山登り,花、紅葉見ごろ,京都

【京都市 2024.4.28】「京都 北山」で検索すると、上賀茂神社や京都府立植物園あたり一帯がアップされるはずです。たしかにこのあたりには地下鉄・北山駅もあり、一般にも北山と呼ばれてはいますが、山はありません。その「山のない北山」の南に位置する出町柳で叡山鉄道に乗って北へ、途中東に分岐する比叡山方面行きとはべつに、一路北へ向かうと終点が鞍馬駅です。このあたりの観光スポットである鞍馬寺、貴船神社は山の中腹にあります。すなわちこのあたりから「山のある北山」になります。鞍馬山、貴船山はその名のとおり両寺社が鎮座する山ゆえ最寄駅からの登山も容易ですが、それより先は交通の便がわるく、また有名な山がないこともあって登山客はほとんどいません。GWがはじまり、しずかな山で新緑を楽しむために、京都北山の雲取山をたずねました。※鞍馬山は道が崩落して立入禁止になっているとの情報があります。 鞍馬駅 「紅葉のトンネル」が有名な叡山電車、いまは青モミジ 天狗のモニュメントがびっくりな鞍馬駅 鞍馬寺前 鞍馬寺の前を通りますが、今日は参拝はしません。出町柳から鞍馬駅までの電車は頻繁にありますが、ここから雲取山の登山口近くを通るバス便は、朝8時すぎと、夕方まえの1日2本だけ。朝の便に乗るためには大阪の自宅を6時過ぎに出る必要があり、年をとっても早起きが苦手な我が身としては、好きな時間に出発する方をえらびました。すなわち登山口まで、ひたすら歩くハメになります。予測では2時間半。ですから寺を参拝している時間はありません。 百位別れ~旧花脊峠 ここはバスも走る道 百井別れまでは車道を歩きます。4kmほどの道程ですが、緩やかとはいえずっと登りのため1時間近くかかりました。 「峠下」バス停から山道へ 歩く人がいないのか道とはいえない道 旧花脊峠 百井別れから旧花脊峠にいたる山道は、荒れているというよりも歩く人もいない自然のままの谷間を歩くようなもので、沼上の地面に足が沈み、それを避けて石の上を歩くと滑り、この道をえらんだことを後悔しかけました。ところが唐突に林道に出てしばらく進むと旧花脊峠に着。ここからは道も歩きやすいし、風景も楽しめます。 寺山~寺山峠 新緑を楽しみながら歩きます ミツバツツジが残っていた 雲取山 寺山峠で通常の登山道に合流し、 谷間へ下ってゆきます 渡渉をくり返しながら 渓流にそって進みます 明るい雲取峠から北峰はすぐ 雲取山北峰からは比良山系が見えます 北峰から山頂へ向かう道も 新緑に埋まっているかのよう 雲取山頂上は残念ながら眺望なし 雲取山は通常の登山道にしたがうと東からアプローチし、東の谷間を時計と逆回りにまわって雲取峠へ、いったん北峰へ往復しそこから北から西側へとまわって山頂へ。 西の谷間をくだる さらに山頂から西の谷間をくだり、南の谷間を経てふたたび東の谷間へ回る、いわゆる周回コースになります。もちろん時計回りに歩いてもかまいません、同じ場所に戻ってきます。 西の谷間に立命館大学ワンゲル小屋があり、 その近くにクリンソウの群生地があった 西から南側へとつづく谷間を 渡渉をくり返しながら歩く このあとは寺山峠に達して同じ道を鞍馬まで戻ることになるため、ブログはここで終了します。GW期間中にもかかわらず、百井別れで山道に入って以後は誰一人会うこともなく、まことにしずかな山歩きを楽しめました。雲取山の周回コースもさることながら、旧花脊峠から雲取山へアプローチするまでの道程が想定外にたのしいものでした。なお雲取山の谷間歩きは、おびただしい回数の渡渉をくりかえします。六甲山にはおよそ20回ほどの渡渉をくり返す道がありそこは通称「トゥエンティクロス」と呼ばれていますが、そのノリでいうなら「フィフティクロス」になるでしょうか。最初のうちこそ楽しめますが、正直なところ終盤はうんざりしてきます。またこの渡渉にさいしてですが、1度や2度は足を水に浸すつもりでいてください。ぜったいに足元を濡らさないと誓って石の上ばかり探して歩いていると、必ずすべって転ぶことになります。自慢にもなりませんが、2度コケました。 【アクセス】叡電・鞍馬駅~百井別れ~旧花脊峠~寺山~寺山峠~雲取山北峰~雲取山頂上~立命館大学ワンゲル小屋~寺山峠~同じ道を鞍馬駅へ 33000歩... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,城郭・史跡,岡山

