織田信長

2023.2.16記 織田信長の像 織田信長の像はいくつもありますが、愛知県清須市の清洲城ちかくにある像は、正室・濃姫と向かい合うように立っており、また人間離れした偶像的なものでもなく、しげしげと見とれてしまいました。画像は【aruku-72】よりhttps://yamasan-aruku.com/aruku-72/ 信長の死体はそこにあった 最初に解答のようなことを言ってしまいますが、信長の死体はたしかに本能寺の現場にあったはずです。いえ、ありましたと断言できます。信長は明智光秀の軍勢が本能寺境内に乱入してきた際、みずから弓や槍をとって防戦します。しかし防ぐことも逃げることも不可能と判断すると、すみやかに建物の奥へ引きこもります。そして近習のものに急ぎ建物に火を放つよう命じたうえで、腹を切って自害します。建物を燃やすだけではなく、自分の遺骸にも油をかけて見分けがつかないまで焼くことを指示したと思われます。それゆえ戦闘がおわり、燃えあがる建物が鎮火して信長の死体探しがはじまった時には、黒焦げの死体はあるものの、どれが信長なのか到底判別できない状態だったでしょう。明智光秀にとっては、仮に背格好からそれが信長の死体に違いないと推測しても、決定的な証拠がなければそれは信長らしきものであって、信長ではありません。かりに光秀が秘密のDNA鑑定のような検査キットを持っていて、これこそが信長の死体だと自分なりには断定できたとしても、すべての人に対してホラこれが信長の死体ですよと目にみえる形で示せなければ意味がありません。言い換えるなら、信長としては絶対に自分の死体を、信長の死体とわかる形で残したくなかったということになります。それではなぜ信長は、死ぬ間際になってまで自分の死体の処置にそこまでこだわったのでしょうか。その謎を探っていけば、本能寺の変の闇がすこしは透けて見えてくるようにも思います。 本能寺跡をしめす石碑 当時の本能寺の跡地には住宅や介護施設、学校が立ち並び、面影はなにもありません。画像は【aruku-36】よりhttps://yamasan-aruku.com/aruku-36/ 京都市役所近くにある本能寺 いまある本能寺は、信長の死後10年ほどたったころ、秀吉の命により移築させられたものです。画像は【aruku-1】よりhttps://yamasan-aruku.com/aruku-1/ 信長が明智光秀に出陣を命じたときの状況 本能寺の変の二ヶ月ほど前、信長は長年の宿敵である甲斐の武田氏を滅ぼし、ひとつ肩の荷がおりたのか東海地方をおさめる徳川家康の接待を受けながら富士山見物を楽しみます。そのときの家康の心のこもったもてなしに感激した信長は、まだ築城まもない安土城へ家康を招待します。このとき饗応役を受けもったのが明智光秀です。ところが家康が安土城に到着したのに合わせたかのように、備中高松城(いまの岡山県)をはさんで西国の雄・毛利氏の軍勢とにらみ合う羽柴秀吉から援軍の要請が急使により届けられます。これは本能寺の変の2週間前のこと。信長、光秀、家康、秀吉の四名が直接、間接の違いこそあれここで交錯することになります。こういったところが歴史探訪の醍醐味で、多くの作家や歴史研究者が、本能寺の変の真相にこの四名をからませて推理を展開しています。ここでは記録されている史実にしたがって話をすすめます。このころ信長がもつ主要な軍勢は、たとえば柴田勝家は上杉に対抗して北陸方面へ出陣中で、滝川一益は関東へ、次男の織田信雄は伊勢で治世をすすめており、三男の織田信孝は重臣・丹羽長秀を後見役に四国へ長曾我部氏を攻めるべく準備中でした。そして羽柴秀吉は中国地方におり、長男の織田信忠は武田征伐の一番の功労者で、このときは軍務を解かれ、すなわち配下の軍勢は居城のある岐阜にいました。そうなると即座に動かせるのは、明智光秀の1万3千の軍勢しかありません。しかも明智軍は信長配下では1,2を競う精鋭であり、さらに信長は西国を平定してゆく上で、山陽側は秀吉に、山陰側は光秀に担当させるよう企図していたため、ここで明智軍を中国地方へ向かわせるのは、早いか遅いかの問題でしかありません。信長は即座に光秀に対して家康饗応の役を解き、秀吉援護のための出陣を命じます。 安土城址... Read More | Share it now!

