山登り,神社・仏閣,兵庫

【兵庫県・宝塚市 2023.4.27】宝塚市の南西部から神戸市へと西につらなるのが六甲山系ですが、その六甲山系の北側に宝塚市北西部から三田市へとやはり西にむけて別の山の列なりがあります。そのなかで宝塚市街地からもっとも近い中山にのぼり、大峰山を縦走して武田尾温泉へぬけるルートを歩いてみようと思います。 中山寺 中山寺・山門 この寺の言い伝えでは、聖徳太子が建立した最初の観音霊場とのことで、由緒はあるようです。古くから子授かり、安産祈願の信仰対象となり、皇族、貴族や武家、そしてしだいに庶民からも篤く信仰されてきたようです。ただ再建された建物が美しく造られすぎているのに加え、エレベーター、エスカレーター完備で寺院というよりも、「仏教関連テーマパーク」のようなので、ささっと参拝を終えることにします。 本堂への階段横にはエスカレーター 護摩堂と五重塔 本堂前面 本堂後面、大願塔 大願塔、鎮守社 大願塔から鎮守社、五重塔をみる 登山口へ 中山寺の墓地横をぬけて登山口へ 住宅街を抜けますが、けっこうな急坂 中山寺・奥の院へ 石階段がつづき、 地蔵がならび、いかにも参道らしい路 やがて山道らしい路に変わると、 夫婦岩にたどり着く この道沿いにはたびたびお地蔵さんがいます ここは岩をご神体として祀っています 奥の院 この奥の院もあたらしく改築されたもので、まわりの風景にとけ込んでいないため、樹木の陰から覗き見るような写真にしました。 中山山頂 このあたりは標識が整っています 樹間から丹波の山並みをのぞむ 延々とつづくフェンスは興ざめ 中山山頂からの眺め 大峰山へ向かうはずが、 大峰山へ向かうはずが、 中山から大峰山へ向かうはずが、どうしてもルートが見つかりません。それらしき分岐はあるのですが、標識はなく、分け入ってしばらく進んでみたところしだいに藪深くなり、確信がもてないので引き返しました。こういうことはよくあります。山頂までは標識がばっちりなものの、同じ道を下らずさらに山深く進もうとすると、標識がぱったりなくなってしまう。登山客が少ないから整えないのか、道が荒れていてお勧めできないので故意に標示しないのか。 下山途中、宝塚方向をのぞむ 大峰山は諦めて、間違いなく宝塚方面へ下りられる(と思われる)道をえらんで下って行きます。 登山道は楽しいのですが、どこへ向かっているのか さきほど山上から見えたゴルフ場の脇のようです ひょこり住宅地の端に飛び出しました グーグルマップで調べたところ、宝塚山手台という分譲地の最奥にいることがわかりました。結局大峰山とは真逆方向に来たことになります。いまさら大峰山をめざす気持ちにもなれないので、最寄りの阪急山本駅へと歩きます。 【アクセス】阪急中山観音駅~中山寺~奥の院~中山山頂~(ここで道を見失う)~宝塚山手台~阪急山本駅【満足度】今回は途中中断のため評価なし ... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,城郭・史跡,大阪

