千利休

2022.11/18記 千利休の像 堺市の大仙公園に千利休の像があります。利休は当時としてはたいへんな長身で、180cmほどあったと伝わっているので、この像はずいぶん小ぶりということになります。画像は【aruku-20】よりhttps://yamasan-aruku.com/aruku-20/ 秀吉の茶の湯と、利休の茶道 千利休の生涯をたどってゆくと必ずぶつかるのは、なぜ切腹したのかという疑問です。どうして秀吉から切腹を命じられたのかではなく、なぜ切腹を命じられる前に処し方を考え回避しなかったのか。利休の最後の数ヶ月をつぶさに見ると、いずれ切腹を命じられる日がくるのを泰然と待っていたとしか考えられません。それは自分が死ぬ以外にもはや道はないと悟っていたかのようです。利休が切腹を命じられたのは、秀吉の怒りを買ったためといわれています。その原因については諸説あります。1)茶道に対する考え方の違い... Read More | Share it now!

山登り,城郭・史跡,兵庫

【兵庫県・丹波市 2022.11.27】明知光秀が丹波平定を進めてゆく上で、その堅い守りゆえにさんざんてこずらされた城がありました。丹波の豪族上がりの盟主であった赤井氏が標高356mの猪ノ口山を中心にして、山頂曲輪部分を石垣でかこみ、山稜上に砦を配して全体を要塞化した、その名は黒井城。明知光秀が信長の命をうけて攻めたてますが、八上城の波多野氏に背後をつかれ潰走させられます。(第一次黒井城の戦い)光秀は二度目は慎重を期してまずは上月城を囲んで身動きできないようにした上で、黒井城の支城をひとつひとつ攻めつぶして孤立化させ、ついに上月城、黒井城とつづけて落城させ丹波平定をなんとか成し遂げます。(第二次黒井城の戦い)しかし黒井城が落ちたのは、みずから悪右衛門と名乗った猛将・赤井直正が第二次黒井城の戦いのまえに病死してしまい、嫡男・直義が幼少のため後見人がついて指揮することになったことで弱体化していたことも大いに影響していたでしょう。光秀はこの黒井城を重臣の斎藤利三に与えます。斎藤利三は山の麓に居館をたて治世につとめますが、その時期に生まれた娘・福が成長してのちに徳川3代将軍・家光の乳母となります。福は家康の孫である家光が将軍職につくことに尽力し、大奥の公務を取り仕切るだけでなく、さらに家光の側室探しにも関わり、しだいに強大な権力を握るようになります。この女性こそがのちの春日局です。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 黒井城にのぼる 猪ノ口山 JR大阪駅から丹波路快速にのると、終点の福知山の手前に黒井駅があります。黒井駅を下りると前方に、山稜に黒井城を有する猪ノ口山が見えます。一見おだやかな山並みに見えたのですが... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,城郭・史跡,兵庫

【兵庫県・伊丹市、尼崎市 2022.11.24】市立伊丹ミュージアムにて荒木村重に関する展示会が先週末から始まったので覗いてみることにしました。展示会のタイトルは『信長と戦った男、荒木村重展... Read More | Share it now!

神社・仏閣,花、紅葉見ごろ,京都

【京都市・左京区 2022.11.21】今秋は前々回の高取城と前回の醍醐寺と、紅葉狩りを堪能してきたので、今日は趣向をかえて紅葉のライトアップを見に行くことにしました。めざすは、むかしから「秋はモミジの」とまで言われてきた、紅葉のメッカ(?)京都・東山の永観堂です。京都の人気紅葉スポットでは毎年トップ争いの常連で(対抗は東福寺、清水寺)、関西全域にひろげても常に上位(トップは常に滋賀・高島市のメタセコイア並木)に入っている超有名なところですので、いかにもミーハーな選択ではありますが、そこは「秋はモミジの永観堂」ということで、ホイホイと出かけます。なお京都・東山の永観堂と書きましたが、永観堂は東山区には属さず、その北の左京区にあります。しかし平安神宮や銀閣寺もふくめ比叡山より南は東山界隈と呼ばれており、いわゆる「東山」と東山区は同じではないようです。 紫のマークが今回訪れた場所です。 モミジの永観堂へ 京セラ美術館 京都市美術館がリニューアルした際、ネーミングライツを京セラに売ったもので、京セラが運営する美術館ではありません。ところでリニューアル後、来館者はいくらか増えたのでしょうが、京都市の負担は激増しているそうで、これも自治体破産もあり得るとウワサされる京都市にはアタマの痛いところでしょう。 総門 永観堂の正式名称は「(山号)... Read More | Share it now!

