羽柴秀吉像 秀吉の像に関しては、豊臣秀吉としてのものなら関西の各地にあります。ところが羽柴秀吉の像となるとまことに希少で、滋賀県の長浜駅前に石田三成と出会ったさいの「三献の茶」をモチーフにした二人像が唯一存在しました。実物は右側に少年の三成(佐吉)が居るのですが、そこはカットしています。 本能寺の変とは、京都滞在中の織田信長が明智光秀に急襲され殺害された事件をいいます。いまでは、その舞台が本能寺であったことと同じくらいに、殺害が突発的なものではなくあらかじめ謀られたものであったことも周知の事実となっています。すなわち故殺ではなく謀殺である、ということです。「謀殺」の「殺」については、明智光秀によるものと結論して間違いありません。では「謀」についてはどうなのか。光秀を操った人物がいた、あるいは光秀と共謀した人物がいたと考えられなくもありません。しかし確証はなく、「かもしれない」のレベルです。ところが、光秀の動きを、その心の動きにいたるまでを、本能寺の変の前から周到に視ていた人物がいたと仮定するだけなら無理はありません。その人物をHとします。そのHを秀吉(のちの豊臣秀吉、当時は羽柴秀吉)であったと仮定します。あくまで仮定です。しかしそう仮定することで、秀吉による備中高松城水攻め→光秀による本能寺の変→秀吉による中国大返し→秀吉と光秀による山崎合戦のあっけない結末、という一連の大事件のなかにしばしば感じる違和感が、そこではじめて、しかもなんともすっきり解消されてしまうのです。 山崎の戦い(天王山の戦い)・合戦前 淀川から山崎古戦場跡、背後に天王山をのぞむ 画像は【aruku-26】よりhttps://yamasan-aruku.com/aruku-26/ 山崎の戦いで明智光秀が大敗したのは、一にも二にも味方になってくれる武将がほぼいなかったことに尽きます。たとえば、高山右近、中川清秀、池田恒興は光秀の寄騎でしたが、光秀に与しなかっただけでなく秀吉に加勢しています。寄騎とは、織田軍の総大将である信長が自分の家臣である各武将の中でもとくに有力と判断した、たとえば明智光秀を寄親とし、その下につけた暫定的な部下(助っ人にちかい)のことをいいます。すなわち寄騎としては、寄親である光秀にみずから臣下したのでもなく、信長がこの世からいなくなった以上従ういわれはないということになり、これは裏切りとか寝返りではありません。別の見方をすれば、かつて寄親でもなかった秀吉の下についたということは、光秀からは約束されなかった報奨にあたる何かを、秀吉からはもらえるアテがあったということではないでしょうか。 筒井重慶は光秀の寄騎であっただけでなく盟友であり親友でもあり、細川藤孝にいたってはさらに息子の忠興に光秀の娘が嫁ぐ(のちの細川ガラシャ)縁戚関係すらありました。筒井順慶がなぜ光秀に加勢しなかったのか、その真相はいまひとつわかりません。ただ後の世に悪評として残る、光秀につくか秀吉につくか損得勘定で日和見を決め込んだというのは事実ではありません。山崎の合戦まえに秀吉に対して「秀吉を支持するが光秀と戦うことはできない」という意味のことを伝えていたようです。細川藤孝はやはりどちらにも加勢しない代わりに、早々に剃髪して(表向き隠居して家督を忠興にゆずり)幽斎を名乗り、光秀からの勧誘にも要請にも懇願にもいっさい言わざる聞かざる動かざるを通します。この細川家というのは、清和源氏足利氏の支流で尊氏(たかうじ)の隆盛にオンブにダッコでのし上りますが、その後もアッチにつきコッチにつきを繰り返しながら室町、戦国、江戸、明治、大正と各時代を生き抜き、平成の時代にも総理大臣を出した名家です。それだけに代々形勢をみるに敏で、その方面の嗅覚がよほど鋭かったのでしょう、その細川家の、丹後の大名にまで成り上がった藤孝が光秀を無視して結果として秀吉に与したのですから、「明智光秀は負ける」という確たる予知があったということでしょうか。光秀軍の兵力1万数千に対して秀吉軍4万、この山崎の戦い、どうやら始まるまえから勝敗は決まっていたようで、秀吉があらかじめ地ならし的な準備をしていたように思えてなりません。 現在の洞ヶ峠... Read More | Share it now!