神社・仏閣,城郭・史跡,愛知

【愛知県・名古屋市 2022.10.26】いまの名古屋城の地には、かつて織田信長が生まれたとも育ったともいわれる那古野城がありましたが、両者には繋がりがありません。それゆえ名古屋城は比較的新しく造られた城ということになります。徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利したのは、すでに60歳を目前にしたときでした。自分が天下人となり、さらに盤石な基盤を築くためにはすべてを急がねばなりません。自分の余命とのにらみ合い、とでもいった心境だったのではないでしょうか。家康は征夷大将軍となって江戸幕府をひらくと、西国(豊臣家およびその勢力下の大名が多い)への備えとして西日本の要衝となる地へ新たに城を築き、自身の身内や信頼できる家臣を移り住まわせます。名古屋城はそのなかでも最大規模の、象徴的な存在でした。城普請は、かつては秀吉の恩顧を受けていた加藤清正、福島正則、黒田長政、毛利秀就、池田輝政ら外様大名に命じ、石垣の組み上げだけで言えば一年足らずで仕上げています。そして天守閣が築かれるのが1612年で、大坂冬の陣がおこるのが1614年ですから、この名古屋城の完成をもって満を持し大手を打ってきたかのようです。その後、名古屋城は尾張徳川家が17代にわたって城主をつとめながら尾張の中心的存在として繁栄します。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 名古屋城へ 名古屋城はまだ先ですが、街中に城普請の跡が残っています。近くに「○○三の丸幼稚園」があったので、かつてこのあたりが三の丸だったということでしょう。 陸橋をわたっていると、ちょうどいい具合に天守閣が見えました。なんとなく計算してやっているようですが、これもサービス精神ゆえということで。 正門 まずは正門から入ってみます。それにしても看板、案内板が多いし、このあたりでは名所旧跡には三角コーンは必須とでも考えているのでしょうか。 西の丸 西南隅櫓から大天守、必須アイテムの▲コーン 西南隅櫓から東南隅櫓 東南隅櫓 石垣 石垣はもちろんですが、各隅櫓も当時のものが現存しているそうです。明治維新において全国に廃城令が出されますが、ここ名古屋城は市民からの強い要望で存続が決まります。しかし明治時代に起きた濃尾地震で石垣と建物の一部が崩壊、さらに大戦時の空襲で天守閣が消失してしまいました。 本丸 表二之門を入ると立派な虎口があります。 小天守と大天守 大天守 小天守と大天守 空襲で焼失した天守閣は、残っている写真や資料をもとにコンクリートで「復元天守」として1959年に再建されました。しかしいまは耐震強度の問題とかで入場できなくなっており、木造による再建を検討しているそうですが、関係者間ですったもんだしており、いまのところ見通しが立たないようです。 2018年に再建された本丸御殿 本丸御殿も空襲で建物はすべて焼失しましたが、障壁画などは取り外して他の場所で保管していたため難を逃れ現存しています。ただしこの本丸御殿を飾るそれらは、すべてデジタル技術を駆使してつくった模写です。京都の元離宮二条城の本丸御殿とおなじで、本物は宝物館で(期間限定で)見られます。 表書院 上洛殿 上洛殿 東二之門 二の丸とつながる東二之門 清正石... Read More | Share it now!

