千利休

山本謙一氏の小説『利休にたずねよ』は直木賞受賞作であり、氏の代表作でもあります。この作品は、4年後に上梓される同氏の小説「信長死すべし」と比較されることが多々あるようです。「信長死すべし」は正親町天皇が信長を排除すべしと決断するところからはじまり、場面場面で主役が替わりながら信長が弑逆されその弑逆した光秀が謀殺されるまでを時系列で描いています。それに対して『利休にたずねよ』は時系列が逆になり、利休が死を賜るところからはじまり、やはり場面場面で主役が替わりながら順に時間をさかのぼり利休の隠された過去にたどり着く。その特徴的な手法の類似ゆえに比較したくなるのでしょうか。先に「信長死すべし」を読み、深く感銘をうけ、おおいに期待して後から『利休にたずねよ』を読んだのが失敗だったかもしれません。「信長死すべし」では場面ごとに主役が替わることで、50日間ほどの物語りが凝縮されそこに緊迫感がうまれ、まるで上質のサスペンスを読んでいるかのような読書の楽しみを得られます。ところが『利休にたずねよ』は、たしかに時系列を逆にするのは大胆な試みではあるし、場面ごとに主役が替わる手法はこちらが先に書かれているので二番煎じではないのですが、なにぶんにも「信長死すべし」にあるような、物語りが凝縮され緊迫感がうまれるという効果、効能が見られません。また利休に隠された過去があったという設定はよいとしても、その隠された過去と利休がめざした侘びの世界と、さらに利休の切腹とが頭の中でうまく結びつかないため、大満足という読後感は得られませんでした。とは言え筆力はさすがで、単独で評価するなら読んで十分に楽しめる作品です。山本謙一『利休にたずねよ』★★★★☆ 加藤廣氏の小説『利休の闇』ですが、氏は「信長の棺」で75歳にして小説家デビューして以降、精力的に作品を発表しておられましたが、これが最後の作品になります。「信長の棺」は本能寺の変で信長の死を決定づけたのは秀吉のある陰謀による、という当時は結構衝撃的なストーリーで話題になりましたが、「秀吉の枷」や「明智左馬之助の恋」、いわゆる本能寺三部作でも秀吉の隠された秘密(闇)が根底にすえられています。さて『利休の闇』ですが、ここにも秀吉の闇は引き継がれています。読み終えて最初の感想は、タイトルを「秀吉の闇と利休」にした方が適しているのではないか。作品の中では秀吉と利休が関係する茶会の記録(誰と誰が参加し、どのような道具をつかったかなど)をひとつひとつ詳細に記し、そこから茶の湯を通して浮かび上がる秀吉と利休の接近と離反を克明に追跡しています。これはたいへんな労作だとは思いますが、あまりにも記録の紹介が多いため、話の展開を裏打ちするために茶会の記録があるのではなく、茶会の記録に合わせて話を展開させているかのような、本末転倒の感が否めません。この作品は5年程前に読んだのですが、最近読みなおしました。5年前に読んだときの作品に対する記憶といえば、茶会の紹介がたくさんあったということだけで、それだけ作品のなかで大きな役をになっているのでしょうが、肝心の利休はなぜ切腹したのかの謎解きには、諸刃の剣だったかもしれません。加藤廣『利休の闇』★★★☆☆ 晴明神社... Read More | Share it now!

荒木村重

黒部亨氏の小説『荒木村重 惜命記』は、タイトルからして謎掛けのようです。日本語に「惜命 せきめい? しゃくみょう?」という語はありません。ところが中国語になると「惜命 シーミォ」と発音してまさに「命を惜しむ」という意味の語があります。結論的なことをさきに述べることになりますが、この小説は唯一「荒木村重はなぜ死ぬことから逃げ続けたのか」に対する疑問に対して、じつに真摯に向き合い読者にその答えを示そうと努めた作品といえます。ほかの小説はというと、自作のストーリーをより興味深いものにするために「荒木村重はなぜ... Read More | Share it now!

