【神戸市内 2023.1.3】関西のなかで京都や奈良は別格として、他の中小都市や城下町と比較しても神戸はずいぶん歴史の重みを欠く町のように映ります。しかし歴史を紐解いてみると、意外に古い史書や文献にいまの神戸市内の地名が登場しています。たとえば楠木正成が寡兵で足利尊氏の大軍をむかえ撃った湊川の戦いは南北朝時代、いまの神戸市中央区あたりが舞台です。平家物語で有名な源平合戦において源義経が一躍名をあげる、一ノ谷の戦いも須磨区を中心にした神戸市西側一体が舞台で、時は平安時代末期。さらに紫式部が遺した「源氏物語」には、源氏の君が一時凋落したとき時勢の不利をすばやくさとり須磨へとみずから下向する展開があります。もちろん「源氏物語」は小説であり創作ですが、当時から須磨は京から離れてはいるが朝廷と何らかの繋がりがある田舎として認識されていたということでしょう。この作品が書かれたのは平安時代中期、いまから1000年も前です。今日はその須磨に、源義経、さらに織田信長が好んで舞った幸若舞「敦盛」にも関係する須磨寺があるので、そこへ初詣気分で出かけてみます。 紫色のマークが今回歩いた場所です。 須磨寺へむかって JR須磨駅... Read More | Share it now!
欲張って芥川山城、高槻城に古墳も見て歩く
【大阪府・高槻市 2022.12.28】織田信長より前に近内一円を手中におさめ、「最初の天下人」とも言われた阿波出身の三好長慶は、当時の室町将軍を追いやってのちも京の都に腰を据えることをせず、いまの大阪府高槻市の小高い山上に城を築き、そこから遠隔操作のごとく政に介入してゆきます。この城は近辺をながれる川の名にちなんで芥川山城と呼ばれ、いまでも石垣の一部や曲輪跡が残っています。さらに勢力を拡大して行くと、つぎは大阪平野をみわたす飯盛山の山上尾根にそって新たな城を築きます。これが飯盛山城です。三好長慶が城を築くために選んだ地をよく見ると、政の中心である京と、商売その中でも南蛮貿易の中心である堺ににらみを利かせられる場所であることに気づきます。京、堺のなかに居城を築かなかったのは、町中にみずから移り住めば京なら朝廷、堺なら商人が反発し、益少なしと見たからでしょう。幕府・将軍は軽んじていた長慶も朝廷には遠慮があり、商人には配慮があったということの証でもあります。また戦が日常茶飯事のこの時代ですから、山上に城を構える方が守るには断然有利です。飯盛山城は2週間ほど前に見て歩きました。【aruku-89】https://yamasan-aruku.com/aruku-89/今日は芥川山城を訪ねてみたいと思います。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 高槻城と高山右近 高槻城址 高槻城址... Read More | Share it now!
周山城と黒塗りの明智光秀像をたずねて
【京都市京北... Read More | Share it now!
初冬の飯盛山をハイキング
【大阪府・四条畷市~大東市 2022.12.12】三好長慶という武将がいます。戦国時代は下克上の時代だったといえますが、その視点から見れば、戦国時代はこの三好長慶の登場時点から始まると言えるのではないでしょうか。室町幕府の将軍・足利家は時とともに力を弱めしだいにお飾り的な存在となってゆき、代わりに管領(かんれい)が将軍補佐役の立場をこえてみずから権勢をふるうようになります。細川晴元は12代将軍・足利義晴、13代将軍・義輝を補佐する管領でしたが、京の西南部をぐるり囲む摂津、山城、丹波3国と、さらに四国の阿波、土佐2国、計5国の守護をつとめる大名であると同時に、34代管領として当時の日本の実質ナンバーワンの存在でした。三好長慶はその細川家が守護をつとめる阿波国の、さらにその一部を守護代として管理する家系に生まれますが、細川家がごたごたする隙に、本願寺を味方につけたり敵対したり、あの手この手で勢力を拡大し、ついには細川家から実権をうばい、さらに和泉、河内、播磨、淡路、讃岐などを支配下におきます。織田信長に先んじて、「最初の天下人」と呼ばれるのはこのためですが、晩年はなんらかの精神の病を患ったようで、松永久秀と三好三人衆に実権をうばわれさびしく世を去っています。今日はその三好長慶が全盛を誇っていたころに築城した、飯盛山城をたずねてみたいと思います。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 四条畷神社 四条畷神社への参道... Read More | Share it now!