千利休,神社・仏閣,花、紅葉見ごろ,京都

【京都市上京区、伏見区 2022.11.15】今日は樂焼の窯元・樂家の作品をみられる樂美術館へ、「利形の守・破・離」をテーマに季節展示会を開催しているので先ずはそこを見学し、それだけで帰るのはもったいないので、やや大回りになりますが、山科からすこし南、伏見区にある醍醐寺で紅葉を堪能しようと思っています。 まず樂焼について。茶聖といわれた千利休は、茶器(茶碗や茶釜や茶壺など)に高価な名物を使うのではなく、また豪華でなくきらびやかでなく、むしろ簡素な中に深い味わいのある精神的な豊かさをもとめて、茶の湯の世界に新しい価値観を想像します。その完成形が「侘び茶」ですが、茶碗といえばそれまで唐物とよばれるブランドものが絶対人気だったところに、ロクロを使わず手で捏(つく)ねヘラで削って形をつくり、彩色をせず、釉(うわぐすり)だけをかけて焼く、たいへんシンプルな茶碗を登場させます。これが樂焼きであり、釉のかけ方と焼き方の違いで仕上がりの色が変わり、黒樂茶碗と赤樂茶碗があります。初代陶工は長次郎といい、もとは瓦職人だったようです。千利休と瓦職人の長次郎がどこでどうして出合ったのかは不明なのですが、ともに惹かれるものがあり文字通り二人三脚で試作をつづけ、ついに黒樂茶碗を完成させます。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 樂美術館 樂家宅と隣接する樂美術館 樂美術館の所蔵品は、樂焼きの後継者たちが手本として常に触れることができるように、代々の作品を残してきたものが中心になっています。今回の展示会のテーマは「利形の守・破・離」利形とは利休の美意識をもとにした様式美守は伝統を守り継承すること破は伝統を破り新たな挑戦離は守・破から脱皮し、自由な精神にいたること代々(初代から16代目まで)の作品を、それぞれ守・破・離の段階ごとにわけて展示してありました。 晴明神社... Read More | Share it now!

城郭・史跡,広島

【広島市 2022.11.8】中国地方の覇者・毛利元就は亡くなる前、嫡男の隆元が若くして急逝していたため孫の輝元に家督を譲ります。そのとき輝元はわずか11歳、そこで亡き父・隆元の弟である吉川元春、小早川隆景の補佐を受けることになります。(元春は元就の次男で吉川家に養子入りし吉川家当主となり、隆景は三男で小早川家に養子入りし小早川家当主となっていました)毛利輝元は祖父・元就の遺言をまもり、二人の叔父に支えられながら天下をねらう野心はもたず、逆に天下をねらうゆえ中国の地を侵そうとする者には威厳をもって対抗します。織田信長、そして信長の命をうけて備中へと侵攻する羽柴秀吉との衝突は避けられませんでした。その輝元が信長の没後に天下をほぼ手中にした秀吉から中国9ヶ国120万石の領有を認められ、交通の要衝であった太田川の三角洲に新たな城を築いて郡山城から本拠地を移します。これが広島城です。その後は関ヶ原の合戦で西軍が敗れたため、その西軍の総大将にまつりあげられていた輝元は周防・長州2ヵ国に減封、結果として広島城を明け渡すことになります。広島城に城主として在任したのはわずか9年間に過ぎませんでした。そのあとには秀吉子飼いで豊臣家恩顧の大名でありながら、石田三成との確執などから徳川家康にしたがった福島正則が城主となります。しかしその正則も城を修繕したことに対して難癖をつけられ信濃へと減封のうえ体よく追いやられます。こちらは19年間の在任でした。このあと恒久的に城主となるのが浅野家です。浅野長政は豊臣家5奉行の1人でしたが、秀吉の死後影の実力者となった北政所(寧々)と兄妹関係にあり(長政は浅野家の婿養子で家督をつぎ、寧々は浅野家の養女で秀吉に嫁ぐ)、関ケ原の合戦が実質的には、豊臣家&淀君... Read More | Share it now!

城郭・史跡,広島

【広島県・尾道市 2022.11.7】かつて瀬戸内海の、安芸(現・広島)と伊予(現・愛媛)にはさまれた一帯を支配していた村上水軍と呼ばれる海賊衆がいました。南北朝時代に起源をもち、室町時代に勢力をひろげて行きます。やがて3家にわかれ、それぞれ本拠地とする島名を冠して、能島村上家、因島村上家、来島村上家と呼ばれます。やっていたことは海峡を関所にみたて、そこを通過する船から通行税を取り立てることゆえ、地元では海賊ではなく管理者であるとの見解もあるようですが、まず幕府から認められた守護職ではなく、通行税を払わずに運航している船に対しては容赦なく急襲、略奪を行なっているのですから、やはり海賊に近いでしょう。しかし戦国時代になると各地でより大きな勢力をもつ大名が勃興し、村上水軍も単独で生き残ることが難しくなってきます。村上3家の中で、もっとも目立って歴史に名を残したのが因島村上家です。毛利家に臣従し、毛利が織田信長と激突する摂津の戦いでは、毛利からの命で摂津の地で籠城する石山本願寺へ海上から兵糧を運び入れる役をうけもち、それを阻止せんと待ち受ける織田軍の船を完膚なきまでに打ちのめし、みごとに大役を果たします。(ただし2度目には、信長がつくらせた鉄板張りの巨船に迎撃され、反対に木っ端みじんに蹴散らされてしまいます)織田家も豊臣家も戦国時代の激動の中で滅亡して行きますが、臣従していた毛利家は江戸時代をとおして存続したため、因島村上家も長州藩の船手組として生き残ります。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 因島水軍城 駐車場のある麓から見上げる さて村上水軍城ですが、地元の観光案内には「日本唯一の水軍城」とうたっているものの、もともとこの場所に城はありませんでした。家臣の住居があった地に、「村上水軍史料館」を城郭風の建物としてつくったというのが実情です。 ここだけ見ると、まずまずの雰囲気ですが、 全体を見ると、まるで粗大ゴミ捨て場? 城門ではなく、山門となっていました 隅櫓 本丸に相当する建物 /... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,広島

