関ケ原の謎・石田三成の才槌頭はただの石頭だったのか

佐和山城の麓・龍潭寺にある三成の座像
滋賀県石田村にある三成の像

ふたつの石田三成像を見てもたしかに頭がやや大きいように思えます。

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石田三成の才智

石田三成はとびぬけて頭がよかったと伝えられています。
また三成は才槌頭だったと言われてきました。
才槌頭とは槌のように前頭部と後頭部がでっぱった頭のことをいいます。要するに頭が大きく、大きな頭にはいっぱい脳ミソが詰まっているのでその人は賢いと、むかしはいかにも非科学的な迷信が信じられていました。
アインシュタインの脳は死後すぐに検死医によって頭部から取りだして持ち去られるのですが、そのため脳の重さについて正確な数字が残されています。1230ℊ、これは平均的重さであり、脳ミソがいっぱい詰まっているから、ましてや頭が大きいから頭がいいとはとても言い切れないことを語っています。

三成の居城・佐和山城本丸跡

佐和山城は、家臣の島左近の存在とともに「三成に過ぎたるものがふたつある」と皮肉られるほどの名城だったようですが、関ケ原合戦以後に徳川家の重臣・井伊直政が彦根に転封されたのを機に、徹底的に破却しその石材や木材をあらたに築城する彦根城の材料として使ったようです。

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徳川家康の大願

家康が出陣するさいの旗印は「厭離穢土欣求浄土」(おんりえどごんぐじょうど)ですが、これは「穢れた現世を厭い離れ、平和な浄土を願い求める」という浄土教の根本思想です。
あくまで軍団の旗印ですからここでは思想的な意味合いよりも、戦場で軍兵が死を恐れぬよう死んだならば浄土へ行けるとつよく励ましたものと考えられます。

しかし家康の心中には争いの絶えない現世こそ穢土であり平和な国こそ浄土であるという確固とした信念がありました。そして平和な国をつくることこそが家康の大願でした。
なぜそう言い切れるか。家康が天下人となってつくり上げた徳川幕府がその後260余年にわたって江戸時代とよばれる天下泰平の世をつむぎ続けた奇蹟をみれば、家康が我欲ではなく明確なビジョンをもって天下平定に邁進したことはあきらかです。

一方の石田三成はというと、家康が亡き太閤秀吉の遺志にしたがわず勝手なことをしたと怒り、それこそが豊臣家に対する謀反であるゆえに成敗すると息巻くのですから家康からみたら子供が喧嘩をふっかけてくるレベルでしょう。
しかも三成が大事とする太閤秀吉の晩年の治世が世間から眉をひそめ内々に批判されていたとなれば、三成のやっていることは滑稽でさえあります。

関ケ原開戦直前の陣形

明治時代にドイツ軍参謀少佐がこの陣形図(黄色の内応軍や黒色の傍観軍はすべて西軍に含まれていたもの)を見て「西軍の勝ちだ」と言い放ったというのは有名な話です。
しかしずぶの素人がみても正面、側面、背面の3方向を囲んだ西軍が絶対有利であることは容易にわかります。
むしろ不思議なのは、百戦錬磨の家康がなぜ一見して不利とわかる位置にわざわざ布陣したのかを三成は疑問に思わなかったのでしょうか。
家康は黄色も黒色も自分(東軍)に向かって襲いかかってくることは絶対にないと確信していたのでしょう。

福島正則の直情

福島正則は秀吉の実母(大政所)の妹の息子であり、秀吉から見ると20歳以上年の離れた従弟にあたります。
秀吉子飼いの武将の代表格であり、とくに賤ヶ岳の戦い以後は秀吉の下で数々の武功を上げて立身してゆきます。
それがなぜ徳川家康についたのか。
過去の通説では大の石田三成嫌いで、すでに家康に内応していた黒田長政からそこを刺激され怒りにまかせてということになっていますが、それ以前に正則の息子(養子)と家康の娘(養女)が婚姻しており、早くから徳川方へ傾いていたものと考えられます。

