【京都府・亀岡市 2023.11.26】京都市の西に隣接して亀岡市はあります。亀岡市は観光で有名な保津川下りの出発地点であり、ここから舟は水流にのって嵐山まで下ってゆきます。サッカーチームの京都(パープル)サンガのホームスタジアムがあることでも知られています。もうひとつ、歴史ファンにとっては明智光秀との関わりを忘れるわけにはいきません。この亀岡には明智光秀の居城であった丹波亀山城がありました。その亀山城から北西13kmの地点に半国山(はんごくやま)はあります。たいへん見晴らしのよい山で、まるで三国をそれぞれ半分ずつ見わたせるということが(現実には丹波の半分、摂津のすこし、播磨を遠くのぞむくらいですが)山の名の由来になっています。三国の半分はさておき、ともかく見晴らしがよいのは事実で、この半国山に東からつらなる尾根にそい、ちょうど山陰道を見下ろすように、室町時代には神尾山城(かんのおさんじょう)が築かれています。築城当時は砦ていどのものだったのでしょうが、明智光秀が丹波攻略の際にここを拠点とするため大修築をほどこし、石垣もつみあげた立派な山城に仕上げたのではないかと推測されています。今日は、半国山にこの神尾山城側からのぼって山頂に立ち、音羽渓谷のハイキング道を散策しながら下ってみたいと思います。 宮川バス停からスタート 宮川バス停から山へ向かいます 宮川神社参道... Read More | Share it now!
戦いの歴史にも翻弄された吉野山
【奈良県・吉野郡吉野町 2023.11.19】吉野山には3万本といわれる桜が植えられ、毎年春には全山が桜色に染まります。日本人の、おそらく99%かそれ以上の人達は、「吉野山といえば、桜」のイメージではないでしょうか。もちろん、吉野山といえば、まずは桜です。それだけでもかまいません。しかしちょっとばかり吉野山の歴史に目をむけてみると、吉野山観光が2倍も3倍も楽しくなる、かもしれません。 そもそもなぜ吉野山といえば桜なのか。奈良時代のまえ白鳳時代のころ修行道の開祖・役行者(えんのぎょうじゃ)が一千日間の山ごもり修行のすえ、金剛蔵王大権現を感得し、その姿を山桜の木に刻んで祀ったことに由来するそうで、その後は修験者がご神木として桜を植えはじめたとのこと。もとは観賞用ではありません。おなじころ天智天皇のあとには、次の天皇候補が2人いました。天智天皇の息子・大友皇子と、天智天皇の弟・大海人皇子(おおあまのおうじ)。天智天皇本人が息子に肩入れしていることを知り身の危険を感じた大海人皇子は、剃髪し出家して吉野山にのぼります。しかし冬の吉野山で山中に桜が咲く夢を見たところ、それこそ王になる吉兆と告げられ、挙兵することを決意します。これが壬申の乱のはじまりであり、大友皇子に勝利した大海人皇子は即位して天武天皇となります。 時代がくだって平安時代末期には、源頼朝と不仲になった義経が、追討から逃れてこの吉野山にのぼり、しばらくの間(数日間?)かくまわれていた史実もあります。その時にはわずかな伴回りしかおらず、愛妾の静御前が捕縛されその後処刑、義経は身一つで奥羽まで逃れますがその後自刃しています。(ただし、この話には... Read More | Share it now!