山さん

山岡荘八氏の小説『織田信長』では、濃姫は本能寺の変の際にも信長と行動をともにしており、その事変では自ら薙刀をふるって奮戦したことになっています。この薙刀をふるってというのは、のちの世の講談などで語られたもので、完全な創作ですからあり得ない話です。山岡氏の『織田信長』は時代考証はずいぶん大雑把で、そんなわけないだろうと突っ込みたくなる部分もあるのですが、とにかく読んでいておもしろい。なぜ面白いかといえば、山岡氏が当時を代表する国民作家であったためか、読者を楽しませることを主眼にしているようです。よほど信長のことが好きなのか、信長のよい面が前面というより全面に出てきて、さらに濃姫にいたっては読みながら恋心を覚えるほどに魅力的です。先にも書いたように時代考証については十分とは言い難いですが、小説が書かれる本来の目的である「読んで楽しい、おもしろい」という意味では良品だと思います。山岡荘八『織田信長』 ★★★★☆鈴木輝一郎氏の小説『信長と信忠』は、信長と信忠がW主役かと思って読んでみたところそうではありませんでした。父信長の目を通しての跡取り息子信忠を描くというというのが表向きで、その実は信長が信忠の成長を見ながら単純に喜ぶのではなく葛藤する姿を描き、父信長さらには人間信長を斬新な切り口で読者の前にさらして見せる、といったところでしょうか。残念ながら信忠の描き方があいまいで、とくに父信長の強烈な個性をどのように受け止めているのかがはっきりしないので、信忠もぼんやりしていれば、その信忠を見つめる信長に対しても何に葛藤しているのか感情移入ができません。その意味ではわざわざ評価する作品でもないのですが、ここに登場する、しかも信長と信忠両者にからむ濃姫の存在感は圧巻です。信長が秀吉のいる備中高松へむかうに先立ちひとまず上洛しますが(このとき宿泊先の本能寺で討たれる)、安土城を発つ前に信長と濃姫がかわす会話は絶妙です。一部抜粋します。–... Read More | Share it now!

明智光秀

遠藤周作氏の小説『反逆』は、前半部では荒木村重、後半部では明智光秀に焦点を当て、信長に従っていた二人の武将がなぜ謀反に走ることになったのかを描いた作品です。作品の中では信長への忠節と反発、崇拝と畏怖、相反する感情がぶつかり合うそれぞれの心の葛藤を照らし出しながら話が時系列で進んでゆきます。時系列ですから先に反逆した荒木村重に前半部で焦点があたることになりますが、この前半部でも明智光秀は随所に登場します。すなわち光秀は信長の自分に対する仕打ちだけでなく、村重に対する仕打ちも、またそれに対して村重がどのように行動したかも見てゆくことになります。その意味では後半に焦点をあてられる光秀の方がより丁寧に描かれていると言えるでしょうし、実際のところ光秀の苦悩はより痛切に理解できるものになっています。また遠藤氏はクリスチャンですが、そのこともあって切支丹大名の高山右近が準主役のように随所に登場します。その右近の、立場が違うゆえに異なる葛藤と苦悩が描かれることで、作品にいっそうの厚みがうまれているといえます。30年以上前(1989年)に出版された作品ゆえ、史実の解釈に古さを感じるところもありますが、その分自分の足で歩いて調べている強みがあり、それも作品の魅力になっています。遠藤周作『反逆』★★★★☆嶋津義忠氏の小説『新装版 明智光秀』は、副題に「真の天下太平を願った武将」とあるとおり、光秀がこれ以上はないというほど立派な人として登場します。上洛した信長を本能寺で討つのも、私怨やまして野心などは毛頭なく、ただ天下太平のため。信長はたしかに戦においても政においても天才だが、天才ゆえに独善に陥り、諸侯も家臣も一般の民も恐怖で支配しようとする誤った道を歩みはじめた。それゆえ光秀が一命を賭してそれを阻止し、正しい道へ導かねばならない。このような決意を胸に立ちあがるのですが、良きにつけ悪きにつけ人間というものはもう少し複雑で、弱みもあれば屈折した面もあり、それだからこそ真の姿を探求するのに面白さがあるというものです。この作品のなかでの光秀の描き方はあまりに杓子定規で、良い人でも素敵な人でもなく、なんら魅力のないいわゆる立派な人でしかありません。人物を描くのが不得手のか、本来は準主役となるはずの信長はというと、描き方がまったく単調なため案山子(かかし)か電信柱をみているようです。そのため信長が独善に陥っているとも理解できないし、ましてや信長に対して感じるはずの恐怖もまったく見えてこないということになります。そこに杓子定規に描かれたロボット武将・明智光秀が我こそが天下太平のため、と大上段に構えても、なんだかなあで終わってしまいます。嶋津義忠『新装版 明知光秀』★★☆☆☆ 福知山城... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,京都

