【兵庫県・丹波篠山市 2022.10.2】丹波篠山市は兵庫県の中東部にある人口3万人ほどの小都市です。もと多紀郡・篠山町、今田町、丹南町、西紀町の4町が1999年に合併して市となったもので、そこからわかるように田舎といえば田舎であり、自然豊かなこじんまりした町です。JRが市内を走っていますが、最近になって4町が合併してひとつの市となったため、その路線は市域の西の端を通っており、最寄りの篠山口駅から中心街まではバスに乗り換えるか1時間ほどかけて歩く必要があります。そのためでしょうか公共の交通機関をつかって訪問する人は少なく、自家用車かバスツアーということになり、観光地としてもうひとつ注目されないのはそんな不便さもあってかもしれません。自分自身も大阪に住んでいながら、今回が初めての訪問になります。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 黒岡の春日神社 鳥居 JR篠山口駅からバスで中心街まで来ました。すぐ南に篠山城址が見えましたが、さきに春日神社に参詣します。 ここは平安時代に奈良の春日大社より分霊された社で、かつて黒岡村の笹山とよばれた、現在の篠山城址のある小丘に祀られていたそうです。 楼門(神門) 春日神社といえば、鹿です。 拝殿 ここには常駐する宮司さんがいないそうで、地元の人たちが清掃なども担当してやっているとか。そのぶん地元との人にはより密着したものなのかもしれませんが、それにしても大変ですね。 篠山城址 大手門をのぞむ 大手門より先に進む 篠山城は、徳川家康が豊臣方の西国大名をおさえるため、山陰道の要衝である篠山の地に急ぎつくらせたものだそうです。縄張り担当は築城の名人・藤堂高虎、普請総奉行は池田輝政、20国の大名に下知されわずか6か月で完成します。 大書院 大書院が復元されています。大書院は廃城後も取り壊すのに金がかかるとの理由で残され、学校施設などに使われていたそうですが、その後失火により焼失。平成の時代になって再建されました。 この大書院だけは入館料400円が要ります。 大書院・内観 大書院・内観 埋門(うずみもん) 埋門(うずみもん)は低い位置にあるため城の内から見たときは目立たず見逃しやすく、城の外から入ってきたときには三方が階段のためすぐに場内が見渡せないようになっています。 天守台 天守台は残っていますが、天守閣は結局最後までつくられなかったそうです。 きれいな石垣が残っています 大手門(跡)から黒金門(跡)へつづく石垣 内濠と石垣 これだけのものを6ヵ月でつくり上げたとは驚きです。まず第一に、石の切り出し場が近くにあったのでしょう。遠方から運んでいたのではとても間に合わないはずです。 外濠 たいていの案内や資料には「篠山城跡」となっていますが、ここでは敢えて「篠山城址」としました。 城址と城跡の違いhttps://kokugoryokuup.com/shiroato/ 河原町妻入商家群 古い街並みのようですが、 それ風に再建されたものが大半(?) 八上城跡 山全体を要塞化した八上城があった高城山 丹波の国人であった波多野氏がながく本拠としていた八上城(跡)を見にゆきます。篠山城址から5km足らず、バス便も少ないので歩きます。 登城口にある春日神社はほぼ廃墟でした この八上城は堅固に守られた城で、明智光秀が丹波攻略の際には力押しに押しても落とせず、兵糧攻めと渾身の説得でなんとか開城させました。なお開城(降伏)にいたって、光秀が城主の波多野兄弟を助命すると約束したにもかかわらず、織田信長が有無を言わせず殺してしまったと史実にあります。 登り道はほぼ丸太階段ですが、 これが延々とつづくので結構バテます 山頂手前で篠山市街方面をのぞむ 山頂... Read More | Share it now!
生駒山にのぼる(石切~興法寺~枚岡)
【大阪府・東大阪市 2022.9.25】生駒山は大阪市内の自宅から電車で(乗り換えがあるため)30分ほど、自転車でも1時間かからずに行ける、自分にとってはもっとも近場の山です。北から南へつらなる生駒山系の尾根筋が境界となり、西面は大阪府、東面は奈良県に属します。街から遠く離れていないのに静かな山歩きが楽しめ、危険な箇所はないけれどもそこそこ歩きがいもあるのでたびたび出かけており、我が庭とまでは言いませんが、慣れ親しんだ山です。登山道は生駒山系全体で言えば数え切れないほどあり、それらの道を、上り×下りで組み合わせると組み合わせはそれこそ無数にあります。今日はそれらの中で、登り口にも降った先にも立派な神社がある、新石切~枚岡ルートを歩いてみたいと思います。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 石切劔箭神社 石切劔箭神社・絵馬殿(神門にあたる) 近鉄電車新石切駅からあるいて10分ほどで石切劔箭(いしきりつるぎや)神社に着きます。起源はずいぶん古く、古代に天皇の側近として仕えた物部氏の有力氏族・穂積氏が代々祭司をつとめてきたと伝えられています。 絵馬殿の屋根上の剣 昭和になって神道石切教を設立、その総本山となります。「石切劔箭」の名は、祀られた神さまの神威が、石をも切って両断するほどに強靭であることを表しているそうです。 もっとも近所では難しいことは言わず、「石切さん」と親しげに呼ばれていますが。 絵馬殿に祀られた神像(?) こちらは弓と矢です 絵馬殿を抜けると、 これは三の鳥居になります 本殿 この神社ではお百度参りがたいへん有名です。お百度参りというと、大層に想像されますが、ここのお百度参りは本殿前十数メートルほどのところにお百度石があり、本殿前まであるいて拝み、お百度石までもどって一周33メートルですからゆっくりやっても1時間ほどです。