一目千本桜の吉野山は、一目●本紅葉だろうか
【奈良県・吉野郡吉野町 2023.11.19】奈良県の東西南北ちょうど中央あたりに吉野山はあります。もっとも吉野山という単体の山があるのではなく、吉野川の南岸から南の大峰山脈へとつながる尾根筋にある山々を総称して吉野山とよびます。また大和の国から修験道を通って熊野へとつうじる、山深い地にあたるため修験者にとっては山岳信仰の聖地であり、金峰山寺(きんぷさんじ)など多数の社寺がつくられ、その修行と信仰の地を総称して吉野ともよんでいました。その意味では、和歌山県の高野山や、京都と滋賀にまたがる比叡山に近いものがあります。 ところで、吉野といえば桜があまりにも有名で、まるで桜の山のような印象がありますが、吉野山は同時に紅葉の名所でもあります。紅葉するのはおもにモミジとサクラ、特筆すべきは吉野山にあるモミジが300本ほどであるのに対して、桜の本数はざっと3万本。桜紅葉という言葉は、吉野山のためにつくられたものではないでしょうか。3万本のサクラの紅葉は、おそらく日本はもちろん世界でも吉野山でしか見られないものと思います。ところが今年は10月末まで気温が高く、モミジやカエデよりもさきに色づくサクラはじゅうぶんに葉を色づかせる間もなく、散ってしまいました。それでもモミジの紅葉が見頃となったそうなので、出かけてみることにします。 吉野山歩き 吉野山観光協会・公式サイトの地図から一部抜粋 今日の予定ですが、右下の吉野駅をスタート、上下に2本ある黄色と青色のダブルになった下の方の道を進み、途切れたところから青破線をすすんで如意輪寺へ。そこからさらに青破線をすすみ、花矢倉の手前で太い青線に合流、そこから先へ吉野水分神社、高城山をへて奥千本地区へ。青破線を一周して、花矢倉までもどり、そこからひきつづき太い青い線をくだり、竹林院、桜本坊、吉水神社をへて金峰山寺、黒門をぬけ九十九折の急坂をくだって吉野駅へもどることにします。 如意輪寺へ 歩きはじめは車道ですが、車は走っていません 左は吉野桜、右は吉野杉 吉水神社への分岐あたりから紅葉が見られる 如意輪寺へあがる石畳の道... Read More | Share it now!
秀吉の備中高松城水攻めは、なんだか怪しい
【岡山市 2023.11.14】信長から中国(地方)平定を命じられた秀吉は、まずは播磨、北へ但馬、西へ因幡と快進撃で浸食してゆきます。そして得意の「口略」で織田方に寝返らせた宇喜多直家とともに備前、美作を一気呵成に鎮圧、そして備中へ侵入します。その備中国の主城ともいえるのが、高松城(四国讃岐の高松城との区別のため備中高松城と通称されています)。当時は毛利氏の支配下にあり、清水宗治が城主をつとめていました。この備中高松城ですが、周囲を沼地にかこまれ、その沼を天然の防御としてつかった難攻不落の城として知られていました。伝わるところでは、軍師・黒田孝高(官兵衛)の献策により、秀吉方は堤防をつくり城を取り囲んだうえで河川の水を流入させ水没させるという奇策に打って出ます。 備中高松城 備中高松城址... Read More | Share it now!
いまとなっては滑稽劇の応仁の乱、その跡地をあるく
【京都市内 2023.11.12】日本史のなかで応仁の乱はあまり人気がないようです。登場人物がやたらに多くて、学生であれば記憶するのがたいへんで、歴史ファンであれば読んでいて煩わしくなるからでしょう。しかし、いかに欲と欲とが露骨にからみ合っているかと視点を変えてみると、よくもまあ同時期に、しかも名家といわれる家柄ばかり、その内紛の醜悪を通りこした滑稽さにがぜん興味をひかれます。そもそも足利8代将軍・義政がなんともいい加減な男で、政務をこなすより花鳥風月を愛でている方が楽しいと将軍職を辞すべく後継者をもとめます。正室の日野富子は輿入れ以来それまで3人つづけて女児ばかり生んでいたためもう男児は生まれないと諦めたのか、僧籍に入っていた弟(のちの義視:よしみ)を拝み倒すようにかき口説いて還俗させ、証文までかいて次期将軍にしたてる準備をします。ところがその直後に、富子がこのタイミングで男児(のちの義尚:よしひさ)を出産します。この将軍家の家督争いが応仁の乱とよばれる騒乱の、そもそもの発端になります。 将軍の実子・義尚vs将軍の弟・義視、このように対立の構図がはっきりすればまだ救われたのでしょうが、これに当の将軍・義政が優柔不断で立ち位置がどっちつかずのため、まわりは振り回されます。さらに細川勝元vs山名宗全の主導権争い、有力守護の畠山氏、斯波氏それぞれの家督争い、大内家は貿易権益を拡大したいため、赤松氏はかつて山名氏にうばわれた領地を奪い返すため、各々の欲と欲が入り乱れ、必然のように武力衝突に繋がってゆきます。この応仁の乱がいかに入り乱れていたかを如実に示す例を挙げるなら、最初は細川勝元と山名宗全はともに義政と日野富子の実子・義尚を支持していたにもかかわらず、両者の駆け引きと反目から細川勝元は東軍の大将として義視を支援、山名宗全は西軍の大将として義尚を支援するようになります。ところがそこからさらに将軍・義政の優柔不断と弟・義視の気弱が混乱を混沌へと落としいれ、巡りめぐってというか、絡みにからんで、いつの間にか細川勝元は義視ではなく義尚を、山名宗全は義尚ではなく義視を支援という、これは「逆転」とよぶべきなのか、なんとも奇想天外な様相を呈してゆきます。 まずは山名宗全の墓 南禅寺山門... Read More | Share it now!