【岡山県・備前市 2024.4.25】岡山県備前市の、瀬戸内海の入り江が深く入り込んだところ、まるでその入り江を見わたすかのような山上に富田松山城はあります。歴史を簡単に書いておきます。世が応仁の乱をへて戦国時代に突入したばかりのころ、備前の国では浦上氏が勃興します。父親が亡くなり、兄・政宗と弟・宗景が争いはじめます。ことの発端は、北から浸食してきた大勢力の尼子氏に対して政宗は従属することを選び、宗景は対抗することを主張します。この兄弟での争いのなかで宗景が天神山城を主城とし、富田松山城を支城としてつかっていたようです。さてこの兄弟争いの結果ですが、西の毛利氏の助勢をうけた宗景が勝利し備前一国、さらに一時は東の播磨にまで勢力をのばす戦国大名となります。ところが家臣であった宇喜多直家がしだいに頭角をあらわし、ついには浦上氏を追放、やがて富田松山城は廃城となります。 登城というよりほぼ登山 富田松山... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,山登り,花、紅葉見ごろ,兵庫

【兵庫県・宝塚市 2024.4.19】昨春中山寺に参詣し奥の院を経て中山連山の最高地点まで登りました。そのとき時間も余力もあったので尾根伝いに西隣の大峰山をめざしたのですが、どこをどう歩いたのか道をすっかり見失い結局まるで違う方角に下山する羽目になりました。あれから1年、自分の方向感覚が鈍っていることを痛感し、年会費5700円を払って山登りのためのアプリYAMAPのプレミアム会員になりました。今回はスマホで自分の足取りを確認しながら歩くので、道を間違えることはないはずです。前回と同じルートを歩くのはつまらないので、中山連山を東南から巻くようにあがって最高峰(といっても標高478m... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,大阪

【大阪市 2024.4.18】「けったいな」という表現は、関西それも京阪神あたり限定だそうで、それならば先に「けったいな」について説明をしておかねばなりません。一言でいうと、奇妙な、珍しい、といった意味になります。ところが具体的に「けったいな人」といった場合、「たいへん個性的な身なりの人」もあれば、「やたら自己主張の強い人」も含まれます。これらけったいな人を好きか嫌いかはそれぞれの判断に任せるべきで、けったいな人イコール係わりたくない人ではありません。今日は、大阪市内中心部(梅田キタから難波ミナミにかけて一帯)の、けったいな社寺をまわります。あまりにも小さいとか、社殿のデザインが奇抜とか、御利益が唯一無二とか、奇妙な神社、珍しい寺院の数々です。先にも書いたように、好みに合うか合わないかは人それぞれだと思いますので、あらかじめ地元の人に慕われていたり、SNSで大人気になっていたり、といったものを優先的に選びました。 梅田から歯神社へ 右上空にHEP... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,山登り,神社・仏閣,城郭・史跡,奈良

【奈良県・桜井市 2024.4.13】御破裂山という奇妙な名前の山があります。多武峰(とうのみね)の山頂をそう呼ぶのですが、多武峰に関しては、神々が天からこの山の頂に降臨し、そこから天香久山(あまのかぐやま)へと下っていったという神話の世界にも登場します。御破裂山の名の由来については、醍醐天皇(後醍醐ではありません)の時代いらい天下に異変があると山全体が鳴動したとか。その回数は35回とか、50回超とか、資料によりまちまちなのが少々胡散臭い、いえいえ少々気にはなるのですが、かつてはその鳴動を注意深く聞くための拝所のような場所まであったというのですから、やはり由緒ある神山ともいえる山なのでしょう。その多武峰の南ふところに談山神社(たんざんじんじゃ)があります。飛鳥時代に蘇我氏が権勢をふるっていたころ、その専横ぶりに怒りを抱く中臣鎌足(のちの藤原鎌足)が中大兄皇子を誘いひそかに談合した場所と言われており、この談合ののち蘇我氏を排除し(入鹿を暗殺、父の蝦夷は自害)ここから大化の改新が始まることになります。 神社へ バスを降りると、屋形橋をわたる 東大門... Read More | Share it now!

