【兵庫県・神戸市 2022.1.22】なぜか六甲山の北面は「裏六甲」と呼ばれます。中国地方の瀬戸内側(南側)が山陽で、日本海側(北側)が山陰であることを考えるなら、「裏」と呼ばれても辛抱しなければならないのかもしれません。しかしこれも個人的な意見ですが、山登りの魅力として評価するなら、裏六甲の方が瀬戸内側より数段魅力に満ちていると思います。その裏六甲では、年によって氷瀑が見られます。今冬は寒さがきびしく、その氷瀑が見られるとの情報を得たので、さっそく出向きました。 魚屋道から炭屋道 登山口(魚屋道) 有馬温泉の街を上へ上へとあがって行くと、かんぽの宿があります。そのかんぽの宿の向かってすぐ先に、登山口があります。魚屋道(ととやみち)の名があります。むかし魚屋さんが瀬戸内海で獲れた魚を、この道をつかって有馬温泉まで運んでいたそうです。山道というより林道にちかいしっかりした道です。 炭屋道への分岐 ここから炭屋道に入ります。その名のとおりこのあたりに炭焼き場がたくさんあったそうで、魚の運搬から炭焼きに代わるように、道も林道もどきから山道にかわります。 河原をのぼる 河原に出てきました。最初の滝、百間滝にむかって河原をあがって行きます。 ほとんど道がない... Read More | Share it now!
秀吉も愛した有馬温泉の地をあるく
【兵庫県・神戸市 2022.1.22】六甲山の北面ふところに抱かれるかのようにある有馬温泉。神話のなかにも登場し、確実な記録としては1500年ほども前に僧・行基が隆興につとめたと残されている由緒ある温泉地です。「裏六甲」と呼ばれる六甲山北面の登山の際にはその入り口にもなります。今日は裏六甲の氷瀑を見に行きますので、登山にかかる前にまずは有馬温泉を歩いてみたいと思います。 有馬温泉 有馬温泉駅をおりて最初に目に入るのがこの風景です。いまは工事をしていますが、有馬川の谷部分が公園になっていて、真ん中をながれる小川は温泉水が流入するため温かいです。 秀吉の像 最初の写真を撮ったのが「太閤橋」からで、その橋のそばに秀吉の像(茶人・太閤像)があります。 有馬温泉と秀吉http://alimali.jp/2016/12/09/hideyoshi-arimaonsen/ すこし歩くと「ねねの橋」が見えてきます。 たもとには「ねねの像」 金の湯 泊り客でなくても誰でも入れる「金の湯」。いわゆる外湯です。ほかにも「銀の湯」があります。 有馬温泉の泉質と効能https://www.yukoyuko.net/yukotabi/archive/wu35329 温泉寺 温泉寺 温泉寺の本尊は言うまでもなく薬師如来ですが、ほかにも有馬温泉を見出し発展させた行基と、その後の衰退からの復興に尽力した仁西上人、各々の像が祀られています。 有馬温泉の歴史http://www.arima-onsen.com/history.html 有馬稲荷神社 有馬稲荷神社 有馬稲荷神社の長い階段 かんぽの宿 有馬温泉の街中をずっと上まで上がってくると、かんぽの宿があります。ここの大浴場も泊り客でなくても利用でき、入浴料は500円と格安。混んでいないので(すくなくともいままでに混んでいたことはない)のんびり有馬の湯につかれます。瀬戸内側(南側)から六甲山にとりつきこちら側へ下りてきた時にはいつもここで温泉に入って帰るのですが、今回は素通りします。 登山口 かんぽの宿のむかってすぐ先に登山口があります。それでは山へ入って行きます。 【アクセス】神戸電鉄・有馬温泉駅より。 ほかにも大阪・神戸などからバス便あり【料金】温泉に入らないのであれば不要【満足度】★★☆☆☆ 有馬温泉は温泉を楽しむところであって、観光見物にはむきません。 ... Read More | Share it now!