紅葉と北山杉と、京都の神護寺から朝日峯にのぼる
【京都市内 2023.11.8】京都には紅葉の名所がたくさんありますが、なぜ多いのか、理由はいくつか考えられます。●盆地のため秋も深まると朝夕の気温が急に下がり、日中との気温差が大きくなる。●街中を鴨川や桂川が流れ、また周囲を山に囲まれているため、山からの渓流が多く、結果的に美しく紅葉するための湿度が保たれる。●街中の場合、高層ビルがすくないため日陰ができにくく、樹木はつねに直射日光を浴びられる。そしてなによりも忘れてはならないのは、●京の都だったころには公家が暮らしており、むかしから花鳥風月を愛でる習慣があった。そこから紅葉をことのほか美しいものとして、モミジやカエデをすすんで植えた。しかもやみくもに植えたのではなく、造園の発想でより美しくみえるように配置も考えたものと思われます。(そう思える場所がたくさんあります) さて紅葉の季節になりました。今年最初の紅葉狩りは、京都市中心街から北西に位置する高雄、そこにある神護寺をたずね、朝日峯で登山を楽しみ、下山後は高山寺に寄りたいと思います。(訳あって高山寺参詣は中止しました、理由はブログの中で) 高雄、神護寺 周山街道から長い階段を下りて、高雄橋で清滝川をわたる あれ? まだ青葉?サイトで紅葉情報をしらべて「高雄・神護寺、見頃」となっていたのに、どういうことでしょう? 神護寺へはこの長い階段を登ります 楼門は立派だが、紅葉は? 神護寺伽藍 楼門... Read More | Share it now!
点描 -上越から中越へ
【新潟県・十日町市、魚沼市など 2023.11.1~2】新潟県の旅後半は、上越市の高田を拠点に、十日町市、小千谷市、魚沼市、南魚沼市を借りた車で回りました。気が向いたところで車を止め、写真をとり、散策していたので、思い出にのこる写真をいくつかアップしてみます。 塩沢・牧之通り ここは古い街並みが残るというより 古い街並みを再現したものですが、 嫌味なくまとまっており、 たのしく散策して回りました。 稲穂、いうまでもなくコシヒカリでしょう 自家消費の米は、コシヒカリ一辺倒。以前は魚沼産のコシヒカリでしたが、昨今の物価高でそうも言っておられず、いまは近所のスーパーで新潟県産のコシヒカリが20%offになるときを狙って購入しています。塩沢の市街地からすこし離れただけで、このような田園風景が広がっていました。 赤城山西福寺 山門(赤門) 山門(白門) 開山堂(左)と本堂(右) 開山堂のみごとな彫刻 永林寺 永林寺 西福寺も永林寺も魚沼市にあります。そして両寺共に、幕末の名匠・石川雲蝶のすばらしい彫刻や絵画が残されています。撮影禁止なので、興味のある方はせめてサイトでご覧ください。 西福寺https://www.saifukuji-k.com/index.cgi 永林寺https://eirinji.jp/ 雨上がりの山沿いの道を走っていたとき、 ふと車から下りると、こんな光景が目のまえにありました 松代棚田群 星峠の棚田 南魚沼市から上越市高田に向かう際、十日町市の山中を抜けました。そのとき松代棚田群の真中を抜けることになり、なかでも最大規模の星峠の棚田に立ち寄りました。たどり着くまで、年とともに運転技術のおとろえた身には大変でしたが、その大変さを補って余りある風景に出合えました。 上越方向にひろがる夕焼け 運転技術がおとろえ、やたらに時間をかけて山中を走ったため、それが逆に幸いして西の空が見えるころには見事な夕焼け空になっていました。 【アクセス】十日町市(博物館、星峠の棚田)~南魚沼市(塩沢)~魚沼市(西福寺、永林寺)~小千谷市(小千谷織)レンタカーで回りました【入場料、拝観料】十日町市博物館:500円、西福寺:500円、永林寺:500円【満足度】★★★★☆ ... Read More | Share it now!
