長谷川等伯

2023.6.16記 京都市内・本法寺境内にある「星雲」と名付けられた長谷川等伯(信春)の像。これと同じ像は等伯の出身地である石川県・七尾市のJR駅前などもにあります。志をむねに京の都へむかう若き日の姿を描いているそうですから、七尾のものが本家ということになります。 長谷川等伯と狩野永徳 長谷川等伯といえば、かならず比較されるのが当時の画壇の主流・狩野派の棟梁だった狩野永徳です。どちらの方が画師として優れていたかといえば、比較評価できないと言わざるえません。ひとつには両人とも画師として前人未到の領域に達しており、その両人に優劣をつけるのは個人々々の好き嫌いでしかないということ。そしてもう一つの理由は、狩野永徳については現代に遺っている絵があまりにも少ないという事です。永徳が寡作だったというのではありません。織田信長や豊臣秀吉にひいきにされ、安土城、大坂城、聚楽第などに膨大な屏風絵や障壁画をえがいていたはずです。ところが権力者の城や御殿(すなわち大舞台)を中心に描いていたばかりに、激動する時代の波に呑まれ、その全部が消失(大半は戦火による焼失)してしまいます。では等伯はというと、若いころは仏画をえがいており、また壮年になってからも仏画師であった縁から僧侶の肖像画や、寺院の方丈(住職の居所)に襖絵をえがくなどの仕事が中心で、そのため焼失せずに遺されたものが多いという幸運に恵まれています。等伯の作品がそのような理由でたくさん遺ったという事実は、後世の絵画ファンにとっては僥倖と言えるかもしれませんが、等伯本人が知ったなら苦笑したことでしょう。当時の等伯にとって狩野派は頭上をおおう堅牢な屋根か、あるいは高くそびえる壁のようなもので、狩野派が画壇を支配しているがために自分には大きな仕事が回ってこない、自分も権力者の城や御殿のような大舞台で筆をふるってみたい。能登の七尾から京へのぼってきた等伯は、つねに狩野派を意識し、その棟梁である永徳にたいしてはいやが上にも対抗心を抱いたはずです。 ★長谷川等伯は壮年過ぎるまで「信春」の名でしたが、ここでは「等伯」で通しています。 智積院の大書院に描かれた楓図と桜図(レプリカ) 現在ある智積院は、もとは秀吉が幼くして亡くなった愛息鶴丸のため菩提寺として建てた祥雲禅寺です。千利休の助力により、その祥雲禅寺に等伯・久蔵父子は障壁画をえがきます。それが楓図(等伯作)と桜図(久蔵作)です。(当時は異なる部屋に描かれていました)豊臣家をたおした家康は、秀吉の名残りである祥雲禅寺を真言宗の智積院へ建て替えさせますが、そこにあったすべての絵を残して引き継がせます。画像は【aruku-116】よりhttps://yamasan-aruku.com/aruku-116/ 仏画師として頭角をあらわす 等伯は、七尾一帯を守護職としておさめる畠山氏に従属する武家の次男として生まれます。そのころの畠山氏は没落名家そのもので、財力もなく勢いもなく、その畠山氏にぶら下がるレベルであれば、武家とはいっても刀をもって生きてゆけるのはせいぜい長男のみ。娘ならば嫁がせて片付けられるものの、次男となるとそういうわけにもいきません。そこへ長谷川となのる染物屋から養子にもらえないかと話がもちこまれます。等伯(信春)が幼少のころから画をえがくに優れた才をみせていてスカウトに近い形で養子入りしたとの説もありますが、詳しいことはわかりません。確かなことはその長谷川の家は染物屋であると同時に仏画をえがくことも業としていたこと、養父から可愛がられ染物屋としてではなく仏画師として家を継ぐよう勧められたこと、長谷川家は日蓮宗に帰依しており仏画ももっぱら日蓮宗の寺院に奉納していたこと、そして等伯自身も熱心な日蓮宗徒の養家でそだち、日蓮宗の寺院におさめる仏画をえがき続けるうちに、すくなからず日蓮宗に帰依していったであろうことは想像できます。 