ラストサムライでも使われた書写山・圓教寺を訪ねる
【兵庫県・姫路市 2022.1.16】圓教寺は天台宗の別格本山(宗派内でとくべつな位置づけをされた寺)です。しかしハリウッド映画「ラストサムライ」や大河ドラマ「黒田官兵衛」など多数の映画、テレビドラマの撮影に使われたという方が興味をひくかもしれません。境内は、仁王門周辺の東谷、摩尼殿周辺の中谷、本堂などがある西谷に区分されます。 東谷 仁王門 東坂登山口から1時間で仁王門に着きました。これより先は圓教寺境内であることを意味しています。本来ならば誰もが門をくぐって気持ちをあらためるものですが、すぐ横に車の通れる道があり門をくくらずに入ってしまう人がいるのは、「どうなってんだ」というところです。 すごい老木がありました。葉が茂っているのでまだまだ現役です。 中谷 摩尼殿 摩尼殿は観音堂のこと。マニは梵語で「如意」のこと。如意とは自分の思いのままにすることを言います。 摩尼殿の柱の落書きhttps://shimirubon.jp/columns/1674573 摩尼殿は清水寺とおなじ舞台づくりです 摩尼殿 西谷 ➀大講堂から食堂 ②食堂から常行堂 ③食堂から大講堂をふり返る 大講堂を背に常行堂と食堂をみる 通称「三之堂」をぐるっと回ると、このような景色になります。 大講堂 大講堂は2層の1階、屋根は入母屋造りです。 社寺の屋根のかたちhttps://nara-atlas.com/naraarch-glossary/roof-style/ 大講堂の本尊・釈迦如来像 本多家の廟・墓 圓教寺はもとは2万6千石をほこる大寺院でしたが、秀吉が播磨を統治したことからわずか500石に減封されます。その間に寂れてしまうのですが、江戸時代になり徳川家の四天王・本多忠勝(平八郎)の長男・忠政が姫路を収めることになり、そのとき荒れはてた圓教寺の復興につとめたということです。 鐘楼 鐘楼はすこしはなれた場所にありました。 弁慶の伝説ものこる圓教寺https://www.nikkei.com/article/DGXMZO24322980W7A201C1AA2P00/#:~:text= 秀吉の本陣跡 秀吉が播磨を平定するにあたって、軍師・黒田官兵衛のすすめでここ書写山に本陣をうつします。その現場へ行ってみたいと思います。標識などまったくありませんが、大講堂の右側にある坂を道なりに歩いて行くと15分ほどでたどり着きます。 秀吉の本陣跡 右の壁は残念ながら秀吉時代の遺構ではありません。貯水槽です。 秀吉の本陣跡行き方https://shimirubon.jp/columns/1673791 秀吉と官兵衛のみた風景 ここに陣取り、どこからどのような狼煙(のろし)が上がるかを見守っていたようです。 【アクセス】東坂登山口から1時間ほどで仁王門につきます。境内はずいぶん広いので、ざっと回るだけでも2時間は要します。【拝観料】500円【満足度】★★★★☆ ... Read More | Share it now!
姫路城から夢前川をわたり書写山にのぼる
【兵庫県・姫路市 2022.1.16】姫路城を見たあとは、圓教寺のある書写山に東坂登山口から登ってみたいと思います。書写山は秀吉が播磨の国を攻め落してゆくうえで、軍師・黒田官兵衛の進言でその山上に陣をしいた山でもあります。 姫路城をあとにして 姫路城をあとにして 姫路城をあとにして書写山まで歩きます。7kmほどの行程ですので1時間少々と計算しています。楽しい道のりなら良いのですが。 こんな普通の道を歩いて行きます。前方に見えるのが書写山です。 夢前川をわたる 夢前川と書写山 書写山の全景が見えてきました。低山ですし(標高371m)山容を見たかぎりでもハイキング気分で登れそうです。 手前を流れるのは、「夢前(ゆめさき)川」というすてきな名前の川です。 なかなか素敵な「夢前川」の名の由来http://nyabecch.blog47.fc2.com/blog-entry-1527.html スサノオノミコトを主祭神とする八王子神社 東坂登山口 東坂登山口 東坂登山口に着きました。なんだか不気味な光景です。 バス停も人物もダミーです。なぜここにこんなものがあるのかまったく不明。 書写山の登山道はこんな感じで、 ハイキング気分で登れます。 「樫のきずな」 樫の木は生命力がつよいのか、あるいは妙な習性があるのか、このように枝が他の幹にひっつくとか、幹同志でくっついてしまうとか、山中でよく見かけます。 森林破壊がすすむと、やせた土地にも適応できる赤松が増えるそう。だから自然破壊のバロメーターになると書いているけど、だったら赤松の立場はないなあ。 砥石坂... Read More | Share it now!