越後高田城は、将軍綱吉の勘気にふれて流刑の城となる
【新潟県・上越市 2023.11.1】上越市の中心地・高田市街地にのこる高田城は、特異な歴史をもっています。そもそもこの城がなぜ造られたかというと、関ケ原の合戦で豊臣方(西軍)に勝利した徳川家康は、豊臣方の筆頭であり加賀の大藩主・前田家をけん制するため、その西に位置する福井城には次男の結城秀康をいれ、東に位置するここ高田には六男の松平忠輝を配してあらたな城を築かせます。すなわち加賀前田家からすると、北は海、南は山、西は福井藩、東は高田藩と完全包囲されてしまいます。大阪の陣をへて徳川が将軍家になると、家康は前田家と縁戚関係をむすんで「加賀の脅威」をとり除きます。そもそもが前田家けん制のためにつくった城ですから、高田城はこの時点でお役目御免となったとも言えます。高田城はお役目御免でも高田藩は存続しています。しかもそのころ全国の諸藩がそうであったように、高田藩もきびしい財政難にあえいでいました。そこに登場するのが筆頭家老の小栗美作(おぐりみまさか)、ずいぶん強引でもある辣腕をふるって財政の立て直しをすすめます。そんなときに高齢の藩主・松平光長の嫡男が病死、嫡男には子がいなかったため、後継者不在という大問題が発生します。けっきょく光長の弟の遺児・万徳丸をいったん光長の養子とし、つぎの藩主とすることになるのですが、この系譜を推しすすめたのが小栗美作であり、財政立て直しの強引なやりかたに反発していた家臣たちが集まり、ついに御家騒動に発展します。 高田市街地をあるく 高田駅はユニークな駅舎 豪雪地帯にみられる雁木造り ここは雁木のモデル建築 高田城の外濠を元にした河でしょうか 高田城址 大手橋近くにあった案内板より抜粋 当時の城を再現した絵図 この御家騒動は、藩主・光長が小栗美作に隠居を命じたことでいったんは収まりかけますが、小栗は実子の大六に家督をゆずっただけで完全な引退はしておらず、騒動は再燃します。ついには幕府が調停に乗り出しますが、「お為方」と自称する反小栗派からつねに紛争の火があがっており、第三者の目からすると、この「お為方」は「我意の為」に蜂起しているとしか見なされず、「お為方」の主要人物はことごとく他藩への御預け(蟄居謹慎)、逆に「逆意方」とよばれた小栗派にはおとがめなし。これで一件落着だったはずなのですが、4代将軍・家綱が亡くなり、綱吉が5代目として新将軍につくと、なにを思ったかこの越後騒動の裁定のやり直しを命じます。想像ですが、この綱吉は「生類憐みの令」を発した張本人で、とにかく殺傷を嫌悪していました。また独自の正義感をもっていたようで、新将軍となった責任感から過去の灰色もすべて処断すると勇んだのでしょうか。やり直しを命じただけでなく、本人みずから前の決定を反故にしあらためて裁定を下します。小栗父子は切腹、「逆意方」も「お為方」も主要人物は島流し(しかも伊豆諸島への遠流)、さらに多くのものが追放など厳罰をきわめました。また藩主の光長も、次の藩主となるべく養子となっていた綱国(万徳丸)も他藩へお預け、そのため知行(領地)没収となり、ここで松平家高田藩は消滅します。 ハスの密生する西堀をわたる 本城堀(内堀に相当する?) 復興した3層の天守が見える 極楽橋をわたって本城へ さて松平家が改易の憂き目にあい、主のいなくなった高田城ですが、短期間の江戸幕府直轄を経てからのちは、まるで将軍綱吉の不興をかった大名の、流刑先になったかのような様相をみせます。