城郭・史跡,愛知

【愛知県・清須市 2022.10.26】清洲城は、室町時代に尾張、遠江、越前守護の名門・斯波氏により築城され、守護所が移ってきてからは尾張国の中心地となります。守護職(ここでは斯波氏)は、自身ですべての領地を統治することはできないので各地を分割してそれぞれに代理のものを置いていました。これを守護代といいます。尾張は岩倉織田家が国の上四郡を、清洲織田家が下四郡を、二つに分けてそれぞれ守護代として勤めており、この清洲織田家がここ清洲城を本城としていました。この清洲織田家には家臣にあたる清洲三奉行家がおり、そのうちのひとつ弾正忠家が織田信長の出身家系になります。信長の父・信秀に時代には武力の面では守護、守護代をしのぐまでになりますが、統治の面ではまだ上から頭を押さえられる状態でした。それを打ち破ったのが信長です。信長は叔父の信光(信秀の弟)と組んで当時の清洲城の城主・信友を殺害して自身が移り住みます。信長はこの清洲城を10年間居城としますが、その間に尾張を統一し、さらに桶狭間の合戦で今川義元を葬るなど確実に力をつけて行きます。信長が小牧山城へ移ってからは織田家支配の城のひとつとして残るに過ぎませんでしたが、本能寺の変で信長が横死してのち、その信長の跡取りをきめる会議が秀吉主導で行われたのがこの清洲城です(清洲会議)清洲会議のあとには、信長の次男・信雄が城主となり、大規模な改修改造を行なったようです。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 清洲城 オッと、という感じで工場の建物と建物の間に清洲城が見えました。 ところで、市は清須市、城は清洲城と書きます。 五条川と大手橋ごしに城をみる 大手橋から城へ 色々な角度から天守を撮影してみました。空も澄みわたり美しい写真ができましたが、残念ながら、そもそもこの天守は資料をもとに復元したものではありません。それどころか当時の清洲城に天守があったかどうかもはっきりしないまま、桃山時代の城の造形からイメージで造りあげた「模擬天守」と呼ばれるものです。 天守の分類https://blog.kojodan.jp/entry/2019/02/25/191515 天守へ 門から この庭の意図は??? 500円払って入城しましたが、はっきり言って見るべきものは特にはありません。ただ、この新聞には笑いました。他にも「長篠の合戦で大勝」とか「信長公、本能寺で横死」など数種類ありました。 天守最上階から、五条川にかかる大手橋、清洲古城跡公園を見渡す。 信長と濃姫 濃姫(左)と信長(右) 信長と濃姫の像があります。濃姫は美濃から嫁いできた信長の正室で、「美濃からきた姫」ゆえ濃姫、もとは帰蝶と呼ばれ斎藤道三の娘です。 この濃姫、信長と数年ここ清洲城で暮らしていた記録はあるのですが、その後まったく歴史の記録から消息が消えてしまいます。そのため死亡説、離婚説、出奔説など出てきますが、いまだに確定できる説はありません。 濃姫 信長 【アクセス】JR枇杷島駅から徒歩30分、名鉄新清洲駅へ徒歩15分【入城料】清洲城天守... Read More | Share it now!

神社・仏閣,愛知

【愛知県・小牧市 2022.10.25】小牧山城は織田信長が築いた城です。信長は尾張国を治めてからは清州に居城を構えますが、桶狭間の戦いで今川義元を討ち、東からの脅威がなくなるとすぐに上洛の途上にある美濃を併合することに全力を傾けるようになり、そのため清州からの移転を考えます。清須は美濃を攻めるには南に遠く、また平城であり、攻守激しい時代には向いていないとも考えたのでしょうが、それ以上に後の信長が築いた城をみると高い所から見下ろして号令する山城を良しとしたのではないかと思います。そこで目に着けたのが、広大な濃尾平野の中に位置する小高い(標高86m)小牧山です。家臣の丹羽長秀が中心となって築城された城は、当時としては珍しい石垣を多用したもので、また大手口から大手道が山頂に向かって中腹まで真っすぐにのびる、これはまさに後の安土城をほうふつとさせる仕上がりになっています。しかし築城からわずか4年後、信長が斎藤龍興をやぶりその居城である岐阜城(もと稲葉山城)へ移ったことから廃城となってしまいます。それから十数年後、秀吉と家康とがぶつかる小牧長久手の戦いにおいて、家康が荒れ果てていた小牧山城に陣を敷き、土塁をあげ濠を掘り改修します。結局小牧山城は戦場になることなく家康軍は退陣しふたたび廃城となるのですが、戦場にならなかったために家康が改修した際の土塁や濠も発掘調査によって蘇ります。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 小牧山城 小牧山の山頂に城が見えます 名鉄小牧山駅から西へあるくと小牧山城がはっきり見えてき、山頂に城らしき形が見えます。 大手道 安土城とは較べものになりませんが、たしかにまっすぐに大手道が伸びる形状は、のちの安土城と同じです。 ところでひしめくのぼり旗は「三つ葉葵」ですから徳川家。ということは、小牧市としてはこの小牧山城は信長が築いた城というより、家康が小牧長久手の戦いで本陣を敷いた城として紹介したいわけですね。 家康が改修した際の土塁 上から見下ろすと堀跡も確認できる 山腹に残っている土塁跡 これらは家康時代のものか信長時代のものなのか 発掘調査で出てきた石 おそらくは石垣に使われていた石が発掘調査により見つかり、そのままの状態で置かれています。これは信長時代のものです。 天守閣(風)歴史館 山頂に当時の天守を復元したのではなく、 歴史館として天守閣風の建物をたてました 信長時代の石垣 階段状に石垣を組んでいるのが特徴的です 天守閣からの眺めはさほどでした 曲輪 下山途中にみられた曲輪 立派な坂道がつけられていました 下まで降りてきました 搦め手口付近 城の南に位置する大手口からのぼり、北の搦め手口へ降りてきたことになります。北側には平らな空き地がたくさんありそこが公園になっているのですが、このあたりが家来の住居があつまる曲輪だったと思われます。 小牧神明社 鳥居 拝殿と本殿 ご神木「連理木」 ここ小牧神明社は織田信長が小牧山に城を築くとすぐに勧請してこの地に建立したものだそうです。しかしそのような歴史よりも、ここで興味深いのは、「連理木」とよばれるご神木で、3本の大きな幹にわかれて伸びているのですが、高さ4.6mのところで2本ずつがそれぞれに枝をのばして繋がっています。クスノキにはこのように繋がるのはよく見られますが、2本ずつが各々繋がっているのははじめて見ました。 【アクセス】名鉄小牧駅から徒歩20分【料金】小牧市歴史館(山上の天守閣)と小牧山城史跡情報館(大手口そば)両方で100円【満足度】★★★☆☆ ... Read More | Share it now!