奈良公園で梅をみて鹿とあそぶ
【奈良市 2024.2.28】近鉄奈良駅から東へあるくとすぐに興福寺の堂宇が右手に見えてきます。それらをやり過ごしずっと東へあるくと春日大社にたどり着きますが、その「ずっと東へ」ひろがっているのが奈良公園です。なぜ街中にこれほど大きな公園があるのかといえば、もとは興福寺の境内であったということです。さらに言えば、春日大社はもとは興福寺を守るための鎮守社ですから、ここも境内みたいなものです。「境内都市」という表現があります。「宗教都市」にも近いのでしょうが、寺院や神社を中核として成立した都市のことをいい、門前町よりも規模がはるかに大きいだけでなく、政治的にもその地域を管轄している(支配している)のが特徴です。鎌倉から室町時代にかけて、大和一国の荘園の大半はこの興福寺が領していました。大和の国には朝廷の権威も武家の威力も及ばず、すなわち興福寺の権勢がつよすぎて朝廷も幕府も守護を配することができなかったということになります。 もっとも今日はそんな興福寺の歴史探訪ではなく、たんに奈良公園で梅を観て、鹿と遊ぶつもりで電車に乗りました。 猿沢池から興福寺 猿沢池から興福寺の五重塔をみる 興福寺へは、南側の猿沢池からアプローチするのがおすすめです。JR奈良駅からだとまっすぐ東へ歩くとここにたどり着きます。近鉄奈良駅からの場合はまっすぐ東へ行かず、いったん目のまえの商店街を南へすすみ、アーケードを抜けたところで左折するとここに出てきます。ところでこの撮影をした場所の背中には、抜群のロケーションで「スタバ」があります。外国人がコーヒーを飲みながらこの光景を眺めているのに比して、日本人がパソコンやスマホを見ながらコーヒーを飲んでいる光景には笑ってしまいました。 猿沢池をまわって 猿沢池を時計回りとは逆にまわると、この場所にでます。この階段をあがって興福寺にいたるのがベストな選択です。(あくまで個人的な感想です)現在、五重塔は修復中で下層部分は足場が組まれているためこれより先の写真は撮っていません。また興福寺については以前にもブログに載せているので、今回は省きます。 奈良公園 奈良公園にて... Read More | Share it now!
熊尾寺山に登った感想は、なんだかなあ
【和歌山県・海南市 2024.2.27】和歌山県に関していえば、大阪市内を起点にしてべつだての特急料金を払わずに、しかも気楽に日帰りで旅行できるのは海南市あたりまでと考えています。大阪府下を南下して府県境をこえるとすぐに和歌山市。ここまではよいとして、ここから先が交通の便が極端にわるくなります。それでも海南駅は、きのくに線の普通電車で4駅目ですので、乗り継ぎをうまくすれば大阪市内から2時間くらいで到着します。その海南駅からさらにバスに乗り換えてとなると往復に一日の大半を取られることになりますが、ガイドブックを見ていると、ここから歩いて登山口までゆける山がありました。海南駅から禅林寺、そこから集落をぬけると登山口、鏡石山から熊尾寺山へと登り、大野城跡を探訪して下山後は藤白神社に立ち寄って海南駅にもどる、ガイドブックによるとこれで5時間30分、内容豊富な充実の山歩きが楽しめると期待していたのですが。 禅林寺から登山口へ 禅林寺に到着 禅林寺境内から山並みを遠望する 集落を抜けて登山口へ... Read More | Share it now!