いつも多くの人がぐるぐる回っています。 正しいお百度のやり方(石切劔箭神社)https://meigen.keiziban-jp.com/manabi/kenkou/mubyou_zinzya/hyaku/ 本殿脇の御神木 上の社 境内を出て、また10分ほど歩くと(生駒山を登ると) 石切劔箭神社上の社に着きます 生駒山を登る いよいよ山登りが始まります 上の社を過ぎると、人家も途切れそろそろ山登りが始まります。生駒山は大抵は遊歩道のような整備された道があるので、子供連れの方もよく登っています。 道端に彼岸花が咲いていました お地蔵さんもいます 途中にある興法寺 興法寺 興法寺はわざわざ立ち寄るほどではありません 安全な道を快適にあるく これぐらい整備された道が 四方に伸びています 山並みの狭間から大阪市街地が見える 今日あるく道程ではあまり眺望のよいところはありませんが、森林浴にはもってこいの道です。 谷間にかかる赤い橋 この赤い橋が自然の景観を壊しているか、緑&赤で印象深い風景をつくっているかは人それぞれの見解があるのでしょう。 谷を見下ろす 橋の上から谷を見下ろす 枚岡神社 枚岡神社・二の鳥居 枚岡(ひらおか)神社まで下ってきました。ここもずいぶん由緒ある神社です。奈良の春日大社には四神が祀られていますが、その春日大社を創建するさいには、そのうち武甕槌命は鹿島神宮から、経津主命は香取神宮から、そして天児屋根命と比売神はここから分霊されたという事です。すなわち春日大社の神さまの半分はこの枚岡神社出身ということで、ちょっとびっくりします。 ですから春日大社とおなじ鹿が祀られています 拝殿 拝殿横から本殿をみる 若宮 よくは見えませんが、本殿は春日造りの四棟が並んでいます。春日大社に分霊したとはいえ、そののちにはやはり先方がずっと格上になり、こちらは落ちぶれてはいないものの、十分な予算も回ってこないのでしょう。4月にたずねた春日大社に比してずいぶん見劣りします。なにが見劣りするかといって、春日大社が本殿と若宮を天然の本朱で塗ってあるのに対して、こちらはあきらかにベンガラなのか朱色が鮮やかすぎて浮いています。 【アクセス】近鉄電車新石切駅から瓢箪山駅まで歩きました。【拝観料】すべて無料です。【満足度】★★★★☆ ... Read More | Share it now!
紀州の紀三井寺をたずねる
【和歌山市 2022.9.24】先日(2022.9.3)たずねた滋賀の三井寺がなかなか良かったので、名前の類似からここも良いのではと勝手に期待して、和歌市内でもずっと南にある紀三井寺まで歩いてみることにしました。和歌山城から5.5km、1時間ほどの道のりです。ところが、紀三井寺は三井寺とは何の関係もありませんでした。そもそもは奈良時代に唐の僧・為光(いこう)上人により千手観音を尊像として開基されました。鎌倉時代には僧侶の数も500名を越え、江戸時代には紀州徳川家の歴代藩主がたびたび参詣したとのことですからこのあたり一帯ではもっとも大きくて由緒ある寺院だったのでしょう。紀三井寺の名は、紀州の、三つの井戸がある寺からきているようで、いまも山内では清浄水(しょうじゅうすい)、楊柳水(ようりゅうすい)、吉祥水(きっしょうすい)の三井より清水が絶えることなく湧き出ているそうです。なお正式な寺号は、金剛宝寺といいます。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 和歌山市内を南へあるく 和歌山市中心街の立派な道路 途中に立ち寄ったお寺(延命院) 中心街を離れると、退屈な道が延々とつづきます。 紀三井寺 紀三井寺・楼門 紀三井寺に到着しました。歴史を感じられない楼門、シャッターを閉めた商店、正面にある電信柱、数々の看板... Read More | Share it now!
紀州徳川家の居城だった和歌山城を見にゆく
【和歌山市 2022.9.24】和歌山城は、豊臣秀吉が弟・秀長に紀州を平定させてのち当時若山(のちに和歌山と改名)と呼ばれていた地に、築城の名人・藤堂高虎を城普請奉行として、わずか1年で築城させたのが始まりです。その後江戸時代になって、浅野幸長が37万石で紀州藩主となり城主となると大改修をおこないます。つづいて徳川家康の十男・頼宣が55万石で入城し、のちに徳川御三家のひとつにかぞえられる紀州徳川家を興すことになります。城郭は紀州徳川家の居城だっただけにずいぶん立派なものだったようで、第二次大戦前までは天守閣をふくむ11棟の建物が国宝に指定されていましたが、和歌山大空襲によりすべて焼失してしまいました。現在のこる天守閣は昭和30年代にコンクリートで復元されたものです。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 和歌山城へ 和歌山城・全景 濠と石垣 一の橋をわたり大手門へ 石垣は往時のものが遺っているため、なかなか見ごたえがあります。実際に歩いて見たのとは順番が変わりますが、次に和歌山城に現存している石垣を歴史的に古いものから順にならべてみます。 石垣 石垣① 以下、3種の石垣は築かれた時代により、使われた石の種類と組み方がそれぞれ異なります。石垣①は豊臣時代に築かれた、紀州青石など自然石を切り出してそのまま積んだ野面積み。 石垣② 石垣②は浅野時代に築かれた、和泉砂岩を打って形をととのえ接ぎ合せながら積む、打込みハギ。「ハギ」とは「接合」の意味です。 石垣③... Read More | Share it now!