城郭・史跡,三重

【三重県・鳥羽市 2023.4.10】九鬼嘉隆(くきよしたか)は、伊勢志摩を中心に活動する熊野海賊衆の一部である九鬼氏の11代目当主です。ここでいう海賊衆とは強盗団としての海賊ではなく、自前の船で水先案内もすれば、物資も運び、要請があれば武器をもって戦の助太刀にもむかいます。すなわちガイドに、運送に、傭兵に、言うなれば船をもった便利屋です。そうでした、その船も自前でつくるので造船業もこなしています。その九鬼氏のなかで、九鬼嘉隆が頭角をあらわしたのは織田信長の配下となり、長島一向一揆の鎮圧などに貢献したことによります。さらに摂津での石山本願寺との戦いでは、巨大な船体に鉄板をはって防御した安宅船をつくり、ろう城する摂津本願寺に兵糧を運び込もうとする毛利水軍を完膚なきまでに殲滅し、これを機に本願寺側の抵抗は急速に衰えてゆきます。本能寺の変で信長が横死してからは秀吉に仕えることになり、朝鮮出兵のさいには大型船をつくって水軍の総大将として出兵するなどの活躍をしています。なおこの時期に、南北朝時代からの遺構としてのこる城跡にあらたに鳥羽城の築城をおこなったようです。豊臣家と徳川家の争乱のなかで九鬼氏も運命に翻弄されます。関ヶ原の戦いにおいて嘉隆は九鬼家を存続させるため、家督をつがせた次男の守隆には東軍(徳川方)につかせ、隠居した自分は西軍(豊臣方)につきます。どちらが勝っても負けても、父か息子のどちらかは生き残れる策であり、これは信州の真田氏も同じことをしています。もちろん勝ったのは東軍。嘉隆は自害しますが、嘉隆にしたがっていた末弟はのがれてのちに四日市に腰をすえ回船業をはじめます。さらに武士をすてて商売に精をだすのですが、当時四日市周辺に菜種が生えひろがっていることに着目し、油づくりをはじめます。いま四日市に本社をかまえ、ひろくゴマ製品なかでもごま油を主に製造販売する老舗会社の九鬼産業は、そんなことで九鬼嘉隆をルーツにしているそうです。 鳥羽城・三の丸広場から 三の丸跡が現在の入口になります 現在の城跡の案内図... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,三重

【三重県・伊勢市 2024.4.10】伊勢神宮の存在を知らない方はほとんどいないでしょう。神社の中でも皇室に関係した神様を祀るところを神宮と称し、そもそも〇〇神宮は〇〇神社よりも格上として扱われます。伊勢神宮はその格上の神宮のなかでもさらに最上位にあり、すなわち日本中でもっとも尊いとされる神社です。伊勢神宮が内宮(ないくう)と外宮(げくう)に分かれていることを知らない方は結構いるかもしれません。祀られている神様も、創建された歴史もまったく違います。内宮は正式には皇大神宮とよばれ、祀られているのは天照大御神、太陽を象徴する神で皇室の祖神とされています。およそ2000年前にその基となるものが建てられたと伝わっています。その500年後に外宮、正式には豊受大神宮が建てられますが、祀られているのは豊受大御神、天照大御神の食事をつかさどる神様であり、現在は衣食住、さらには産業の守り神として崇敬されています。一般には内宮であれ外宮であれ、どちらか一方だけを参るのは「片参り」といって良くない(十分ではない)とされていますが、祀られている神様のことを考えると外宮だけ参ったのでは伊勢神宮にまいったことには全然ならないといえます。(だから内宮だけなら良いというのではありません)それでは内宮と外宮はどういる順番で参るべきかというと、これは重要なものほど最後にの常で、外宮から内宮への順であることは容易にわかります。ところが外宮に参り、つぎに内宮へとむかい鳥居の前にたつと思わぬ指示に戸惑います。外宮では参道は「左側通行」と指示されています。ところが内宮では「右側通行」の指示があります。このことをあらかじめ知っている方はほとんどいないのではないでしょうか。 外宮・豊受大神宮 JR伊勢市駅から外宮へむかう 表参道火除橋手前に「左側通行」の立札 境内にあった案内板より抜粋 勾玉池 さらに鳥居をくぐって奥へ進む 神社の参道は。中央を正中といい神様が通るところとされているため参詣者は左右どちらかに避けて歩くのがマナーです。さらに社殿に向かって右側が上位、左側が下位となるため、いまから社殿にまいる人は下位にあたる左側をあるき、参ったあとの退出する人は上位の右側を歩くのがより正しいマナーです。 神楽殿 本宮と、古殿地(手前の空き地) 古殿地は伊勢神宮に独特のものです。伊勢神宮の正宮は20年ごとに建て替えられます(これを弐年遷宮といいます)が、旧いものをこわした更地に新しいものを建て直していたのでは、本宮がない空白期間ができてしまいます。そのため隣接した場所にあらたに建て、20年後には前の場所に戻りを繰り返し遷宮をつづけます。ですから前に本宮が建っていた場所を古殿地と称し、同時につぎの遷宮ではふたたび本宮が建てられる御敷地でもあります。 本宮はこれより先では写真撮影禁止 風宮... Read More | Share it now!