1685年、稲葉正往(まさみち)は、親戚の者が大老を暗殺した事件で連座し懲罰として小田原城から高田城へ移封。1710年、松平定重は、経理上のミスをした家臣を打ち首にし、さらにその関係者にも厳罰を科したことを幕府から処分がいかにも重すぎると厳重注意を受け、桑名城から高田城へ移封。どちらも綱吉が嫌悪する殺傷事件が関係しています。代が替わっても8代将軍吉宗の時代に、榊原家では、父・政岑(まさみね)が幕府が発布した倹約令を無視して吉原で豪遊したかどで強制的に引退、共同責任のように息子・正純は姫路城から高田城へ移封させられています。こうしてみると、なんともユニークな歴史をたどってきた城です。 大掛かりな土塁 こちらにも立派な土塁が残っています 天守台も土塁 天守... Read More | Share it now!
VS信玄、上杉家跡目争い、歴史にきざまれた鮫ヶ尾城
【新潟県・妙高市 2023.11.1】謙信と信玄といえば、川中島の戦いが有名ですが、川中島は越後と甲斐の国境近くにあります。その川中島から信玄が直線的に侵攻してきたとして、謙信の居城である春日山城への途上に、標高185mの山があります。謙信はこの山上に堅固な城、鮫ヶ尾城を築きます。出城のひとつですが、あきらかに信玄が万一にも侵攻してきたときのため最終防御拠点と考えてつくったものと思われます。信玄が亡くなったため、武田軍の侵攻はなくなりました。このまま時代がすぎれば、鮫ヶ尾城は歴史の中に埋もれてしまっていたかもしれません。謙信はあさ厠へ立ったさいに、脳卒中でたおれたと伝えられています。真偽のほどはわかりませんが、急死したのは確かです。ここで問題がおきます、謙信は自分がある朝あっけなく死んでしまうとは予期していなかったので、後継者を決めていませんでした。謙信といえば篤い仏教信奉者で、生涯不犯(ふぼん:男女の性交渉をしない)を通したため、実子がいません。そこで景勝と景虎のふたりを養子としていました。景勝は上田長尾家の当主・長尾政景の次男、景虎は北条氏3代当主・氏康の七男、出身がまったく違うので上下関係がなく、おたがいに忖度も遠慮もありません。ここで必然のように跡目争いがおこります。上杉家が真っ二つに割れて戦う、ぞくにいう「御館の乱」です。 斐太遺跡、斐太神社 鮫ヶ尾城だけでなく、一帯で歴史の里とされていました 斐太神社... Read More | Share it now!
軍神・上杉謙信を訪ねる春日山城
【新潟県・上越市 2023.10.31】「戦国武将番付」なるものがあったとすれば、上杉謙信はまちがいなく横綱か大関に列せられるはずです。異名は「越後の虎」あるいは「軍神」。その謙信の居城となれば、戦国歴史ファン、あるいは城郭ファンにとってはそれこそ死ぬまでに絶対見ておきたい城ランキングのトップ3かトップ5には入るはずです。おつむの劣化以外はいたって健康でまだ当分は死ぬことはなさそうですが、それこそ人生なにがあるかわからないので、早いうちに謙信の城は見ておきたいと常々思っていました。その城が春日山城。今回の新潟の旅は家内同伴ですが、城に興味のない家内をどこか置き去りにしてでも、絶対に行きたいと期待に胸ふくらませ上越市に入りました。 林泉寺 春日山城から移築したとつたわる惣門 山門... Read More | Share it now!