等伯は仏画師としてその才能を開花させ、しだいに能登一帯に名を知られるようになります。ところが嫁ももらい、長男(のちの長谷川久蔵)がうまれ、順風満帆とおもわれた矢先に養父母が相次いで亡くなります。等伯にとっては長谷川家に養子入りしたことが人生最初のターニングポイントであり、この養父母の死が二度目のそれになったはずです。等伯は七尾の地でそこそこ有名な仏画師でおわることに満足できなかったのでしょうか。そうではなく、自分のなかに渦巻く「画を描きたい」という激情を、このせまい能登ではとても燃焼しつくせないと思ったのではないでしょうか。まもなく等伯は、妻と久蔵をつれて京へと向かうことになります。 妙成寺 石川県羽咋市(はくいし)にある妙成寺は、日蓮上人の孫弟子にあたる日像が開いたと伝わる日蓮宗の寺院です。等伯の時代、七尾から京都へゆくには、まず七尾から徒歩で能登半島を横断して羽咋へ。羽咋からは船に乗って敦賀まで行き、そこから京都まで歩くというのが最短ルートだったようです。それゆえ等伯は間違いなくこの羽咋へは来ているはずで、妙成寺には信春時代にえがいた「涅槃図」が残されています。画像は【aruku-142】よりhttps://yamasan-aruku.com/aruku-142/ 京にて雌伏雄飛する 等伯が七尾から京へと出てきたのは、両親が死去した直後と推測されるため33歳のころではないかと思われます。そこからのちの等伯の足取りははっきりしません。その後で明言できるのは、およそ20年後すなわち等伯50代前半に、豊臣秀吉が幼くして亡くなった愛息鶴丸の菩提を弔うために建立した祥雲禅寺に、息子や弟子たちとともに後世に語り継がれる障壁画をえがいた事実です。その20年の間は何をしていたのか。雇われて扇に絵をえがいて糊口をしのいでいたとも、そうではなく自分で店をかまえて自作の扇を売っておおいに繁盛していたとも説がありますが、たしかなことは分かりません。一時期ですが、狩野派に弟子入りしていたとも言われています。これはけっこう信憑性のたかい話のようですが、具体的な時期や期間はまったくわかりません。しかし残した作品から推測できることがいくつかあります。○京に上ってきてまだ間もないころに、世話になっていた本法寺(この寺は日蓮宗の本山で、上洛後しばらく等伯親子はこの寺院の一隅で暮らしていたともいわれています)の住職日堯上人の肖像画をえがいています。その画は、人物観察の鋭さと人物の内面をえがきだす筆の確かさを示しています。○祥雲禅寺にえがく4年前に、千利休が寄進した大徳寺山門に天井画や柱絵を描いています。このことから上洛後いつの時点かで千利休と出会い、その知己を得るに至っていたことがわかります。○その翌年に(おそらくは千利休の仲介もあってか)豊臣家五奉行のひとり前田玄以に取り入り、天皇の御所の障壁画をえがくチャンスを得かけますが、狩野永徳の横やりで話がつぶれてしまいます。この事実で、狩野永徳がいかに長谷川等伯を意識し、その活躍と才能に危機感をもっていたかが分かります。 そして等伯にとっては思わぬことからチャンスが訪れます。はたしてそれを等伯が喜んだかどうかは分かりませんが、狩野永徳が急死するのです。棟梁である永徳の急死で混乱する狩野派に大仕事をうける力はありません。そもそも依頼する側からして永徳のいない狩野派は名前だけの存在でしょう。こうして祥雲禅寺の仕事は等伯に任せられます。 本法寺 この寺には長谷川等伯の御墓もありますが、最近建てたものなのか、まるで「ご近所さんの御墓」を見るようで、まったく偲ぶ気持ちに浸れませんでした。画像は【aruku-148】よりhttps://yamasan-aruku.com/aruku-148/ 長谷川等伯... Read More | Share it now!