【京都市内 2023.1.29】京都東山といえば、いまでは東山区に属する清水寺や八坂神社など観光名所が集中する一帯を指しますが、もともとは京都の中心地から見て東に見える山々のことをいいます。北の比叡山から南の稲荷山まで東山36峰と呼ばれる、たしかに36の山が存在しますが、それらは日本アルプスのように山峰が屹立しながら連なっているのではなく、もっとも標高の高い比叡山848mを別にすれば、200m前後の山が中心で(平均標高は211m)、しかも山の連なりからは分離した吉田山(吉田神社がある)や、山と呼ぶべきなのか首をかしげたくなる円山公園のある円山などもこの中に含まれています。その意味では「東山35低山... Read More | Share it now!

神社・仏閣,城郭・史跡,佐賀

【佐賀県・鹿島市 2023.1.20】サッカーチームの鹿島アントラーズがあるのは鹿嶋市で、茨城県南東部一体の「鹿行:ろっこう」あるいは「鹿島」とよばれる地域の5つの市をホームタウンとしていることから、鹿島アントラーズと表記しているのではないかと推測します。その鹿嶋市とはまったく別に、佐賀県南部に鹿島市があります。ところが日本三大神宮である鹿島神宮は、この鹿島市ではなく茨城県の鹿嶋市にあるので話はややこしくなります。では佐賀県の鹿島市はどうかというと、鹿島○○とは称しませんが、年間参詣者数300万人をかぞえる祐徳稲荷神社があります。さてこの祐徳稲荷神社ですが、ホームページ上でも、また鹿島市観光協会の案内でも「日本三大稲荷」と明記しています。日本三大稲荷と言えば、総本社である伏見稲荷大社は別格として、笠間稲荷神社(茨城県)と豊川稲荷(愛知県)を2番目3番目に並べるのが妥当でしょう。祐徳稲荷神社が自称しているのだとしても、なにを根拠に自称しているのか、訪ねてみることにしました。 祐徳稲荷神社へ 参道を進みます 錦波川をへだてて神社を見る 境内へ入る手前にある「神橋」 「稲荷神」はもとは稲を象徴とする穀物および農耕の神様ですが、いまでは五穀豊穣だけでなく商売繁盛、家内安全、病気平癒、恋愛成就、開運、金運、子宝、安産、等々生活全般にわたってマルチに御利益のある、ありがた~い神様です。 鳥居をくぐる 神池をわたる... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,佐賀

【佐賀県・伊万里市、有田町 2023.1.19】有田焼と伊万里焼は違うのかというと、むかしは同じもの、いまは違うものということになります。江戸時代には現在の有田周辺は磁器の一大生産地でしたが、出来上がったものを伊万里の港から輸出していたため伊万里焼と呼んでいたようです。(雑学の余談ですが、イランで採れた青い石をトルコを経由して欧州へ運んでいたたためその石をトルコ石とよびます。これと同じ発想です)やがて明治時代になると、生産地を重視するようになり有田で焼かれた磁器は有田焼、伊万里のおもに大川内山で焼かれたものは伊万里焼と呼ばれるようになります。同時に江戸時代の有田産の磁器は古い伊万里焼ということで古伊万里とよばれます。 大川内山 町の地図も磁器製、もちろん伊万里焼 伊万里焼の窯元があつまる大川内山にきました。ここに興味をもったのはネットでひょっこり街並みを紹介する画像を見たことに始まります。 ネットで見たのはこの橋の画像でした 素人がスマホで撮影ではあまり魅力が伝わりませんか 河原に下りて橋を見ると、こんな感じです ずいぶん手を加えた歩道ですが、気持ちよく歩けます 風鈴ではなくベルで、近づくと鳴ります 焼物(陶器)は大きく陶器と磁器にわけられます。陶器は長石という石の成分がすくない陶土を中高温で焼くため肌のあらい素朴な仕上がりとなり、磁器は逆に長石の多い磁器土を高温(1300度)で17時間以上焼くため、硬く丈夫で肌のなめらかな仕上がりとなります。また磁器土はもとが白いため染付、絵描きするのにも向いています。 街の通りは店舗や窯元など、大半が伊万里焼関係 途中に登り窯がありました 高台からこじんまりした街をのぞむ 川岸の側面に伊万里焼がびっしり 高台(展望台?)から町へもどる 今回の旅行は、家内と同伴しており、それほど長距離は歩けないので、レンタカーを借りて移動し、ポイントごとに散策しています。 伊万里 伊万里駅前... Read More | Share it now!

