出石城をたずねて、出石蕎麦を食べて
【兵庫県・出石市 2023.7.24】
但馬国の守護はながらく山名氏が務めていました。
織田信長の西国平定にともない、山名祐豊はその居城をいったん捨て退去しますが、すぐに今の出石町中心地にある有子山の山頂にあらたな城を築きます。さらに山麓に居館を築くのですが、信長の命をうけた秀吉(この当時は羽柴秀吉)の軍により攻め滅ぼされます。
時がうつり秀吉の時代になると、その家臣である小出吉政が但馬藩主となって入城します。この小出吉政ですが、なかなか世渡りがうまく、関ケ原の戦いにおいては自身は西軍につく一方、弟・秀家は東軍について、戦況が東軍有利とみるや吉政は戦うのをひかえ、秀家は勇躍します。弟・秀家が東軍で働いただけでなく、兄・吉政が西軍で「働かなかった」功もくわえ、小出氏はその領地を安堵されます。
吉政の子・吉英はこれも情勢をよむのに長けており、徳川家康にあえて恭順を示すため、有子山上の本体となる城郭を破却し、山麓の居館であった部分を拡張し、天守閣をもたない、いかにも平和な時代の居館然とした城を築きます。これがいまの出石城であり、山上にあったものがいまは有子山城址と呼ばれているものです。
出石城の歴史においてはもうひとつ特筆しておくことがあります。
小出氏はのちに世継ぎがいなかったために改易となりますが、そのあと仙石政明が信濃上田藩から転封されてあらたな城主となります。信濃上田城といえば、もとは真田家がきずいた名城ですが、いまは城について語るのではなく、信濃地方の名産である蕎麦について。
仙石政明は信濃上田藩主時代に食した、その蕎麦の味を忘れがたかったのか、蕎麦職人まで連れて但馬に移り、この地でソバの栽培からはじめて、ついには蕎麦を特産品にまで育て上げます。
それゆえ今回は出石城を訪ねるだけでなく、出石蕎麦も食べて、と企画しています。
出石城
明治時代になって出石城は取りこわされ、石垣と堀が残るのみとなります。
ですから渡ってきた橋も、くぐった門も、この隅櫓ものちに復元されたものです。
たいへん珍しい例ですが、出石城には関ヶ原の合戦後大規模な改築をした当時から本丸の上に稲荷神社が鎮座する別の曲輪(くるわ)がつくられ、しかもこの神社へは誰でもが自由に参詣できたそうです。
出石蕎麦
後方に見える有子山の山上にかつて有子山城があり、いまも石垣と曲輪がのこっています。
予定としては登るつもりだったのですが、出石の町は盆地のため猛烈に暑く、この猛暑のなか往復2時間の登山をするとまともに戻ってこられる自信がないので中止。
かわりに辰鼓楼が目の前の湖月堂にて出石蕎麦を食べることにしました。
湖月堂は1階が販売、2階が飲食になっており、窓際のカウンター席からはちょうど辰鼓楼が目の前にみえます。
出石の町のシンボル・辰鼓楼(しんころう)は明治になってすぐ、壊した城の廃材をつかって建てたもので、当初はこの楼上で太鼓をたたいて時を知らせていたようです。時計にかわったのは明治14年9月、一月前に札幌市の時計台が稼働をはじめていたため、それでも日本で2番目にふるい時計台だそうです。
出石には30軒以上の蕎麦屋があるそうで、悩んだ末に立地の良さもあって、この湖月堂を選びました。
蕎麦は小皿に分けて盛られており、最初の注文は蕎麦5皿、薬味(ねぎ、わさび、温泉卵、長芋)、さらに銘菓の権兵衛餅が付いて850円。追加は1皿130円。
この店の蕎麦は8割で、蕎麦だけでなく、権兵衛餅もたいへん美味しかった。ちなみに自分が計10皿、家内が5皿でした。
なお蕎麦の提供につかわれている、これらの白磁器がすべて出石焼です。
永楽館
永楽館は明治34年に開館、歌舞伎や寄席を上演する芝居小屋として栄えますが、時のながれには逆らえず昭和39年に閉館。
ところが懐かしむ声に後押しされ、平成20年に改修され再開しました。
現在は上演のないときには、舞台裏まですべて見学できます。
出石神社
【アクセス】出石城~出石の街並み散策~出石神社、出石市街地以外は車で移動
【入場料】永楽館400円
【満足度】★★★★☆