城郭・史跡,香川

【香川県・高松市 2023.6.26】豊臣秀吉による四国平定ののち、讃岐一国は生駒親正にあたえられます。親正は野原庄とよばれていた港にあたる地を高松と名をあらため、ここに海城(水城)を築きます。海城とは海からの海水を外堀、内堀に引き込み、海から直接出入りできるように築城したもので、設計(縄張り)は築城の名手であった黒田如水(もと黒田官兵衛)ともいわれています。その後、徳川家康の孫であり徳川光圀(水戸黄門)の兄にあたる松平頼重が常陸の国から12万石で転封され、改修していまに残るものとなったそうです。 高松城については、歴史的にはそれほど強く惹かれる人物も関わっておらず、その意味では関心がなかったのですが、現存する海城(水城)を見たことがない上に、日本百名城に選定されているということで所用で岡山県の児島へ行ったついでに回り道をしてみました。◎ちなみに児島から高松までは電車で30分、高松から大阪へは高速バスで4時間。児島から岡山を経由して新幹線で大阪へ戻るより時間的には長くかかりますが、料金的には安く上がりました。 艮櫓、旭橋、旭門、桜御門 JR高松駅を出ると、すぐ横に高松城址が見える 先ずは南へ回って艮櫓へ、旭橋と旭門より城内へ 艮櫓の艮(うしとら)ですが、そもそも丑寅と書いて北東を指します。ところが現在のこの位置は城全体からいうと南東です。不思議におもって案内を読んだところ、もとは北東(丑寅)の位置にあったものを移築したのだとか。昭和40年に移築したそうですが、どのような意図があって移動させたのやら。(このあたりからこの高松城に関しては、胡散臭いというか、歴史の品格を感じられない空虚感を感じはじめました) 城内から艮櫓をみる 桜御門... Read More | Share it now!

山登り,滋賀

【滋賀県大津市 2023.6.25】林野庁のホームページに「近江湖南アルプス自然休養林」の紹介として、つぎのような文章が掲載されています。『滋賀県の南部に位置し、花崗岩の岩塊群が独特の景観を作り出し「湖南アルプス」と呼ばれ、琵琶湖まで見渡せる素晴らしい眺望が広がっています』どうやらこの文章では、近江湖南アルプス=湖南アルプスとしているようです。少々ややこしいのですが、近江湖南アルプスは、南に位置し太神山、矢筈ヶ岳、笹間ヶ岳を中心にしたものを湖南アルプスとよび、北に位置する鶏冠山、竜王山を中止にしたものを金勝(こんぜ)アルプスとよぶのが登山者のあいだでは通例になっています。近江湖南アルプス全体が上の文章にあるようにたいへん魅力あるものなのですが、今回登るのは、低山とはいえ湖南アルプスよりは多少は標高も高く、「登った感」もあじわえる金勝アルプスです。 山歩きを楽しむ バスを降りると、キャンプ地横の駐車場を抜けます ほぼ平坦な林道をのんびり歩きます 山道に入ると渓流を渡渉しながら進みます 山道というより自然遊歩道を歩くような 道標も整っています ここまでは山道とはいえ勾配はいたって緩やかで、危険な箇所はまったくなく、道標も整っており、たいへん楽しく歩けます。案内板にも「ハイキングコース」とありました。 そして山登り 寄り道して、滝をながめ 山登りになりました これくらいまで上がってきました 岩肌の露出した地面を歩きます 岩場を登ります 要所にはロープがあり、登りやすい 周回路は左、右へゆくと鶏冠山 この分岐から鶏冠山の山頂へは往復40分ほどですが、道程はおもしろみなく、山頂はやぶの中で眺望なし。山歩きを楽しむのが目的なら、とくに往復する必要はないかと思います。 ◎鶏冠山はこの地では「けいかんざん」と読みます。「とさかやま」と読むのは、山梨県にある2000m超級の、まさにトサカのように峰々が切り立った、熟練者向きの山です。 天狗岩へ ふり返ると、鶏冠山が見える この岩越えも道のうち 山肌がえぐれた道もあれば 岩と石だらけの道もある 地震でも崩れないのか? 真正面に見えるのが鶏冠山 さらに岩場を越えると、 前方の視界が開け、天狗岩が見えました 天狗岩へ... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,奈良