城郭・史跡,愛知

【愛知県・犬山市 2022.10.25】犬山城の歴史は織田信長の叔父・信康が当時あった砦を改修して城の形にしたことに始まります。信康の死後、息子の信清があとを継ぎますが、そのころ頭角を現しはじめていた信長に追われ、ここで信長の城となります。信長時代には池田恒興が城主をつとめていましたが、本能寺の変の後は信長の次男・信雄の管轄下におかれます。小牧・長久手の戦いで秀吉と家康が激突した際ふたたび大きな動きがあります。大垣城に移っていた元城主で秀吉の有力な協力者である池田恒興が奇襲をかけこの城を奪い取ってしまうのです。この時点で犬山城は羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)のものとなります。そして秀吉はこの犬山城に本陣をかまえて、小牧山城に陣を敷く家康と対峙します。秀吉は天下統一のために着々と手を打ち、この犬山城もいったんは信雄に返しますが、すぐに信雄を減封のうえこの要衝の地から追い出し、甥の秀次に統治をまかせます。さらに秀次を切腹させたあと腹心の石川貞清を城主に据えます。この貞清が犬山城を大いに改築し、今につたわる城に仕上げます。その後は、関ケ原の合戦でも西軍の拠点となりますが、西軍が敗れてからは家康の手にわたり、江戸時代をとおして成瀬家が城主をつとめることになります。さてこの犬山城は、信長、秀吉、家康それぞれに奪い奪われ、歴史の荒波にもまれてきた城なのです。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 犬山城へ 名鉄犬山駅前の方向表示は犬山城が中心 本町通を城へ向かってあるく 前方に城の天守が見えてきました 名鉄犬山駅から西へ歩き、右折して城下町の面影のこる本町通を北上すると城に着くのですが、そこそこ観光客も歩いているその本町通を車が走っているのにはびっくりしました。日中だけでも歩行者専用にすることはできないのでしょうか。 赤鳥居が三光稲荷神社、石鳥居が針綱神社 ふたつの神社の間の道(大手道)を進んでも、あるいはそれぞれの神社の境内を通っても天守へはたどり着けます。標高88mですので山ではなく、丘の上といった方が正しいでしょう。 それにしても看板やら▲コーンやらが目立つ 針綱神社 針綱神社・鳥居 そり橋 ご神馬 針綱神社はおもに子授け、安産、厄除けなどの御神徳があるそうです。子授けのお守りが800円ですが、夫婦で一つずつ持つのがよいと但し書きがあり、セットで1600円ということになります。販促みたいな-... Read More | Share it now!