今城塚古墳・日本でただ一つ(?)みんなが入れる天皇陵古墳
【大阪府・高槻市~茨木市 2024.2.24】日本全国には16万基をこえる古墳が残っているそうで、神社の数8万、寺院の数7.6万の合計を上回ります。ちなみに全国のコンビニの数は6万弱なのでおよそその3倍。それだけ数多ある古墳の中で、おそらく全国唯一とおもわれる、自由に立ち入ることができる天皇陵としての古墳が大阪府高槻市にあります。今城塚古墳と呼ばれているものがそれで、26代継体天皇の陵と推定されています。たとえば石舞台古墳はそのなかに入って見学できますが、被葬者は蘇我馬子と推定されており、馬子は実力者でしたが皇族ではありません。立ち入れる古墳は、立ち入っても保存上の問題がないもの、崩壊などの危険がないもの、そして「天皇家の陵、墓ではない」ものに限られます。(天皇、皇后、皇太后のものを陵、そのほかの皇子や皇女のものを墓と区別します) では、なぜ継体天皇陵すなわち今城塚古墳には入れるのか。この今城塚古墳は墳丘の長さ190mの巨大なものですが、その西2kmほどのところに太田茶臼山古墳とよばれるさらにひとまわり大きい墳丘長226mの古墳があります。明治時代に、おそらく紙の上でのこる資料と大阪北部ではもっとも大きいという事実から、この太田茶臼山古墳こそ継体天皇の陵であると確定したのでしょう。天皇家の陵および墓への一般国民の立ち入りがいつどのようなかたちで禁じられたのかはよくわかりませんが、昭和22年に宮内府(のちの宮内庁)が発足すると、その管轄のもと陵・墓ともに柵でかこわれ、一般国民は各一ヶ所にもうけられた拝所から御陵あるいは御墓にむかって拝礼するようになります。ところが、昭和から平成にかけての両古墳の発掘調査の結果、太田茶臼山古墳は継体天皇の没年(西暦531年)より1世紀ほど前につくられたものであり、また今城塚古墳こそ天皇の陵にふさわしいことが判明します。この発見は学術的には賞賛すべきものだったはずですが、この発見に困惑した人達もいたはずです。報告をきいた宮内庁は「... Read More | Share it now!
大岩岳でいつになったら佳景に出会えるのか
【兵庫県・神戸市 2024.2.17... Read More | Share it now!
古代にこれほどの城が – – 驚きの鬼ノ城
【岡山県総社市 2024.2.12】岡山県といえば、桃太郎。これには元ネタがあり、温羅(うら)という赤髪、巨漢の悪党がいてそれを崇神天皇がつかわした吉備津彦命(きびつひこのみこと)が退治するという話です。桃太郎が昔話であれば、温羅と吉備津彦命の話も伝説の域を出ませんが、岡山県総社市の山中にある古城は昭和40年代に本格的な調査が行われるまでは、温羅の居城として語り継がれてきました。それゆえ今でも鬼ノ城(きのじょう)と呼ばれています。さて昭和46年の調査で列石や水門がみつかって古代の城であることがわかり、さらに昭和53年の調査で山上の周囲2.8kmをかこむ石塁や土塁、さらに四方に城門跡が発見され、これが7世紀後半に造られた古代山城であることが確定されます。なぜかこの城については史実に記録がありません。そのため由緒のはっきりしている奈良の高安城、大宰府の大野城などが朝鮮式山城と呼ばれるのとは区分して、神籠石系(こうごいしけい)山城と呼ばれています。まあここから先は学術的な話ゆえ、なにはさておき古代城とやらを見に行きましょう。 鬼城山へ JR服部駅より鬼ノ城のある鬼城山へと歩く 徒歩30分で麓の砂川公園に到着 砂川公園からの登り道 JR服部駅から鬼ノ城ビジターセンターまでは約6kmの道程。中間地点になる砂川公園までは平たんな道ですが、後半は上り坂になります。アスファルト道で整備されていますが、路面が固いぶん意外にきつい。 鬼ノ城... Read More | Share it now!
夏目漱石の俳句「日は永し三十三間堂長し」は駄作か
【京都市・2024.2.9】京都東山にある三十三間堂は、中央のひときわ大きな中尊と、左右に正確に縦10列、横50列の各500、合計1001体の、十一面千手千眼観音像を本尊としています。それだけの数の仏像を祀るとなるとスペースも広大なものになり、とくに中尊を中心に101ならぶ横列は長大なものになります。三十三間堂は正式には蓮華王院といいますが、とにかく横に長く柱と柱の間が33あることから通称としてそう呼ばれているそうです。(横の全長は120m) この三十三間堂が長いということを読みこんだ俳句があります。「日は永し三十三間堂長し」、意外かもしれませんが、夏目漱石は生涯に小説だけでなく二千句をこえる俳句も残しています。俳句は五七五ですから、日は永し... Read More | Share it now!