【奈良県・生駒郡斑鳩町 2023.6.20】法隆寺は聖徳太子ゆかりの寺です。聖徳太子は天皇(当時は推古天皇)が暮らす宮や政務をとる機能などを飛鳥から斑鳩の地へと移すにさいして、仏教布教のため天皇の宮のとなりに斑鳩寺を建立します。この斑鳩寺は聖徳太子の死後に焼失しますが、その跡地のうえに新しい寺が建立されます。これがいまの法隆寺です。そもそも法隆寺の再建については、「日本書紀」に斑鳩寺が消失したことが書き記されているにもかかわらず否定する意見が強く、昭和の時代になっての発掘調査により旧伽藍跡(若草伽藍とよばれる)がみつかり、やっと再建説が一般化します。再建時期については、現存する建築木材の年輪調査などにより西暦690年から710年頃のあいだに完成したものと考えられており、この年時にしたがえば、聖徳太子もその血をうけつぐ蘇我氏は完全に衰退し、藤原不比等の活躍で藤原氏が最初の黄金期を迎えようとしていたころにあたります。藤原氏といえば大化の改新をすすめることで頭角を現わしますが、そのころ朝廷とも婚姻関係をむすんで絶対権力をにぎっていたのは蘇我氏、そのなかでも主役である蘇我蝦夷・入鹿(えみし・いるか)親子を殺害するクーデターから始まります。中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、天皇家)を中臣鎌足(なかとみのかまたり、藤原家の始祖、のちの藤原鎌足)がうしろで扇動することでクーデターを成功させ、天皇中心の律令制国家へと改革したのが大化の改新です。しかしその後の歴史を見てみると、しだいに藤原氏が存在感を増してゆき、蘇我氏がそうだったように天皇家と婚姻関係をむすび、権力を独占してゆきます。そうしてみると、大化の改新の始まりとなるクーデターそのものが、藤原氏が当時の蘇我氏の絶対権力を奪い取り、まんまと我がものにするのが目的であったとさえ思えてきます。これらの歴史をふまえて考えると、なぜ藤原氏が蘇我氏と濃密につながる聖徳太子のために法隆寺という大寺院を再建したのかという疑問が浮上します。 法隆寺へ 法隆寺へと向かう参道 聖徳太子の死から大化の改新の起点となる蘇我蝦夷・入鹿親子暗殺(実際には入鹿は謀殺され、蝦夷は自害している)に至るまでの間には、もうひとつ別の事件がおきています。 聖徳太子の息子であり、いずれは天皇位につく可能性のあった山背大兄王(やましろのおおえのおう)が、さきの蘇我蝦夷・入鹿親子によって自害に追い込まれています。 南大門 これは蘇我蝦夷・入鹿親子にとって都合のよい、すなわち自分たちが絶対権力をにぎるうえで扱いやすい天皇を継承させるためには、人々の信任あつい聖徳太子の息子に表舞台に出てこられては困ると考えたからでしょう。聖徳太子は蘇我氏の血を継ぐだけでなく、蘇我蝦夷の姉を妻として、その子が山背大兄王ですから、これはまったく一族間の争いということになります。 南大門から、さらに中門へと歩く 昭和四十年代ですから今では「むかし」と言ってもいいかもしれませんが、哲学者の梅原猛氏が法隆寺に関して独自の評論を発表し、それが『隠された十字架』として出版されると一大センセーションを巻き起こしました。主とするところは、聖徳太子の怨霊を鎮魂するために法隆寺は建立された、というものです。 中門 中門... Read More | Share it now!