天下人となってからの秀吉は聚楽第、大坂城、桃山城と絢爛豪華な城普請に天下の銭を湯水のごとく使います。それでもこれは今でいうところの公共事業に相当しそれなりに景気刺激策になると理解を示す人がいたかもしれません。
しかし武人たちの疲弊に目を向けることもなく目的のわからない朝鮮出兵をくり返すことに賛同したものがいたとは見聞きしたことがありません。
さらに甥の関白秀次や茶頭の千利休を自死に追いやるなどの愚行をみると、老人性の耄碌とか痴呆とは違って急激に狂いはじめたとしか思えません。
もしこのころ内閣支持率のごとき天下人支持率が集計されていれば、間違いなく一桁だったことでしょう。
その一桁のなかには秀吉子飼いの福島正則さえ入っていなかったということです。
ところがその一桁のなかに入る男がいました、石田三成。しかも三成は関ケ原合戦がはじまる直前になっても、福島正則を味方に引き込めるかもしれないと報せる書状を会津の上杉家に送っています。なんとおめでたい御仁なのでしょうか。

福島正則が改修した広島城
天守、櫓、門など建物はすべて復元再築

正則は関ヶ原合戦での殊勲を評価され、尾張清州20万石から安芸広島49万石に加増転封されます。さっそく広島城を改修して天下の名城に仕立て直しますが、2代目将軍・秀忠の時代に水害被害のための修繕を幕府に無断で行ったと糾弾され、信濃へ4.5万石に減転封されてしまいます。

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正則が家康に怒られ築後わずか3年で捨てた亀居城

それより時代がさかのぼり大坂の陣の直前には、安芸国の西の端いまの大竹市に亀居城を築きますが、堅牢すぎたがために謀反を疑われ即座に破却しています。

過度に手が加えられた広島城よりも見応えがあり、歴史ファン城郭ファンにはこちらをお薦めします。

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細川忠興の追従

細川氏は南北朝時代に足利尊氏の引きで勢力をのばして以来、明治維新まで歴史の表舞台に常に名をのこしています。
さらに維新後も細川氏の系譜から侯爵、子爵、男爵と計8家もの華族がうまれているのですから、よほど世渡りがうまい、と言ったら失礼なのであれば、よほど世渡りに気を配ってきたのでしょう。

山本博文氏の著書「宮廷政治」は、熊本藩細川家にのこされていた忠興・忠利父子の膨大な書状から徳川幕府のもとで外様大名がいかに気を配りながら生き抜いてきたかを浮き彫りにした良書です。
そのなかには父忠興が「誰それとは良好な関係を保っておけ、しかし誰それは評判が悪いので表立って付き合うな」とこまかく指示するかと思えば、子忠利からは「誰それが将軍家と婚姻関係をむすぶため策動している、誰それは将軍家の取次役とやたらに親密にしている」と他藩の動きを報告する詳細が書かれています。
興味深い記述もありました、参勤交代は江戸時代初期には義務化されていなかったのですが、それならば各大名は無視していたのかというとむしろ逆で、将軍家にたいしての忠誠を示するため自らせっせと江戸へと出向いていたそうです。それどころか「〇〇藩はふたたび」などと知らせ合い遅れをとらぬよう国元にもどっても尻が落ち着かない様子をみると、なにやら憐憫の情さえわいてきます。

細川忠興は、明智光秀と仲が良かった藤孝(幽斎)の嫡男であり、光秀の娘・玉を正室とし、学芸とくに茶道にも優れていたことから利休七哲にも名をつらねています。
忠興が豊臣氏に見切りをつけたのは、秀吉が茶道の師である千利休を自害させたことへの憤懣があったことは間違いありませんが、家康に従ったのは豊臣家と徳川家を天秤にかけて自家の将来を熟考したからにほかなりません。