日本一美しい(と思う)姫路城をたずねる
【兵庫県・姫路市 2022.1.16】個人的意見では、日本でもっとも美しい城、もちろん世界遺産にも登録されている姫路城を訪ねます。最初は赤松則村なる武将が、鎌倉幕府に対抗する後醍醐天皇の側について挙兵し、標高40m余の小高い丘・姫山に砦を築いたのが基です。これが1333年のこと。それからおよそ100年後の1441年、断絶、再興をくりかえしふたたび播磨の国に返り咲いた赤松氏は、従属する武将、小寺氏にこの姫路城の城主をまかせます。さらに時が流れその小寺氏の家臣・黒田重隆が姫路城の城主となるのですが、重隆の息子が黒田孝高(官兵衛)です。孝高の時代に黒田家は頭角をあらわし、やがて織田信長に臣従、信長の家臣である羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の軍師をつとめるようになります。 姫路城へ JR姫路駅から真正面に姫路城がみえる JR姫路駅前からバーンと姫路城が見えます。きっと駅から姫路城へと目抜き通りがつらぬくように街づくりをしたのでしょう。通りの名も「大手前通り」となっています。 なぜ姫路城は戦火を免れたのかhttps://castle-himeji.com/2017/07/reason-why-himeji-castle-remained/ 街中にも石垣が残り、説明板も随所にあります。 真正面に姫路城 国道2号線をはさんで姫路城と相対します。 姫路城は5層6階の大天守と3つの小天守がつながる連結式の城郭です。 姫路城を詳しく知るhttp://himejicastle-tour.jp/ 大手門から入城 桜門橋と大手門 姫路城のことをもっともっと詳しく知るhttps://www.city.himeji.lg.jp/jyokakuken/index.html 大手門を入ってすぐに見える姫路城 右側に回り込んで見上げる 黒田官兵衛普請の石垣 羽柴秀吉がこの姫路城を拠点として播磨平定に乗り出した時代、軍師の黒田官兵衛に命じて普請させた石垣部分だそうです。すなわち姫路城のなかでも、残っているものとしてはもっとも古い造作のひとつになります。 石垣の割れ目ではなく、継ぎ目 石垣といえば、もうひとつ興味深いものがあります。石垣に継ぎ目があります。これは秀吉から秀長へとつづく羽柴時代につくられた石垣に、池田輝政からはじまる池田時代につくられた石垣が繋がれた結果だそうです。 渡り櫓 渡り櫓 櫓(やぐら)にもいろいろあって、これは「渡り櫓」と呼ばれるものだと思うのですが、ここに入れるそうです。追加料金は要らないそうなので、ちょっと入ってみます。 櫓の内部... Read More | Share it now!
由緒あるのに知名度のひくい西教寺をたずねる
【滋賀県・大津市坂本 2022.1.9】滋賀県大津市にある西教寺は、延暦寺(天台宗総本山)、三井寺(天台寺門宗)とならぶ天台真盛宗の総本山で、400以上の末寺を有します。起源はふるく聖徳太子がみずからの師のために建立したとも伝えられています。(真偽は不明)確かなのは、室町時代に比叡山で学んだ僧・真盛が入ってから隆盛したようです。この西教寺は明智光秀の菩提寺でもあります。それでは西教寺を訪ねてみます。 西教寺 西教寺・総門 西教寺の総門は、明智光秀の居城であった坂本城の城門を移築したものだそうです。総門から先へつづく参道がいい雰囲気です。明智光秀と西教寺https://shigatoco.com/toco/saikyoji/ 勅使門から宗祖大師殿 勅使門 総門から参道をあるいて突き当りにあるのが勅使門です。勅使門とは、そもそもは天皇や天皇から派遣された勅使を迎えるときにだけ開かれた門です。ですから今はかたく閉ざされています。 宗祖大師殿・唐門 宗祖大師殿 宗祖大師殿は、西教寺にとっては中興の祖ともいえる真盛上人を祀っています。 本堂・客殿 本堂と手水舎 本堂を横から見る... Read More | Share it now!