神社・仏閣,花、紅葉見ごろ,奈良

【奈良県・生駒郡斑鳩町 2022.10.23】斑鳩(いかるが)とは、もとは聖徳太子(厩戸皇子)がこの地に宮を建て(その宮が斑鳩宮とよばれる)、さらに周辺に法隆寺、法起寺、中宮寺を創建したことから一時は日本(大和)の政治の中心地となります。聖徳太子が没して後、その子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)が蘇我入鹿(そがのいるか)に襲撃され後に自害することでこの地も没落してゆきますが、聖徳太子ゆかりの寺が残っていることから多くの人々(信仰者と観光客)が訪れる土地として伝わっています。秋には中宮寺跡地はコスモス畑となり、また法起寺は三重塔を背景にして絶好のコスモスの撮影スポットになるため、今日は久しぶりに斑鳩を歩きに行きます。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 小泉神社 小泉神社・鳥居 鳥居の奥に、城門? 城門をくぐると神社(拝殿など)がある JR大和小泉駅で降りたので、小泉神社に寄って行きます。ここはたいへん珍しい神社で、鳥居をくぐるとその奥に城門があります。室町時代に、このあたりの豪族・小泉氏が神社の敷地内に陣屋を構えたゆえだそうです。 法起寺 農道をあるく 斑鳩は古都保存法の指定地のため、こんな道がのこっています。残念なのは、畑にブルーシートがわんさかあること。古都保存法の指定地にするのならば、補助金を出してせめて茶色とかグレーのシートを使うようにすれば、と思うのですが。 法起寺・三重塔 塀越しに 垣根越しに... Read More | Share it now!

花、紅葉見ごろ,和歌山

【和歌山県・有田郡有田川町 2022.10.20】大阪から紀州路快速で和歌山駅へ、そこから紀勢線に乗り換えて30分ほどさらに南へむかうと有田(ありだ)に着きます。ここは日本有数のみかんの産地ですが、有田川が瀬戸内海にながれこむ風光明媚な土地でもあります。西側(海側)が有田市、東側(山側)が有田郡にわかれますが、有田郡の山の斜面にはみかん畑がひろがり、また山頂付近には風力発電の風車がならび、そして「鷲ヶ峰コスモスパーク」があります。鷲ヶ峰コスモスパークは咲き誇るコスモスの規模こそ大がかりではありませんが、山頂からコスモス畑越しに瀬戸内海や紀州の山並みを望める絶好のビューポイントがあります。しかも今はみかんの出荷時期でもあるので、色づいた蜜柑がたわわに生っている光景も見られるはずです。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 駅から山へ 一般道にもみかん畑がつづく 山の麓も、山の斜面もみかん畑 山道に入りました JR藤並駅を出てから山の入り口まで5kmほど歩いてきましたが、その間ずっとみかん畑が続いています。みかんの産地とはいえ、驚きの光景です。 山をのぼる ずいぶん上がってきました 中央の山頂に見える建物が目指す先です どこまでも拡がるみかん畑 観光客用につくられた広い道に合流しました 鷲ヶ峰コスモスパーク コスモスパークに到着しました。 藤並駅から距離にしておよそ10km、標高586mの山頂に2時間半ほどで到着しました。 瀬戸内海をのぞむ 前方に、黄色いコスモスもある コスモスと瀬戸内海の眺望 黄色いコスモス コスモスパークの建物内には、トイレと飲み物の自動販売機があるだけなので、ゆっくりくつろぐこともできません。初夏のツツジと秋のコスモスだけでは人が訪れる時期も限られており、レストランや茶店を出すわけにもいかないのでしょう、せっかく立派な建物があるのに残念です。小一時間居ましたが、退屈してきたので帰ることにします。 帰路 ススキと 下りるまでもなく、コスモス畑を出たところにススキが群生していました。コスモスを撮ったのと同じアングルで写真に収めてみましたが、これはこれで良いです。 山を下り、有田川をわたる セイタカアワダチソウが空き地いっぱいに 【アクセス】JR藤並駅から徒歩で往復、29,000歩【入場料】無料【満足度】★★★☆☆ ... Read More | Share it now!