【大阪府・藤井寺市 2023.4.23】大阪府の南北でいうとちょうど真中あたり、その東寄りに藤井寺市はあります。世界遺産にも登録された古市古墳群(の一部)や、葛井寺などの古刹もありますが、大阪府外まして関西より外から見れば、あまり知名度のたかい地ではないようです。この地には、かつて近鉄バッファローズという球団の本拠地である藤井寺球場がありました。日本人として初めてメジャーリーグに挑戦してしかも成功した野茂英雄投手がエースとして投げていたころは、プロ野球が地上波で放送されていたこともあり、藤井寺の名はひんぱんにテレビからお茶の間に流れ、藤井寺市の存在を全国に知らしめていました。しかし今ではそれも昔のはなしです。藤井寺市と聞いてもピンと来ない方は、かつて老舗球団のホーム球場があった地と認識してすこしでも身近に感じてください。どんな土地でも、親近感をもち好奇心をもったうえで歩きまわる方が楽しみは倍どころか4倍にも8倍にもふくらみます。 藤井寺へ JR柏原駅から川沿いに歩きます 土手にはクサフジが群生していました 古市古墳群 鍋塚古墳(手前)と仲津姫命陵古墳(奥) この二つの古墳ですが、奥の仲津姫命(なかつひめのみこと)陵が前方後円墳で主たる墓であり、手前の鍋塚古墳は小型の方墳で、その陪塚になります。陪塚は主墳に付属するようそのかたわらに造られ、主墳に眠る貴人の従者や、貴人のために従者がつかっていた生活道具などを埋葬しています。なおこの鍋塚古墳は上にあがれます。 鍋塚古墳上より仲津姫命陵古墳をみる 反対側には、允恭天皇陵古墳がビルの向こうにみえます これから古墳を見て回るのに先立って、埋葬されている天皇、皇后の系譜を記しておきます。むかしむかし大和の国から遠征して各地を平定し、日本をひとつにまとめたとも伝わる日本武尊(やまとたける:倭健)、その息子に仲哀天皇(第二子?)がおり、さらにその息子が応神天皇になります。応神天皇の后がいま見た古墳に眠る仲津姫命です。そして応神天皇と仲津姫命の間に生まれたのが、天皇として(おそらく)もっとも有名な仁徳天皇、その仁徳天皇の子女には、履中天皇、反正天皇、そしていま反対方向に古墳を見た允恭天皇などがいます。いま名前が上がったなかで、日本武尊をのぞき、仲哀天王、応神天皇、仲津姫皇后、允恭天皇の陵墓はこのあたり一帯(古市古墳群)にあり、仁徳天皇、履中天皇、反正天皇の陵墓は堺市の百舌鳥古墳群にあります。しかも古墳の大きさ(全長)順に並べると、1番が仁徳天皇陵、2番が応神天皇陵、3番が履中天皇陵、9番が仲津姫命陵、16番が仲哀天皇陵、19番が允恭天皇陵となり、さらに7番目のニサンザイ古墳(堺市南東部)も正しくは反正天皇のものではないかといわれているので、いかにこのあたりに巨大な古墳が集まっているかがわかります。 道明寺天満宮 道明寺天満宮... Read More | Share it now!

山登り,花、紅葉見ごろ,滋賀

【滋賀県・大津市 2023.4.20】滋賀県の琵琶湖西側につらなる比良山系は、西側の稜線は全体で奥比良とよび、東側(琵琶湖側)の稜線については、北半分を北比良、南半分を南比良と分け、その北比良よりさらに北側をリトル比良と呼びます。先月(3月11日)にはリトル比良の北端からスタートし、岳山~鳥越峰~鵜川越~寒風峠と稜線を縦走し、涼峠を通って下山しました。今回はその続きとして、まず涼峠まで登り、そこから南へルートをとってヤケ山~ヤケオ山~釈迦岳と縦走してみます。前回のリトル比良がその名のとおり少々リトルで標高500~700mの峰がつづいていたのに対して、今回はいよいよ比良山系の中心部に足を踏みこむため標高も1000m前後を歩くことになります。なかでもヤケ山からヤケオ山へはそうとうにハードな急坂登りがありますが、視界がよければ眼下に琵琶湖を見わたす素晴らしい眺望が楽しめます。 げんき村から涼峠へ 北小松駅から... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,花、紅葉見ごろ,京都