和泉山系西端・四国山から四国は見えるか
【和歌山市 2024.2.7】関西人でなければ関西の各県がどのように隣接しあっているかよくわからないかもしれません。大阪府の南端は和歌山県の北端と接しており、その境界線にそって東西に連なっているのが和泉山脈です。山脈とはいっても山々の標高はせいぜい500mを越えるくらい、大方の山は300m前後に過ぎません。ところが周囲に高い山がないだけでなく瀬戸内海が近いこともあって、標高が低いわりに、言い換えると登るのが楽なわりに結構な眺望を楽しめます。オススメは冬のおだやかに晴れた日。いわゆる「陽だまりハイク」を楽しむには絶好の場所です。今日はその中でも西の端、すなわちもっとも瀬戸内海に近い位置にある四国山に登ってみます。四国山は、四国が見えるという意味から名付けられたのでしょうが、さて今日は四国が見られますかどうか。 加太さかな線・めでたいでんしゃ 和歌山市街と加太(港)をむすぶ観光列車 「めでたいでんしゃ」は乗るだけで楽しい 吊革にサカナ、広告一切なし 「めでたいでんしゃ」はすべての便で走っているわけではありません。実はこの写真は加太(かだ)から帰りの便で乗ることができ撮影したもので、あさ往くときは普通の車両でした。 登山口へ 西ノ庄駅で下車、一般道を上がる... Read More | Share it now!
王舎城ともよばれた鹿野城を訪ねる
【鳥取市 2024.2.2】鳥取市西部にある鹿野城は、因幡の豪族だった志加奴(鹿野)氏によりその原形が造られたのではないでしょうか。その後勢力を拡大する尼子氏に攻め落とされています。先日訪ねた布施天神山城を拠点に守護をつとめていた山名氏が、鳥取城主の武田某に攻められその尼子氏を頼りここ鹿野城まで撤退した歴史もあります。羽柴秀吉が鳥取城を落としたのは「飢え殺し」とまでいわれるほどの徹底した兵糧攻めでしたが、その時点では鹿野城はすでに秀吉方のものになっており、尼子氏の旧臣・亀井玆矩(これのり)が城代をつとめていたようです。亀井玆矩はその後徳川方についたことで飛躍し、鹿野藩の藩主となります(すなわち鹿野城の正式な城主でもある)。それを機に城を近代城郭に改修して王舎城(インドにあった、釈迦が長く滞在し説法を行なったマガダ王国の都の名)、また城下町をととのえ鹿野苑(釈迦が悟りをひらいてはじめて説法した地)などインド仏教に関係した名前をつけています。 幸盛寺 幸盛寺・山門 幸盛寺境内 山中鹿之助の墓 鹿野には山中鹿之助の墓があります。由来はこうです。玆矩の正妻は鹿之助の娘、すなわち鹿野藩主・亀井玆矩にとって山中鹿之助は義父になります。玆矩は非業の死をとげた義父の鎮魂の意味もこめて鹿野城下にあった寺を菩提寺とし、鹿之助の本名である幸盛(ゆきもり)から字をもらい幸盛(こうせい)寺と改めました。なお鹿之助の通称は、兜に鹿の角が脇立として飾られていたことが由来で、「鹿野」とは関係ありません。 鹿野城跡... Read More | Share it now!
鳥取市湖山池周辺の史跡を犬犬とあるく
【鳥取市 2024.1.30~2.2】家内の実家から留守にするので4日ほど母親の世話をしてもらえないかと依頼がありました。義母は家の中での介助が必要なほどではなく、義母だけなら家内ひとりで用は足りるのですが、この家にはほとんど人間とおなじように暮らす犬がふたりいます。それゆえ母+犬犬の3人の世話をする必要があり、私は犬犬の担当として出向くことにしました。 湖山池 湖山池にて... Read More | Share it now!