城郭・史跡,長野

【長野市・松代町 2022.10.13】武田信玄が上杉謙信との攻防の前線拠点として、山本勘助に命じてつくらせた海津(かいづ)城が、松代城の前身になります。武田氏滅亡の後は、織田信長の家臣・森長可(もりながよし)が信濃統治のため入領しその海津城を居城としました。豊臣時代には豊臣家が直管する蔵入地となりますが、大阪の陣ののち真田信之(真田幸村の兄)が上田城から13万石に加増のうえ移封され、その後は明治維新まで真田家10代にわたる居城となります。商人たちはこの松代に移住するよう呼びかけられますが、善光寺(松代から10kmほど北)から離れることを拒み、そのため松代は城下町として発展することはなかったそうです。城郭は千曲川を天然の要害とした独特の造りだったようですが、建物はすべて焼失し、当時のものとしては本丸周辺の石垣と濠などの一部が現存するのみです。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 三の丸、二の丸 三の丸から二の丸へ 二の丸から、石垣・土塁の向こうが三の丸 松代城は平城であり高低差なく、外周が三の丸、濠(外堀)と石垣を抜けるとその内側が二の丸、さらに濠(内堀)と石垣に隔てられて本丸という縄張りになっています。三の丸と二の丸をへだてる石垣は一部だけが残っており、濠は埋められて現存しません。ところで元は、二の丸から外堀をわたって三の丸に入ると、そこに武田氏独自の「三日月堀」があったそうです。三日月堀とはhttps://www.homemate-research-castle.com/useful/glossary/castle/2138601/ 太鼓門 内堀に囲まれた本丸 内堀と太鼓門 太鼓門 いまある建築物は平成の時代に再現されたものですが、当時の資料をしらべ出来るかぎり忠実に再現したものだそうです。 内堀と石垣 左が太鼓門、右が東不明門(跡) 東不明門跡 本丸北側 夕焼け 真田邸 真田邸 真田邸の塀がつづく 真田邸は信之の時代ではなく、真田家9代目ですから江戸時代末期に建てられたものですが、それでも松代城に関係する建物としては、唯一建てられた当時のまま残っている貴重な現存建築物だそうです。 【入場料】どこも時間が遅くて入れませんでしたが、松代城跡は無料、真田邸は400円となっています。【満足度】★★★☆☆ ... Read More | Share it now!

城郭・史跡,長野

【長野県・松本市 2022.10.11】松本城はもとは深志城とよばれる小規模の城郭でした。武田信玄に獲られ、織田信長の軍勢に侵攻されるなどの歴史をへて、石川数正・康長父子が豊臣秀吉の命により入城してから天守閣をつくり整備をすすめ、本格的な城に造りかえます。この石川数正(いしかわかずまさ)ですが、そもそもは徳川家康の片腕として徳川家の屋台骨を背負う重臣でした。ところがある時突然徳川家を裏切り、出奔して豊臣秀吉に臣従したと言われています。真相は定かではありませんが、どうやら秀吉の調略あるいは謀略により落とされたようです。ことの起こりは秀吉が天下統一にむけて勢力を拡大する中、徳川家が豊臣方との交渉役につけたのが重臣・石川数正ですが、秀吉は数正が上洛するたびに歓待します。そしてみずから歓待しながら、石川殿は秀吉のもとへ行くたびに歓待されている、どうやら寝返るつもりではないか、そのような不穏な噂を徳川領で意図的に流してゆきます。石川数正は家康が今川家に人質として預けられていた時にも付き従って苦労を共にしたほどの臣従関係にあり、寝返る意思はなかったのではないでしょうか。ところが不穏な噂が独り歩きし、しだいに居心地が悪くなってきます。どうやら家康自身は数正のことを信用しており不穏な噂も無視する姿勢だったようなのですが、数正としては周りから白い目で見られるのに耐えられなくなったところに、頃良しとみた秀吉から河内8万石でどうかと誘われ、寝返った(寝返えさせられた)のが真実ではかないかと思います。さて秀吉は関東の北条家を平らげると、その地に家康を移封します。言うまでもなく秀吉にとっては一番の脅威である徳川家を京・大阪からより遠い地へと追いやるのが目的でした。そしてその関東地方を信頼できる大名たちに取り囲ませるように領地をあたえて移り住まわせます。石川数正もその一人で、信濃国松本に10万石を与えられ、皮肉にも家康にたいする防御の駒としてこの地に移り住むことになります。なお松本城はわずか12だけのこる現存天守をもつ城のひとつで、国宝に指定されています。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 天守をのぞむ 入口に国宝とうたっています 濠越しに回りながら天守を望んでみます 乾小天守(左)、大天守(中央)、月見櫓(右) 左が乾小天守... Read More | Share it now!