明智光秀も詣でた愛宕神社へ参る
【京都市・右京区 2022.1.2】京都市・嵐山の北にそびえる愛宕山。その山頂に鎮座する愛宕神社へ向かいます。 愛宕神社へ 明智越えから明神峠を経ての登山道は、なんとまあ、こんな雪道になりました。 JR亀岡駅から歩きはじめて4時間、愛宕山山頂(正確には山頂ではないので、ほぼ山頂)の愛宕神社に到着しました。 山門へ まずはこの階段のぼりからはじめます。亀岡駅からずっと雪のつもった山道を上がってきたのでいい加減脚が疲れており、正直なところこの階段はきつい。 上り下りする人の姿もチラホラ 横写しの写真よりも縦の写真の方が、きつさが伝わってくるかと思います。 山門に到着しました 愛宕神社・山門 なぜ神社なのに山門があるかというと、神仏習合の時代には愛宕権現を祀る「白雲寺」として存在していました。 社殿・本殿 愛宕神社・社殿 ここ京都愛宕山の愛宕神社は、全国に約900ある愛宕神社の総本社ですが、山頂という場所ゆえか意外に小さいんです。 火の神をまつる京都の霊山https://thegate12.com/jp/article/367 愛宕神社・本殿 愛宕神社・若宮 ここ愛宕神社は日本の神々の先祖にあたる、イザナミノミコト(伊弉冉尊)ほか五祭神を祀っていますが、若宮に火の神であるカグツチノミコト(加具土命)を祀っていることから火除けのご利益で親しまれています。また勝軍地蔵菩薩が本殿に祀られていることからむかし戦国武将が戦勝祈願に訪れたそうです。明智光秀も本能寺の変のまえにここを訪れ、連歌の会を催し、みずから「ときは今 あめの下しる 五月かな」と事変を予兆させるかのような発句を詠んだのは有名な史実です。 明智光秀と愛宕神社https://www.kameokacci.or.jp/akechikamemaru/mitsuhide/mitsuhide1.html 愛宕百韻で、光秀は本能寺の変を予告したのかhttps://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20210210-00221808 参道を下る 社殿から山門を見下ろす この階段は雪がおおかた凍っていて、とにかく滑りやすくて危険でした。 参道 雪をかぶった石灯篭がかわいい 間もなく日が暮れそうなので、この雪をかぶった階段道を駆け下りました。 【アクセス】明智越えルートを通ると、JR亀岡駅から徒歩約4~5時間【拝観料】必要なし【満足度】★★★☆☆ ... Read More | Share it now!
明智越えから明神峠を経て愛宕山にのぼる
【京都市北部 2022.1.2】亀岡市街より明智越えを文字通り「越えて」愛宕山にのぼってみます。愛宕山には過去3度のぼりましたが、明智越えをたどってゆくのははじめてです。 登山口へ SANGAのスタジアムがある JR亀岡駅から亀山城とは反対に、橋をわたって北へとむかいます。 大堰川 大きな川を渡ります。標識には「大堰川」と書いてありました。この川を船で下るのを「保津川下り」といいます。さらにずっと下って京都・嵐山あたりでは「桂川」になります。 明智越えへ向かって脇道にはいると雪が残っていました。 明智越え 明智越えスタート地点 明智越え ハイキングhttps://www.kameoka.info/course/standard/akechigoe.php 明智越えの道 明智光秀の軍勢13,000は信長急襲のため3隊にわかれて本能寺にむかい、そのうちの1隊がこの明智越えを通ったとも言われていますが、その事実はありません。なぜ明智越えといわれるかといえば、光秀が愛宕山の山頂にある愛宕神社に参詣する際にはこの道を通っていたからでしょうか(?) 明智光秀はどう動いたのかhttps://www.kk-bestsellers.com/articles/-/1366/ 進むにしたがい じょじょに雪量が増えてきます 明神峠への分岐点 「明智越え」はここから分岐して保津川峡方面へむかってゆきます。愛宕山山頂をダイレクトに目指したいので明神峠へとむかいます。 このあたりから雪が深くなってきました。 明神峠へ 雪がずいぶん深くなり歩きづらい 明神峠付近から愛宕山をのぞむ 愛宕山 登山https://yamap.com/mountains/69 明神峠でいったん車道に出ました。 愛宕山山頂へ 雪道をすすむ さらに雪道をすすむ 雪道を歩きながら 雪道をすすむ... Read More | Share it now!
