していた妙覚寺から急遽本能寺へと向かいます。しかし明智軍との圧倒的な兵力差(明智軍1万3千... Read More | Share it now!