城郭・史跡,福岡

【福岡県・久留米市 2023.1.18】久留米城は室町時代後期に、このあたりの土豪が砦をつくり篠原城と呼んだのがはじまりと言われています。1587年秀吉が九州一円の平定を終え、論功行賞として「九州国割」をおこない、毛利元就の九男・毛利秀包(ひでかね)を7万5千石の大名として入封させます。その秀包が大規模改修をしていまの久留米城をつくり上げたようです。秀包は秀吉の下、朝鮮の役でも武功をあげ13万石に加増されますが、関ケ原の戦いでは西軍(豊臣方)についていたため、家康の政権下では日の目をみることなく、改易により久留米を去ってのちは毛利輝元の庇護下で長門国内に小さな所領を与えられて蟄居のような暮らしをし、剃髪して仏門に入り、35歳の若さで病死しています。その後は関ヶ原の戦いにおいて家康側で功績のあった田中吉政が近江八幡より32万石に加増の上で筑後に封じられ、その際は柳川城を主城とし、この久留米城は支城として次男が城主となっていたようです。歴史は続きます。田中吉政の長男・忠政が子を残さぬまま死んだため田中家は改易され、かわりに福知山城主であった有馬豊氏が入封し、この有馬家が明治維新まで代々この城を守り続けることになります。さてここまで読んでなにか興味深いことをみつけられましたか。あまりなじみのない人達が入れ替わり立ち代わりしているだけで、それがどうしたんですか、と片付けられそうです。じっさい書きながら記憶に残ったのは「毛利元就はいったいどんだけ子供を残したんや」とその絶倫ぶりに驚いたぐらいでした。そのためか久留米城は訪れる人もなく、さびしくたたずむばかりなのですが、現地で興味をもって見て歩くと、これはなかなか見ごたえある遺産です。 久留米城 久留米城・東南側 久留米城は連郭式の平城で、最南部に外郭があり、北へ向かって三の丸、二の丸、本丸と郭(くるわ:曲輪)が連結して並んでいたようです。そして本丸だけが堅牢な石垣で守られており、その本丸のみが城跡として残っています。いま見ているのは東南側からで、左に大手口、右角には、天守の代わりともいえる3重の巽櫓がありました。 大手口 大手口から入城します 大手口より東側 大手口より西側 大手口より入って振り返る... Read More | Share it now!

城郭・史跡,佐賀

【佐賀県・神埼郡 2023.1.18】佐賀県の北東部、福岡県との県境近くに吉野ヶ里遺跡はあります。弥生時代の典型的な環濠集落で、120haにおよぶ広大さもさることながら、弥生時代700年間の歴史がぎっしり詰まっているのも見逃せません。そしてこの遺跡に注目した一番の理由はというと、「日本百名城」に選定されていることです。日本百名城は、選定の基準自体がはっきりしないのですが、すくなくとも「見た目が美しく感動的」というだけで選定されるものではありません。保存状態が良好なことは大いに関係しているようですが、見事な堀や石垣あるいは建物が残っているにもかかわらず選に漏れている例はたくさんあります。ましてやここは弥生時代の遺跡です。なぜ選定されることになったのか。訪ねてみることにしました。 吉野ヶ里歴史公園 メインゲートの東口 この地に古代の遺跡が残っていることはずいぶん前から認識されていたようです。大々的に発掘調査が行われることになった発端は、1980年代に佐賀県が企業誘致のためこの地に大型の工業団地を建設することを決め、そのための事前調査を行ったところ、思わぬ大規模な発掘発見があり、工業団地建設は縮小となったようです。そして1989年ごろから一部を一般公開することになり、2001年から遺跡公園として開園したとのことです。 土塁、柵、濠、逆茂木... Read More | Share it now!