明智光秀が築いた丹波亀山城をたずねる
【京都・亀岡市 2022.1.2】明智光秀が近江坂本につづいて織田信長から拝領した丹波の国、その統治のための拠点として築いたのが亀山城です。 亀山城址へ JR亀岡駅前 JR亀岡駅の改札を出ると、その先に亀山城址の杜の茂みが見えます。 明智光秀ブロンズ像 近付いてゆくと、「明智光秀公像」がありました。以前きた時にはなかったのですが、しらべてみると令和元年建立とのこと。 後方の茂みは亀山城址です。 明智光秀と丹波亀山城https://www.kameoka.info/mitsuhide/kameyama-castle.php 濠の跡 濠の跡が池になって残っています。 一般道に沿ってのこる石垣 かつての亀山城の、もっとも外側にあたる石垣ではないでしょうか。 亀山城址内 宗教法人・大本 現在この亀山城は宗教法人・大本が管理しています。というか、廃城となり荒れ果てていた亀山城の敷地をそっくり「大本」が買い取り、整備して自らの活動の場としているようです。亀山城を見学の際には、先にこの社務所(?)で入場料(拝観料)300円を払って、あとは自由に見学することになります。 亀山城・石垣 亀山城・石垣 城内にはたいへんきれいな状態で石垣が保存されています。もっとも石積みがあまりに整いすぎているので、明智光秀の時代のものではありません。この亀山城は明智光秀のあと、羽柴(豊臣)秀吉がその存在を重視し家臣を城主として入れた一時期もありますが、さらに江戸時代になって徳川家康の命で、築城の名手といわれた藤堂高虎が中心になって大修築したそうです。亀山城の石垣https://kojodan.jp/castle/193/memo/1202.html 案内板 宗教法人の私有地ゆえ「神苑案内図」となっています。ところで亀山城が敷地ごと宗教法人の所有になったこと自体がよいのか悪いのかは別にして、さずがに管理は行き届いており、新年早々気持ちよく見学できました。 丹波亀山城址と大本教の歴史https://kyotofukoh.jp/report979.html 【アクセス】JR亀岡駅より徒歩10分【入城料】300円... Read More | Share it now!
本能寺の変をなぞりながら京都市内を歩く
【京都市内 2022.1.1】織田信長は天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、家臣である明智光秀の謀反により洛中の滞在先本能寺にて非業の死を遂げます。天下統一まであと一歩というところでしたが、そこに至るまでには明智光秀の多大な尽力があったことも事実で、また光秀が弑逆しなくとも、他の誰かの手で討たれていただろうとも言われています。その本能寺の変にまつわる地を歩いてみました。 本能寺へ 京阪電車三条駅を出てすぐに鴨川をわたります。 高瀬川 木屋町通り沿いの高瀬川に舟入が残っています。かつて船で荷を運んでいたころ、この場所で荷の積み下ろしをしたり、船の方向転換をしていました。 現在の本能寺 御池通りをまっすぐに歩いて行くと、じきに本能寺につきます。この本能寺は信長が討たれた本能寺ではなく、秀吉が信長を弔うため別の地にあらためて建てたものです。 本能寺・本殿 本殿の裏手にある信長公廟 本能寺跡へ 蛸薬師通り 蛸薬師通をどんどん西に歩き、旧本能寺へとむかいます。京都には画像の左にあるような古民家をつかった店がたくさんあるのですが、コロナの影響でこの建物も貸物件になっていました。 本能寺があったことを伝える石碑 さんざん探してやっと見つけました。といっても、本能寺跡地はすべて宅地となり、いまは「ここにあったんだよ」と伝える石碑があるのみです。うしろの建物は老人介護施設でした。 本能寺跡https://rekishidou.com/honnouji/ 織田信長と本能寺https://toyokeizai.net/articles/-/397458 二条殿跡地 信長の嫡男・信忠は、本能寺での変事をうけ、滞在していた妙覚寺から急遽本能寺へと向かいます。しかし明智軍との圧倒的な兵力差(明智軍1万3千... Read More | Share it now!