だんじりだけではない、岸和田の歴史を見て歩く
【大阪府・岸和田市 2022.12.9】岸和田の名の由来については、南北朝時代にこのあたり一帯が海岸沿いだったからか「岸」と呼ばれており、その当時世に出てきた楠木正成、その一族である和田某がここに城を築いて拠点としたことから「岸の和田」すなわち「岸和田」になったというのがもっとも有力な説です。その和田氏が築いた城は16世紀初期に破却して現在の場所に移築し、豊臣の時代から江戸時代にかけて幾度も改築されながら本格的な城郭に変貌してゆきます。そして徳川家康の養女の子ともあるいは妹の子とも伝わる岡部宜勝が6万石で入城し、以後13代にわたり明治初期まで大坂と紀州をむすぶ要衝の城下町として栄えます。なお岸和田といえば、熱狂的なだんじり祭りで有名ですが、そのだんじり祭りは3代藩主の岡部長泰が京都伏見稲荷を岸和田城下に勧請し、五穀豊穣を祈っておこなった稲荷祭りが起源とされています。今日はそんな歴史をもつ岸和田の街を歩いてみます。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 岸和田駅からスタート 岸和田古城 南海岸和田駅からすぐ近いので、まずは和田氏が拠点としていた昔の岸和田城に寄ってみます。と言っても、いまではなにも遺構はなく、ここに城がありましたと告知する石碑があるだけ。しかも名前は「岸和田古城」となっています。 寺町筋 本徳寺 南海電車の高架下をくぐって現在の岸和田城へ向かう途中、すこし回り道して寺町筋に寄ってみました。目的は本徳寺。この寺は、(あくまで一説では)明智光秀の長男・光慶が出家して南国梵桂を号し開いた寺と伝わっています。そのためこの寺には明智光秀の唯一現存する肖像画があります。残念ながら2020年に27年ぶりかで特別公開されたそうなので次回いつ見られるかはわからないのですが、寺の境内だけでも見ておくつもりで訪ねてみました。しかし境内も非公開のようで、これこそまさに門前払いでした。 岸城神社 岸城神社... Read More | Share it now!
日本でいちばん古い道・山の辺の道をあるく
【奈良県・天理市~桜井市 2022.12.3】かつて奈良盆地の東南に位置する三輪山の麓から東北の春日山の麓まで通じる、日本書紀にも記された古代の道がありました。山々の裾をぬうように道が走っているからか「山の辺の道」と呼ばれ、全長は26km。そのうち三輪山のある(いまの)桜井市から古墳や神社をたどるように続く天理市までの17kmの道のりが、よく整備され歴史探訪の道とした紹介されています。確認出来るかぎりでは日本でいちばん古い道とのうたい文句ですが、古墳や神社はわかるにしても古代よりはるかに後に建てられたはずの寺院までも路程にふくまれており、実際のところどこまでもとのルートを再現できているのかは疑問です。しかし堅いことは抜きにして、ともかく歩いてみようと思わせるだけの魅力ある古道です。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 天理から歩きはじめる 天理教の教団施設がならぶ 過去に2度ほど桜井側から歩いたことがあるので今回は天理側から歩きはじめることにします。 天理市は駅(JR、近鉄とも同じ駅舎)から東口へ出てそのまま進むと、みごとに天理教の教団施設が立ち並び、まるで宗教都市の観があります。誤解のないように言っておきますと、掃除は行き届いているし、いたって静かで穏やかな町です。 路上には山の辺の道の標識 石上神宮 回廊から楼門 楼門を入ると拝殿へ 拝殿と本殿(奥) 国宝・(摂社)出雲建雄神社拝殿から楼門 石上神宮(いそのかみじんぐう)は日本最古の神社のひとつと言われています。建立は一説では崇神(すじん)天皇の勅命によるとのことですが、その崇神天皇は紀元前100年頃に天皇位についていたと考えられる方です。わかりやすく言うと、もとは朝廷の武器庫であり、神武天皇が国の平定の際につかわれた神剣・韴霊(ふつのみたま)、さらにスサノオノミコトがヤマタノオロチを退治した際に使った天十握剣(あめのとつかのつるぎ)なども保管されていたそうで、その剣にやどる神霊を祀るためにこの石上神宮がつくられたといわれています。また摂社の出雲建雄神社は三種神器のひとつ草薙剣の神霊を祀るためのものです。 神使の鶏 石上神宮は鶏を神の使いと崇めており、烏骨鶏などのやたらに元気のよい鶏が境内を歩き回っています。鳥類の苦手な人には恐怖かも知れませんが、恐れるのではなく畏れ多いとかしこまって参拝してください。 夜都岐神社 山の辺の道をあるく... Read More | Share it now!