【広島県・福山市 2022.11.7】鞆の浦の名は古くは7~8世紀に編まれた万葉集に登場します。「我妹子が見し鞆の浦のむろの木は常世にあれど見し人ぞなき」大伴旅人が歌ったものです。我妹子とは私の妻、妻がかつて見た鞆の浦のむろの木は変わらずあるけれど、その妻はいまはもういない、という意味になりますが、この歌から大伴旅人は鞆の浦をすくなくとも2度以上訪れていることがわかります。鞆の浦の沖では満潮時には潮流がぶつかり、干潮時にはそこを境に潮が別方向に引いてゆくため、過去には潮待ちの港として栄えたそうです。室町時代の前の南北朝時代にはこのあたり一帯で南朝と北朝の合戦があり、さらに室町時代の終焉の戦国時代にになると、織田信長とともに上洛し15代将軍(室町幕府最後の将軍)となった足利義昭が信長に追放され、毛利氏をたよってこの地に流れつき、「鞆幕府」をひらきます。この鞆幕府は世間的には認められませんでしたが、足利義昭は当時はまだ将軍の地位についており、将軍が宣言したのであれば法的(?)にはその地が幕府といって言えないことはありません。その後も江戸時代末期、鞆の浦沖で海援隊の船・いろは丸が紀州藩の船と衝突して沈没、その賠償交渉のため坂本龍馬が短期間ですが滞在した史実もあれば、最近では宮崎駿制作の「崖の上のポニョ」の舞台になり、「男たちの大和」や「流星ワゴン」など多数のドラマのロケ地として使われています。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 鞆の浜(?) 防波堤越しに... Read More | Share it now!

城郭・史跡,広島

【広島県・福山市 2022.11.6】築城400年を記念して大規模改修をおこなっていた福山城が、工事を終え今年8月から一般公開されたこともあって訪ねてみることにしました。福山城の最大のポイントは、日本において本格的に築城された最後の近代城郭ということです。江戸時代初期、徳川家康のいとこである水野勝成が10万石をあたえられ大和郡山より転封されます。目的は毛利家をはじめとする西国大名に対する抑えであり、そのため所領10万石とはとても思えない巨城を築くことになります。その偉容で牽制しようと考えてのことでしょう。福山市の観光ガイドにうたう「日本城郭の最高到達点であり最高傑作」というキャッチコピーには首をひねりますが、最後につくられた城だからこそすべての技術を集結した完成形と考えるなら、根拠のないものではないのでしょう。構造としては本丸のまわりを二の丸、さらに三の丸が取り囲む連結式の平山城で、石垣は本丸に進むにしたがい3段階により高く積み上げられた、一ニ三(ひふみ)段とよばれる縄張りになっています。多数の門や櫓が京都の伏見城から移築されその優美な姿を伝えていましたが、第二次大戦時の空襲で、伏見櫓と筋鉄御門をのぞくすべてが焼失してしまいます。1966年に天守、月見櫓などを鉄筋コンクリート造りで復元、さらに今回築城400年を記念して大規模改修が行われました。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 福山城 JR福山駅からすぐ目の前がお城です 繁華街がひろがる福山駅南口側から駅舎をぬけて北口を出ると、びっくりするほどすぐそばに福山城はあります。 東坂口門より入ります 空襲でくずれた石垣をくみ直し虎口を再現しています 天守をのぞむ 月見櫓をのぞむ 天守 天守へ 天守(東面) 天守(北面) 天守(北面と西面) 天守(西面) 天守(南面) 天守のまわりを一周すると、北面だけが黒いことがわかります。これは天守の北側は砲撃をうけたときに砲弾がとどく可能性があり、その弱点をカバーするために鉄板を北面全体にはり付けていたそうです。1966年の復元工事では鉄板はなかったそうですが、今回の修復工事では鉄板の復元もおこないました。なお蛇足になるかもしれませんが... Read More | Share it now!