山登り,大阪

【大阪府千早赤坂村 2023.6.18】最後に金剛山に登ったのは昨年秋ですが、そのさい黒栂谷からカトラ谷を登って行く予定でした。ところが黒栂谷を順調にさかのぼったのは間違いないものの、その先で分岐道を間違え、間違えただけでなく、あとから振り返ってみてもどのルートを登ったのかさえ分からない不面目。それ以後、もう一度カトラ谷ルートに再挑戦しようと思いながら延び延びになっていました。今回思い出したようにカトラ谷再挑戦に思い至ったのは、なんとも暑くて出歩くのも億劫になってくるこの季節、樹林のふかい緑の下、しかも渓流沿いを歩くのなら涼しいのではないかと単純に思いついたからに他なりません。 黒栂谷道をあるく 南海河内長野駅からのバスは、途中土砂崩れのため終点のロープウェイ前までは行かず、登山口前で全員降ろされました。もとから登山口前で降りるつもりだったのでこの時点では問題はないのですが、予定していた下山ルート(伏見峠から念仏坂をくだる)だと、そのロープウェイ前に下りてくるため、必然的に下山ルートは変えざるをえません。下山ルートについては山頂について考えるとしてともかく出発します。 前回もきたT字路。左へ行けば黒栂谷道です ここも前回もきた車止めゲート。ここはそのまま通過 黒栂谷道を進みます さらに進みます... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,城郭・史跡,奈良

【大阪府・南河内郡太子町 2023.6.14】大阪府の南東寄り奈良県との県境に太子町はあります。過去の歴史から言うと、大和に属するといえなくもありませんが、難波(大阪)と大和(奈良)の綱引きあいで大阪に引き込まれたということでしょう。太子町になにがあるかと言えば、飛鳥時代の皇族の陵墓が点在しています。もっとも著名なところでは聖徳太子。また皇族ではありませんが、遣隋使として活躍した小野妹子の御墓もあります。午前中に二上山に登り、「ろくわたりの道」をあるいて太子町に到着しました。 竹内街道 下ってきた二上山も雨雲に覆われ 竹内街道と合流したころには雨滴が落ちてきた 竹内街道にのこる常夜燈 竹内街道は飛鳥と難波をむすぶ、国(当時は倭国)によってつくられた最初の道、すなわち正真正銘の国道1号線ということになります。もちろん当時の面影はありませんが、全体に瓦屋根の家が中心で、田園地帯も随所にひろがり、のどかな散策を楽しめます。もっとも今日は、これから雨が本降りになるとのことゆえ、いそいで御陵巡りに向かいます。 孝徳天皇陵 小高い丘の中腹にある孝徳天皇陵 孝徳天皇(36代天皇)は見方によっては可哀想な方です。まず頭に置いていただきたいのは、聖徳太子をはじめその時代に生存した用明天皇(31代、太子の父)や推古天皇(33代、太子の叔母)、敏達天皇(30代、推古天皇の夫)は皆蘇我氏の系統に入ります。聖徳太子の皇子で、推古天皇の次の天皇と目されていた山背大兄王が蘇我蝦夷・入鹿父子の策謀で天皇即位を妨害され、ついには自害しますが、これはまだ蘇我氏一族内での内紛でした。 雨は本降りになってきました その後全盛をほこった蘇我氏(蝦夷、入鹿)を殺害し、政権を奪ったのが中大兄皇子とそれに協力する中臣鎌足です。この政権奪取は結局のところ鎌足が藤原姓を賜り、その後の藤原家の勃興隆盛に繋がるのですから、蘇我氏をつぶして藤原氏が取って代わるクーデターだったと言えます。 太子町はマンホールの蓋も一味違う このとき天皇位についたのが、孝徳天皇です。孝徳天皇は蘇我氏の末裔で(敏達天皇の孫)、急激に蘇我氏主導から藤原氏主導へと移行することをカモフラージュするために形式的に天皇位につかされた感があります。ですから大化の改新はこの孝徳天皇在位中に進むのですが、孝徳天皇の活躍としてはあまり印象がありません。やがて孝徳天皇は病没し、斉明天皇(中大兄皇子の母)の時代をへて、中大兄皇子本人が即位し天智天皇となります。 小野妹子 利長神社 神社横の長い階段をのぼると、 小野妹子の墓がある 小野妹子をウェブで調べると、よく「男性」と注釈がついています。間違いなく男性です。聖徳太子が生存していた時代に遣隋使のなかでも筆頭書記官のような役で隋へ赴きます。蘇我氏の家系ではないかとの説もあるものの定かではないのですが、一般庶民がおいそれと官吏のトップに取り立てられる時代ではないので、なんらかの繋がりはあったのかもしれません。 ところでこの小野妹子の御墓のあるあたりはたいへん雰囲気の良いところでした。 推古天皇陵、用明天皇陵 雨は降りつづきます 推古天皇(聖徳太子の叔母)と用明天皇(太子の実父)については、いずれ聖徳太子とともに詳しく書くつもりですので、今回は説明を省きます。 また雨で足元がずぶぬれになってきたので、この先にある敏達天皇(推古天皇の夫)の御陵は、申し訳ないですがパスします。 山田高塚古墳(推古天皇陵) 推古天皇陵の礼拝所 春日向山古墳(用明天皇陵) 用明天皇陵の礼拝所 叡福寺と聖徳太子御廟 叡福寺・南大門... Read More | Share it now!