福知山の古社・古刹をたずね歩く
【京都府・福知山市、綾部市 2022.11.28】古い寺のことをそのまんまですと、古寺(こじ)といいます。しかし古寺には、古びた寺、古くて荒れた寺というようなネガティブな意味合いも含んでいるようです。名刹(めいさつ)とは、由緒ある有名な寺のことを言います。「由緒ある」とか「有名」とはなにを基準にして言うのかがはっきりしませんが、なんとなく感じているのは、新興宗教でないものを「由緒ある」とし、その中でも空海(弘法大使)が開山に直接かかわったとか織田信長の菩提寺だとか「名の有る人が関係している」、あるいは寺そのものが美しくて訪れる人が絶えない「ひろく名を知られた」というような場合に「有名」としているように思います。ただし名刹には「古い」ことは必須ではありません。由緒ある古い寺のことは古刹(こさつ)と呼ぶのが一般的です。ただし古刹は「有名」であることを条件として含んでいません。古い神社のことはあまり一般的ではないですが、古社と呼ぶようです。ただし「古寺」のように、古びたとか古くて荒れたといったネガティブな意味合いはどうやら無いようです。なぜかといえば、これは推測ですが、明治初期の神仏分離令により神道(神社における日本古来の信仰)を国教とし、神社は国がまもる(管理する)ものとしたため、国が管理しているのだから古いものはあっても古びたものはない、ましてや古くて荒れたものがあるはずがない、という半強制的な発想からではないでしょうか。それでは名刹、古刹にあたる表記はといえば、神社は社格とか社号とかよばれるもので厳密にランク付けされており、世間一般の価値判断で由緒あるとか有名とか決める余地はない、ということになります。 さて前置きが長くなりました。今日は福知山とその近郊の古刹と古社を回れるだけ回ってみようと思います。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 元伊勢外宮・豊受大神社 元伊勢外宮 中央が拝殿、奥が本殿、両脇は別宮、後方に末社 元伊勢とは天照大神(あまてらすおおみかみ)をはじめいま伊勢神宮に祀られている神様が、伊勢へうつる前に鎮座した、言うなれば伊勢の神様たちの故郷のような場所をいいます。たしかにとんでもなく由緒ある神社ではありますが、日本の昔の神様たちは旅から旅を続けていたため、この「伊勢の故郷」がいま日本中に自称他称ふくめて60以上もあるそうです。 そのなかでもここ福知山の元伊勢は、立派な建物が残っているぶん見ごたえあるのではないでしょうか。元伊勢外宮は、もともと衣食住の守り神である豊受大神(とようけだいじん)を祀っていたところ、天照大神のお告げにより共に伊勢に移られたそうです。なにかこの地に不満があったのでしょうか? そこのところは古い話なのでわかりませんが。 本殿... Read More | Share it now!
明智光秀を慕ってきた街・福知山を訪ねる
【京都府・福知山市 2022.11.27】明智光秀が築いた城はたくさんあります。居城としての機能も備えた坂本城、丹波亀山城、戦の拠点とする目的でつくられた金山城、周山城。そして本能寺の変の3年前、光秀が西丹波統治に拠点として築いたのが福知山城です。光秀はこの地を治めるにあたって、領民に課す地子銭(税)を免除するだけでなく、城下町の整備にも力を入れます。たとえば川沿いに竹藪をつくることで治水につとめたそうで、この竹藪はいまでも明智藪と呼ばれています。この明智藪、元は違う呼び名だったそうですが、明智光秀の功績をたたえる意味でそう呼んで市民から親しまれてきたということで、福知山で光秀がいかに大切にされてきたかが窺えます。そもそも福知山を訪ねてみようと関心を持ちはじめたキッカケは、市内にある御霊神社の存在です。御霊神社とは、生前に人々から慕われていたひとが冤罪などにより貶められた場合に、その人の霊を祀ってなぐさめるもので、ここ福知山の御霊神社には明智光秀が祀られています。すなわち本能寺の変により光秀が逆臣とされたのは冤罪だと、福知山ではむかしから考えられていたということになります。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 福知山城へ JRの車窓から福知山城が見えました(中央) JR福知山線の黒井駅から30分ほどで福知山駅に着きます。列車が駅ホームに入る直前ぐらいに窓の外を眺めていると福知山城がばっちり見えます。 市役所前 福知山駅で下車してさっそく城に向かいます。徒歩15分ぐらいでしょうか。駅から10分ほど歩いてくると市役所があり、このあたりから城の全体が見えてきます。 福知山城 北東に登城口があり、ぐるっと回って南面 さらに回って西面... Read More | Share it now!