城郭・史跡,長野

【長野県・上田市 2022.10.15】上田城ですが、もとは千曲川の分流である尼ヶ淵に面しており、尼ヶ淵城とも呼ばれていました。そもそもはこのあたり一帯を治める土豪が城館を築いていたものですが、真田氏が頭角をあらわすにしたがい、昌幸がこの地の優位さに目をつけ本格的に築城をはじめます。真田家は武田氏に臣従していましたが、その武田氏滅亡の後は主家を次々に替え、ついには徳川家康に従うことになります。ところがその徳川と対立して戦に及ぶのですが、大方の予想を裏切って、真田勢はみごとに徳川勢を撃退します。(第一次上田の戦い)その後豊臣家と徳川家の争いから関ヶ原の合戦がおこりますが、真田昌幸は家の存続をはかり、昌幸自身と次男の信繁(幸村)は豊臣方につき上田城をかため、長男の信之は徳川方について城をでます。上田城にこもる昌幸・信繁親子はよく戦い、江戸から関ヶ原へとむかう家康の嫡男・秀忠の3万8千ともいわれる大軍の侵攻を抑え、結果として秀忠軍は関ヶ原の合戦に間に合わないという失態を犯すことになります。(第二次上田の戦い)しかし関ヶ原の合戦自体が西軍(豊臣方)の敗北に終わったため、昌幸・信繁親子は信之の働きもあって死罪は免れたものの高野山へ追放(のちに九度山で蟄居)、上田城は徹底的に破却され濠も埋められます。その後、その信之がこの地を安堵されますが、城が見る影もなく壊されているため本来の沼田城を居城としたまま治世をおこない、やがて松代へ加増転封となります。そして真田信之のあとに小諸から転封されてきた仙石氏によって上田城は、改修ではなく、あらたに造られることになります。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 南櫓、東虎口櫓門、北櫓 南櫓 南櫓と東虎口櫓門(本丸入口) 東虎口櫓門と北櫓 本丸入口になるのが東虎口櫓門。その左に南櫓、右に北櫓があります。 この上田城には天守がなかったとの見解が主流ですが、本丸には櫓7棟があり防備につとめていたそうです。 真田氏の上田城には天守閣はあったのかhttps://www.city.ueda.nagano.jp/soshiki/shogaku/1779.html 櫓門にある巨岩・真田石 櫓門から 本丸 北櫓と櫓門(本丸内から) 櫓門を入ると正面に真田神社(櫓門上から) 真田神社・拝殿 賽銭箱にも六文銭 真田信繁(幸村)の像 地元の人が書いていました。この上田城は江戸時代に仙石氏が建てたものを基に再現を試みており、戦国時代の真田氏が築城したものとは関係ないので、これほどに「真田」「六文銭」を強調するのは、あまりにも商売っ気丸出しではないか。たしかに違和感はあります。この像にしても、父・昌幸のものならわかりますが、信繁(幸村)はこの上田城時代にはまだ青年で、それほどの活躍はしていません。 本丸跡 本丸からみた濠(内堀) 西櫓 西櫓 この西櫓が江戸時代からのこる唯一の建物 尼ヶ淵 ここは千曲川の支流としてあった尼ヶ淵の流れを要害としていた上田城の南側面で、通称「尼ヶ淵」とよばれています。 本丸土塁の隅落とし 土塁の隅落とし 内堀沿いに北東角までまわると、この城独特の「隅落とし」が見られます。神社や屋敷で北東の位置、すなわち鬼門の位置に厄除けのため隅切りをする例はよくありますが、ここでは本丸の土塁を大きく削って隅落としとしています。たいへん珍しい例です。 上田城縄張り図 上田の戦い合戦図 北国街道・柳町 上田城から徒歩10分ほどのところにある北国街道・柳町。北国街道はそもそも上杉謙信が軍用道路としてつくったものがその起源となり、江戸時代に整備されて宿場もつくられ、ここ柳町もそのときに発展したそうです。 【料金】上田城(櫓門と博物館セット)500円【満足度】★★★★☆ ... Read More | Share it now!