いっぽう石田三成はここでも愚行に走ります。
豊臣恩顧の武将たちのなかで徳川方に従おうとする者の妻子を拘束し、徳川方として戦うのであれば妻子の生命は保証できないと暗黙に脅して戦意を失わせようとしました。
ところが忠興の妻・玉(洗礼名ガラシャ)は拘束されること自体を拒み、キリシタンゆえ自害できないので家臣に槍で胸をつかせ屋敷に火を放ちます。
玉を熱愛する忠興の憤怒はいかばかりだったでしょうか。くわえて徳川方の諸将はこの蛮行に怒りをあらわにし、結果として戦意を失うどころか火に油をそそぐごとく戦意をあおられます。

玉が忠興のもとへと嫁いだ勝龍寺城

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大坂城近くにあった細川家屋敷の跡
台所にあった井戸がいまも残っている

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徳川家康の深謀

関ヶ原の合戦には前段があります。
豊臣家の中にありながら故太閤秀吉の遺志をないがしろにする徳川家康の、その専横的なふるまいに危機感を抱いたのか(あるいは単に堪忍袋の緒が切れたのか)、石田三成は家康討伐を決意します。
三成が考えた計画はこうです。
かねてより親交のあった会津の上杉景勝と直江兼続主従とひそかに連絡を取り、そのころ前田家につづき上杉家の力を削ごうとたくらむ家康が会津征伐に向かったならば、家康の注意が東(会津)に向いているうちに西(上方)で三成が挙兵して後背から進軍、挟み撃ちにしてしまおうというものでした。

ところが家康は三成のこの計画をすべて見通しており、逆に利用することを思いつきます。
そもそも家康の会津征伐は、名目上は大老筆頭である徳川家康の意向にしたがわぬ上杉を懲らしめるということになっています。この軍事行動はあくまで豊臣家のためのものであり、その背後から三成が挙兵し戦いをしかけてくるのであれば、それこそは豊臣家にたいする謀反であり、家康としては逆臣・石田三成を討つという大義名分ができあがります。

話がそれますが、家康が上杉家に対して詰問状を送ったのに対して上杉側から挑発的な返事が送られてきたとされる、いわゆる「直江状」ですが、原本がのこっておらずいくつかのこる写本はすべて内容が少しずつ違っており、本当にあったのかその存在がいまでは疑われています。
おそらく江戸時代になってから、あのとき家康が会津征伐にむかったことも途中で変更し関ヶ原へと向かったのもすべて正義のためであったと念を入れて歴史に残すために創作したのではないでしょうか。

石田三成の陣跡から関ケ原をのぞむ

左端の山が毛利氏が布陣していた南宮山、その麓に家康の開戦前の最初の陣があり、画面の中央あたりまで東軍が布陣、右端の山が小早川秀秋が布陣した松尾山です。

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大谷吉継の友情

意外かもしれませんが、関ヶ原合戦に参加した豊臣方徳川方すべての武将のなかで、家康の器の大きさを理解し、家康こそこれからの日本を牽引してゆく人物だともっとも高く評価していたのはおそらく大谷吉継だと思います。
吉継は家康と昵懇でもあり会津討伐には(上杉家を討つこと自体をどう考えていたのかはわかりませんが)粛々と従うべく国元の敦賀を発ちます。その途上で佐和山城の三成からの急使をうけ赴いたさきで家康征討の秘事を明かされます。
このとき吉継は徹頭徹尾反対したといいます。家康に勝てるわけがない、家康はリーダーとしてふさわしい、家康とでは格が違いすぎる、家康は天下を泰平に治めることを希求している、等々。
それでも頭を垂れて吉継の助勢を乞う三成のまえについに折れ、必敗を覚悟の上で三成との友情を選んだと、なぜかこれが美談になっています。

これは美談、なのでしょうか。
吉継は必敗(死)を覚悟の上で三成との友情を選んだのであれば、なぜ命をかけてでも三成の独りよがりな暴走を止めなかったのでしょうか。
関ヶ原合戦について調べていると、大谷吉継が一番人気のようにも見受けられます。
たしかに必敗と死を覚悟しながらも友情を重んじ、いったん加勢すると決めたら獅子奮迅の働きをし、最後は裏切者の小早川秀秋の急襲をうけて全滅してゆく、いかにも感動的なドラマではあります。
しかし大谷吉継という傑物は感動的なドラマを演じるために生まれてきたのではないはずです。