モミジの永観堂へ、ライトアップを見に行く
【京都市・左京区 2022.11.21】今秋は前々回の高取城と前回の醍醐寺と、紅葉狩りを堪能してきたので、今日は趣向をかえて紅葉のライトアップを見に行くことにしました。めざすは、むかしから「秋はモミジの」とまで言われてきた、紅葉のメッカ(?)京都・東山の永観堂です。京都の人気紅葉スポットでは毎年トップ争いの常連で(対抗は東福寺、清水寺)、関西全域にひろげても常に上位(トップは常に滋賀・高島市のメタセコイア並木)に入っている超有名なところですので、いかにもミーハーな選択ではありますが、そこは「秋はモミジの永観堂」ということで、ホイホイと出かけます。なお京都・東山の永観堂と書きましたが、永観堂は東山区には属さず、その北の左京区にあります。しかし平安神宮や銀閣寺もふくめ比叡山より南は東山界隈と呼ばれており、いわゆる「東山」と東山区は同じではないようです。 紫のマークが今回訪れた場所です。 モミジの永観堂へ 京セラ美術館 京都市美術館がリニューアルした際、ネーミングライツを京セラに売ったもので、京セラが運営する美術館ではありません。ところでリニューアル後、来館者はいくらか増えたのでしょうが、京都市の負担は激増しているそうで、これも自治体破産もあり得るとウワサされる京都市にはアタマの痛いところでしょう。 総門 永観堂の正式名称は「(山号)... Read More | Share it now!
樂美術館から紅葉の醍醐寺へ
【京都市上京区、伏見区 2022.11.15】今日は樂焼の窯元・樂家の作品をみられる樂美術館へ、「利形の守・破・離」をテーマに季節展示会を開催しているので先ずはそこを見学し、それだけで帰るのはもったいないので、やや大回りになりますが、山科からすこし南、伏見区にある醍醐寺で紅葉を堪能しようと思っています。 まず樂焼について。茶聖といわれた千利休は、茶器(茶碗や茶釜や茶壺など)に高価な名物を使うのではなく、また豪華でなくきらびやかでなく、むしろ簡素な中に深い味わいのある精神的な豊かさをもとめて、茶の湯の世界に新しい価値観を想像します。その完成形が「侘び茶」ですが、茶碗といえばそれまで唐物とよばれるブランドものが絶対人気だったところに、ロクロを使わず手で捏(つく)ねヘラで削って形をつくり、彩色をせず、釉(うわぐすり)だけをかけて焼く、たいへんシンプルな茶碗を登場させます。これが樂焼きであり、釉のかけ方と焼き方の違いで仕上がりの色が変わり、黒樂茶碗と赤樂茶碗があります。初代陶工は長次郎といい、もとは瓦職人だったようです。千利休と瓦職人の長次郎がどこでどうして出合ったのかは不明なのですが、ともに惹かれるものがあり文字通り二人三脚で試作をつづけ、ついに黒樂茶碗を完成させます。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 樂美術館 樂家宅と隣接する樂美術館 樂美術館の所蔵品は、樂焼きの後継者たちが手本として常に触れることができるように、代々の作品を残してきたものが中心になっています。今回の展示会のテーマは「利形の守・破・離」利形とは利休の美意識をもとにした様式美守は伝統を守り継承すること破は伝統を破り新たな挑戦離は守・破から脱皮し、自由な精神にいたること代々(初代から16代目まで)の作品を、それぞれ守・破・離の段階ごとにわけて展示してありました。 晴明神社... Read More | Share it now!