【京都府・宇治市 2023.4.17】京都・宇治の平等院で藤の花が見ごろをむかえているとローカルニュースで伝えていたので、さっそく訪ねてみることにしました。ところで宇治の平等院(鳳凰堂)がある一帯は、源氏物語ゆかりの地と言われています。源氏物語は紫式部がのこした平安時代の朝廷を舞台にした創作物語、いまでいう小説ですが、全編54帖(54の小冊子と考えてください)で成り立っています。主人公の光源氏が主役として登場するのは、第1帖「桐壺」から第40帖「幻」まで。第41帖は「雲隠」という題名がのこっているだけで、本文が実存しません。ここは謎の部分です。そして第42帖「匂宮」は、第40帖「幻」から8年後の物語が唐突にはじまり、主人公は光源氏の次男(じつは実の子ではない?)とされる薫の君で、このとき14歳。さらに読みすすめるとわかるのですが、光源氏はどうやら「幻」の数年後、この「匂宮」を基準にすると、その5年ほど前に亡くなっています。さて薫の君が成長し、第45帖「橋姫」で宇治の地を訪ねるところから舞台は徐々に宇治に移ってゆきます。そして第54帖「夢浮橋」で物語は唐突におわります。これで終わりにしたのか、それとも何らかの事故でもあって(たとえば紫式部が亡くなったとか)筆が断たれたのか、そのあたりもよくわかりません。ともかく第45帖から54帖まではおもに宇治が舞台になっているため、この部分をまとめて「宇治十帖」と呼んでいます。それゆえ「源氏物語ゆかりの地」を名乗るのは、けっしてコジツケではありません。 平等院へ 宇治川に架かる宇治橋をわたる 宇治橋西詰には紫式部の像が 縣(あがた)神社の鳥居、平等院へは左の道 平安時代には、この宇治の地は朝廷関係者すなわち帝と公卿の別荘地だったようです。じつは平等院も元は、嵯峨天皇の第十二皇子であり左大臣をつとめた源融(みなもとのとおる)の別荘でした。そしてこの源融こそが、光源氏の実存モデルではないかと言われています。 平等院 表門を入ると、まず小ぶりの藤棚が迎えてくれます 剪定された平戸ツツジの咲く道をすすむ 平等院鳳凰堂 右横からアプローチ 阿地池ぞいに時計回りにまわってみます 鳳凰堂の名は、伝説の鳥である鳳凰が、 翼をひろげているかのようで、後世に名づけられました 真っ赤な霧島ツツジが映える 源融の別荘はゆずりゆずられ、代をへて当時の最高権力者・藤原道真の別荘となり、そのときは「宇治殿」と呼ばれます。ところがその息子の頼道が信仰心から庭もふくめたすべてを寺にあらためることになります。そのころ仏教信仰のうえでは、釈迦入滅後2000年に仏法がおとろえて余が乱れると伝えられており、西暦にすると1052年から「末法の時代」に入るとされていました。脅しではなく、身を律するようにとの戒めだったのでしょうが、これを機に藤原頼道は極楽浄土を再現するかのような美しい寺院を建立します。建物中央が阿弥陀仏をまつる阿弥陀堂で、両脇には他では見られない翼廊が配置されることにより、極楽浄土の宮殿をおもわせる姿になっています。 境内をまわる 六角堂 六角堂の柱は、鳳凰堂の廃材を再使用しているとか 精巧な装飾のある鐘... Read More | Share it now!

城郭・史跡,岡山

【岡山市 2023.4.14】地元の倉敷から急な呼び出しがあって朝一番で出向きました。ところがすぐに用事は片付き、わざわざ大阪から来るほどのこともなかったようなと思いながら、午後からの時間の使い方を考えました。岡山城は昨年11月に「令和の改修」と名打った大規模な改修工事がおわり、ずいぶんきれいになったと聞いています。ちょっとのぞいてみることにしました。 岡山城の築城には戦国時代から江戸時代初期にかけて、複数の武将がかかわっています。しかもその武将たちは直接間接に接触しており、くわしく探ってみるとたいへん興味深い歴史の断片が見えてきます。岡山城の基礎を築いたのは、戦国時代の三梟雄(きょうゆう)として名をのこす宇喜多直家です。直家は数多の策謀により備前の地で勢力を拡大しますが、時代は西に毛利の大勢力がひかえ、東からは織田信長の新勢力が侵攻し、そのはざまで生き延びるべく羽柴秀吉を介して織田家に臣従します。このとき人質として秀吉に預けたのが実子・八郎、のちの宇喜多秀家ですが、直家が病死したあとも秀吉は秀家を養子とし、その才覚稀なことからおおいに可愛がり、天下人となった際には備前・備中に57万石をあたえ、五大老として重用します。そのとき秀家が居城としたのが岡山城で、五大老として恥じない巨城に仕立てなおしています。 岡山城へ 岡山駅から向かう途中に石垣が残っていました 川を引きこんで水堀としていたようです... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,城郭・史跡,京都