大谷吉継の供養塔がある永昌寺(敦賀市)

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関ヶ原の陣跡につくられた吉継の墓

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徳川家康の誤算

関ヶ原合戦は東軍(徳川方)の完勝のようにいわれていますが、それは違います。すくなくとも家康にとっては大きな誤算があり、天下泰平の世を完成させるまでには大坂の陣が終わるまでさらに15年の時を要することになります。
会津征伐から反転して関ヶ原へと向かうことになりますが(ここまでは家康の目論見通り)、家康は軍勢を二手にわけ、もと豊臣寄りであった大名たちはひとまとめにして東海道を西進させ、徳川一族と譜代大名からなる徳川本隊は嫡男の秀忠に率いさせて中山道を西進させます。
秀忠に本隊を任せたのは、いずれ代替わりすることを見越して嫡男の雄姿を喧伝しようとの意図があったのでしょうか、ともかくこのことが凶とでます。
中山道をすすむ秀忠のまえに信濃上田城にたてこもる真田昌幸・信繁(幸村)親子が立ちふさがります。
戦巧者として知られた昌幸の計略にまんまと引っかかり掻きまわされ、秀忠と徳川本隊はなんとまあ関ヶ原合戦に遅参してしまいました。

秀吉亡きあと三成が築こうとしていた国づくりとは、中央(おそらくは豊臣政権)が決定し三成のようないまでいう官僚が行政を担って全国を管理する中央集権国家でした。
ところが中央集権で一国を統制するには絶対的な存在、たとえば天皇をトップとする必要があることを家康はわかっていました。しかし天皇を上にかつぐのであればそれは武家政権ではありません。
そこで家康は地方分権国家としての国づくりをめざします。これならばトップは将軍であっても成立させられます。ただし将軍は現人神の天皇とはちがって所詮はまわりと同じ人間ゆえに、圧倒的な力で相手を服従させることが求められ、その圧倒的な力を得るために秀吉亡きあと家康はひたすら策動していました。

関ヶ原合戦は家康の目論見では秀忠ひきいる徳川本隊が大いに活躍して西軍を蹴散らすはずでしたが、秀忠の遅参のため徳川本隊は現場におらず西軍から寝返った元豊臣方の働きで勝利したという結果になります。
敗れた西軍の大名たちから没収した総石高は600万石、これは当時の日本全国の総石高の1/3に相当します。おそらく家康としては徳川家と譜代大名でこれを大方総取りしたかったのでしょうが、なにしろ関ヶ原合戦で活躍したのは(のちの)外様大名たち、じつに400万石を彼らに分け与えることになります。しかも彼らの大半は豊臣恩顧の大名です。

関ケ原合戦の当時すでに老域に達していた家康にとっては、あとは自分の余命に賭けるしかありません。
そののち豊臣恩顧の有力大名のなかで、家康よりも年若の加藤清正、浅野長政、池田輝政らが亡くなり、福島正則は朋友をつぎつぎに失ったためかすっかり気落ちしてしまいます。
さらに細川忠興や黒田長政らがどっぷり徳川政権に飲み込まれるのを見定め、ついに家康は動きます。
関ケ原合戦から14年後大坂冬の陣、その翌年大坂夏の陣。
すでに豊臣家にしたがう大名は皆無となっていたため淀君と秀頼は浪人衆を集めるしかなく、必然のように豊臣家は消滅してゆきます。
そしてその翌年、徳川家康も世を去ります。

【2024.10.30 記】

秀吉と三成の出会いの像 / 長岡駅前

この出会いの像は、三成が奉公していた寺へ鷹狩りの帰路に立ち寄った秀吉が茶を所望したところ、三成が機転をきかせて熱さの異なる三杯の茶を献じたという有名な逸話をもとにしています。

もっともこの逸話も後世の作り話のようなのですが、三成が才智にとんだ少年であったことは間違いありません。また青年になっても壮年になっても並外れて頭が良かったようです。
その頭がもうすこし柔軟であればと悔やまれます。

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