山登り,奈良

【奈良県・葛城市~大阪府・太子町 2023.6.14】「うつそみの 人なる我(われ)や 明日よりは 二上山(ふたかみやま)を 弟(いろせ)と我(あ)が見む」天武天皇の第三皇子だった大津皇子は、その優れた人柄を慕われ次の天皇と嘱望されていましたが、天武天皇が崩御すると突如謀反の疑いをかけられ、早々に自害に追い込まれます。もちろん権力争いに巻き込まれた結果ですが、大津皇子が人柄だけでなく、文武両道にすぐれ、さらにイケメンだったことから「悲劇のプリンス」と伝説化します。これは西暦7世紀のことで、なにを証拠にイケメンだったといえるのかとの声もあるのでしょうが、ブサイクとかクライと言われるより、「イケメンでカッコイイ」と言われる方が歴史に残しやすいのであり、歴史とはいろいろ情報操作しながら美化されてゆくものですから、ふかく考える必要はありません。 さて冒頭の句ですが、大津皇子が二上山に葬られることになり、実姉である大来皇女が弟を見送りながら悲しみの中で歌ったとされる万葉集のなかの一句です。「この世に生きている私は、明日からはあの二上山を弟と思って見ることになるのでしょうか」 なお二上山は、むかしは大和言葉の読みで「ふたかみやま」とよばれ、いまは「にじょうさん」と呼ばれています。今日はその二上山に登ります。 二上神社横の登山口が通れない 麓にある二上神社 その横の登山口が、なんと通行止め 二上山... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,奈良