【京都市・伏見区 2023.4.13】豊臣秀吉は、日本史上最高最大の出世人であることは間違いないでしょう。しかも信長のように冷徹に部下を動かし敵を切り従えてゆくのではなく、情にふかく、自虐ネタで笑いを誘い、相手をいつの間にか心服させる、その武人としての処し方に好感を持ったファンも多いはずです。ところがその秀吉は、老境に達したころから急激に狂いはじめます。いまで言う認知症の兆候もあったようですが、単純に耄碌したとかでは片づけられない言動をみせます。側室とした淀君が待望の男子(捨、あるいは鶴丸)を生み、狂喜したのもつかのま2年後の1591年に夭折、同年片腕と頼んでいた弟の秀長が病没、そしてその二ヶ月ほどのちにはもう一方の片腕であったはずの千利休に切腹を命じます。さらにその翌1592年には生母の大政所が亡くなり、このあたりから完全に精神状態がおかしくなってきたようです。世継ぎができないと悲観し、甥の秀次に関白を譲ったものの、1593年に淀君がふたたび男子(拾、のちの秀頼)を生みます。この秀頼ですが秀吉とは容姿からして違い、周囲ではタネが違うと噂しているにもかかわらず、秀吉はこの子を溺愛し、あげくに一旦は自分の後継者ときめた秀次を高野山へ追いやり自害させます。さらに秀次の妻妾子女を三条河原で全員殺して遺体は穴に投げ込んで埋めさせ、関白職とともにゆずった聚楽第の城郭兼邸宅を跡形もなく破却します。 秀吉は関白職を退き太閤となりますが、そのとき聚楽第から移り住むために造ったのが伏見城です。今日はその伏見城を訪ねてみたいと思います。●分かりやすくするため、今回は歩いた順どおりでなく、故意に並べ替えをしています。 伏見指月城 伏見指月城の石垣 じつは伏見城は3代目まであります。最初に伏見の宇治川沿いに築いたのが1代目ですが、この城は完成とほぼ同時に慶長伏見地震で崩壊してしまいます。城として存在した期間があまりに短いため資料が乏しく発掘調査が行われることがなかったのですが、この地でマンションを建設する際にひょっこり遺構が出てきたそうで、いまはそのマンションの外塀沿いに石垣を遺しています。(きっと当時の石で再現したものだと思います) 伏見丘陵 伏見指月城が崩壊したあと、2kmほど離れたいま伏見丘陵とよばれる木幡山にあたらしい城を築きます。指月城の残骸を再利用することで翌年には完成、旧城と区別するため伏見木幡山城とも呼ばれます。その城で秀吉は生涯を閉じるのですが、やがて豊臣方と徳川方の相克が表面化してゆき、関ケ原の合戦に先立つ前哨戦で焼失、こちらもわずか3年しか存在しませんでした。そして関ヶ原の2年後、1602年に家康により3代目の城が造られますが、1619年に廃城となり、伏見城は完全に姿を消します。 桓武天皇・柏原陵へつづく道 ふり返ると、なだらかに隆起しているのがわかる (模擬)大手門 現在ある伏見城は、洛中洛外図をもとにつくった模擬城で歴史的な価値はありませんが、ひとつの建造物として見て純粋に美しく、興味深いものだと思います。 小天守と大天守(耐震強度の問題で入れません) それでも公園として楽しめます(入場無料) 明治天皇御陵へむかう道 その道沿いに伏見城に使われるはずだった石が残る 明治天皇御陵... Read More | Share it now!

山登り,花、紅葉見ごろ,大阪

【大阪府・泉佐野市、熊取町 2023.4.11】大阪府の南端に、和歌山県との境目をしるすように和泉山脈が東西につらなっています。そのなかに低山でありながら瀬戸内海をながめ、周囲の山々をのぞみ、ふたつのダム湖を見下ろしながら、ちょっとしたアルペン気分を楽しめる山があります。むかしから雨乞いの山として知られており、その名も雨山といいます。山歩きを彩ってくれる草花のなかでも、可憐であり華麗でもあり心癒されるミツバツツジの咲くころが、雨山を歩くにはベストではないかと思います。今年は全体に花の開花が異常にはやいのですが、本来なら今ぐらいがちょうど見頃になる雨山のミツバツツジがすでに散り始めていると聞いて、あわてて予定をくみました。 城ノ山 雨山にむかう途中にある神社のクスノキ 阪和自動車道の橋脚直下をぬける 道は思った以上に、山路らしい山道です 南西を見わたすと、かわいい泉州小富士山(260M) 曲輪跡 雨山には南北朝時代から城がつくられていました。ところが雨山の西にある、すなわち今登っている城ノ山にも城跡があり、以前は別々の城と考えられていましたが、近年の調査ではどうやらふたつの峰をセットにして城を構成していたようで、そこで城の名もふたつ併せて、いまでは土丸雨山城と呼ばれています。ここは元土丸城の、見張り用の曲輪跡と思われます。すなわち土丸雨山城のいちばん西の端の曲輪になります。 元土丸城の本丸跡と考えられていたところ 城ノ山をふり返り見る 雨山 岩の上をあるく場面もあります ミツバツツジが咲いています(実はだいぶん散っています) 雨山山頂に祀られた龍王社 雨山は雨乞いの山ですから、山頂には龍王社が建てられており、水の神である龍王大神を祀っています。右側にある木は、ヤマモモの老大木。 西ハイキングコース 雨山山頂から下ると、 熊取町が整備したハイキングコースに合流します 城ノ山(左)と雨山をふり返り見る ミツバツツジは半分以上散っていますが、 それでも十分に楽しませてくれました 一気に下って、鉄塔のある小さなピークを上ります 上永楽池 進行方向の眺め... Read More | Share it now!