【奈良市 2023.6.10】平安京(京都)にたいして平城京は南に位置するため、いまでも奈良のことを南都とよびますが、その南都において聖徳太子からはじまる、朝廷の仏教布教政策とその保護を受けて隆盛した仏教寺院7つをまとめて南都七大寺とよびます。法隆寺、東大寺、西大寺、薬師寺、大安寺、元興寺、興福寺と、錚々たる名が並びます。 今日はその中の薬師寺を訪ねてみるつもりなのですが、拝観料をネットで調べて仰天しました。薬師寺の拝観料は、季節と特別公開の有無で変わるシステムですが、今回すべてを見るつもりでいたらセット価格で1600円になります。高い!そもそも神社が全国どこでもほぼ無料なのにたいして、寺院は無料のところもあるが有料のところも多いです。その理由は、明治維新のさいにそれまで神も仏も一緒に崇拝されていたものを、きちんと分けて役割分担しましょうということに決まります。これが神仏分離令です。そして神を崇める日本古来の神道(本来シンドウではなく、シントウと読みます)は国が管理する、それゆえ国民はこぞって神社へ参詣できるよう参拝料は無料。(以前は神主は公務員のように国から給料をもらうなど国の管理だったようですが、いまは一切なくなり有名神社以外は兼業で維持しているそうです)それにたいして寺院は宗派の違いこそあれ、すべて仏を敬う仏教であり、各々の寺院はそれぞれの自助努力でやっていきなさいということになります。そのかわり布施や賽銭には課税されないし、寺領には固定資産税もかからないという特権は残されます。さて薬師寺ですが、仏教は仏教でも飛鳥時代にはじまる法相宗、これは人の死後のことを世話してくれるのではなく、いまを正しく生きてゆくには人はどうあるべきかを考える「学問仏教」です。ですから薬師寺には墓地がありません。檀家がいません。もちろん葬式も行いません(行えません)。これは何を意味するか... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,岡山

【岡山市 2023.6.6】岡山といえば桃太郎があまりに有名ですが、そもそも県をあげて売り出しているようで、野菜(トマト)や果実(ブドウ)、さらにはジーンズのブランド名にもなっています。また岡山駅から西へはしるJR線はずっと吉備線と呼ばれていましたが、いまでは桃太郎線と名前をかえています。なぜ吉備線が桃太郎線にかわったかというと、岡山市の西から総社市にかけての一帯がかつて「吉備」とよばれた地方ですが、そこには吉備津神社、吉備津彦神社があります。そしてこれらの神社に祀られる吉備津彦命(きびつひこのみこと)こそが桃太郎のモデルとされているからです。 吉備津神社 吉備津神社の参道は松並木 入口には注連縄(しめなわ) 「日本書紀」によると、紀元前1世紀頃、北陸、東海、丹波、西道の4地方を統治するためそれぞれに皇族出身の将軍が遣わされました(これを四道将軍という)。そのなかで第7代孝霊天皇の皇子である彦五十狭芦彦命(ひこいせさりひこのみこと:のちの吉備津彦命)は西道平定を担い、山陽道を西進し吉備へといたります。そしてここで反抗する豪族を征伐したそうです。ところが吉備津神社につたわる縁起(由来の記録)では、この地に温羅(うら)とよばれる鬼がいて人々に害を及ぼすため、都から吉備津彦命がやってきて、「鬼の城」に棲む温羅とたたかってやっつけた、ということになっています。(そのなかで温羅が鯉に変身して逃げるところを、吉備津彦命は鵜に姿をかえて追いかけて捕まえたというくだりがあります)これが土地に伝わる伝説、いわゆる昔話になると、桃太郎は桃から生まれ... Read More | Share it now!

山登り,滋賀

【滋賀県蒲生郡 2023.6.4】滋賀県と岐阜県、三重県の県境にそって鈴鹿山脈はあります。その連なりのなかでずっと南、さらにぐっと西に突き出たところに位置するのが綿向山です。標高は1110mありますが、山容はおだやかで、登るのにそれほど難儀することはありません。ただ、一昨日は線状降水帯が各地に発生する大雨で、このあたりもずいぶん降っています。そうなると地盤が緩んでいる恐れもあり、細心の注意が必要です。 バス停から登山口へ バス停から一般道路を歩いて綿向山へ 間道に入ります... Read More | Share it now!