山登り,花、紅葉見ごろ,奈良

【奈良県・宇陀郡 2023.4.9】奈良県北東部、三重県との県境に接するあたりに、室生山地あるいは室生火山群とよばれる山塊があります。これらの山々ですが、1500万年前の火山の噴火による火砕流堆積物が積みかさなって、ついには数百メートルもの堆積となり、さらに河川によって長い年月の間に浸食されて深い谷がつくられ、そうして特異な景観の山として現代にいたったものです。特徴としては標高1000m前後の峰が突き立つように立ち並び、その側面は柱状節理とよばれる多角柱の岩肌をみせています。また登山するには斜面はいずれも急坂で、ときに断崖絶壁を横目に見ながら歩くこともあり、スリルもあれば体力も必要とされ、そこそこ本格的な山登りが体験できます。10年ほど前にこの室生山地には魅せられて、全山登った経験があるのですが、このたび再度チャレンジしてみようと思います。まず最初は柱状節理の代表ともいえる名物の屏風岩を下から眺め、脇の道から背後へまわり、住塚山と国見山を登ってみます。 屏風岩公苑へ バス停から屏風岩(前方の五つの峰)を望む 大阪から近鉄電車でいったん三重県の名張まで行き、そこから1日数本のバスでおよそ1時間、長野バス停まできます。公共交通機関をつかうと、これぐらいしかアクセスの方法はありません。 屏風岩にむかって坂道を歩きます この辺りになると、車は屏風岩へ向かうもののみ ずいぶん上がってきています およそ1時間ほど歩いて屏風岩公苑に着きます。車もはしる一般道とはいえ、勾配はけっこう急で、長野バス停が標高450m、ここが標高770mなので、すでに320mも登ったことになります。 屏風岩と公苑の桜 西から中心部へ 中心部 中心部から東へ... Read More | Share it now!

山登り,花、紅葉見ごろ,兵庫

【兵庫県・神戸市 2023.4.4】以前書いたことがありますが、兵庫県の南東部にある六甲山は、東は宝塚から西は明石まで30km余の長さでひろがる山系(あるいは山塊)のことを言い、単独で六甲山という名の山があるのではありません。それゆえ一番高いところは山頂とは呼ばず、六甲山最高峰と言います。今日はその最高峰からすこし西、六甲山系でいえば、ちょうど真中あたりに位置する摩耶山に登ろうと思います。 ところで六甲山の名の由来ですが、少々マユツバな話が伝わっています。古代に大和(奈良)に都があったころ、海沿いの難波(大阪)まで出てくると、海の向こうに山(いまの六甲山)が見えました。「向こう」のことを古代には「むこ」と言い、向こうの山は「武庫山」、向こうの川は「武庫川」、「向こうの里」は武庫之荘と呼ばれ、武庫山はのちに六甲山と書きなおされ、音読みでロッコウと呼ばれるようになったとか。なんだか眉唾物のようですが、たしかに六甲から流れてくる川に武庫川はあるし、武庫之荘という地名も尼崎市に実存しています。また六甲の麓にある高級住宅地としてしられる芦屋(あしや)は、葦(あし)でふいた屋根の家々がならんでいたことからそう呼ばれるようになったぐらいなので、案外ホンマかもしれません。 新神戸駅へ 阪急三宮駅から北東へ歩く... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,城郭・史跡,花、紅葉見ごろ,滋賀

【滋賀県・彦根市 2023.4.1】今年は桜の開花が早いだけでなく、開花してから満開になるまでの期間が異例の早さで、この一週間ほどの間に関西の大半の桜スポットが満開を迎えています。満開になってからの見頃はせいぜい1週間なので、どこをどのタイミングで訪ねるか計画するのに焦ってしまいます。今後の天気も含めて考えると、いまのタイミングで、今年の大本命と想定していた彦根城を訪ねるべきと判断しました。 彦根城へ 彦根駅2階より... Read More | Share it now!