花、紅葉見ごろ,大阪

【大阪府・茨木市 2024.4.7】今年の桜はなかなか開花しなくてさんざん待たされましたが、なんとか見頃が近づいたと思ったら空模様がずっとあやしくて、やっと晴れたのが日曜日。  これだけ焦らされまくっての日曜日となると、桜の名所として有名なところはどこも超が3つ付くくらい混みこみでしょう。昨春の京都・嵐山では途中で気分が悪くなるほどの混み方だったので、懲りたというより怖れをだいており、とにかく人のあまり集まらないであろう所をさがしました。その結果見つけたのが、茨木市の冥應寺。大阪に40年住んでいる当人がサイトで見つけるまで知らなかったのですから、これは穴場のはずです。 冥應寺にて桜、桜、桜 JR茨木駅から徒歩25分ほどで到着 冥應寺は、辯天宗という新興宗教のお寺のようです。冥應寺については興味はないのですが、無料で桜見物をさせてもらうので、紹介がてら下にアドレスを貼っておきます。興味のある方は、どうそhttps://www.bentenshu.or.jp/about/timeline/ なお今日は桜を見ることのみが目的ですので、写真の掲載のみとします。 桜は満開、久しぶりに青空がひろがった日曜日にもかかわらず人出はゆっくり写真を撮りながら散策できるレベルでした。最後に、加工した写真を掲載します。 【アクセス】JR茨木駅から徒歩25分【満足度】★★★★☆ ... Read More | Share it now!

城郭・史跡,神奈川

【横浜市 2024.4.2】小机城が歴史の表舞台にはじめて登場するのは長尾景春の乱においてではないでしょうか。室町幕府が京都にありながら関東10ヵ国を統治するため設置したのが鎌倉府であり、その長官が鎌倉公方です。鎌倉公方とは役職名というよりも、京都の室町幕府将軍にたいして鎌倉すなわち関東の将軍といったようなものです。それゆえ鎌倉公方は足利将軍家の直系が世襲しており、じっさいに執務をとりしきるのは補佐役の関東管領、その職は上杉氏が世襲していました。その上杉氏が山内上杉家、扇谷上杉家に分かれており、さらに有力家臣である長尾氏も白井長尾家、惣社長尾家、犬懸長尾家、鎌倉長尾家にわかれ、関東管領を直接補佐する最重要ポストの家宰職を持ちまわりで務めていました。こんな状況なら跡目争いがおきるのは必定で、案の上白井長尾家の家督をついだ景春は自分に家宰職が回ってこなかったことに不満をだき、さらに白井長尾家に家宰職が回らないことで既得権益をうしなう周りのものに後押しされ、ついに挙兵します。このとき景春を支持する豊嶋某が立てこもったのが小机城なのですが、それだけであれば後世にさほど注目されることもなかったでしょう。ここに太田道灌が登場します。扇谷上杉家の重臣であり、武だけでなく文にも秀で、また江戸城の原型をつくったとも伝わる有能な武将ですが、自信過剰で人を食ったような面もあり、最後は仕えていた扇谷上杉家の手で暗殺されています。よほど目に余るものがあり主家として危機感を抱いたのでしょうか。その太田道灌がこの小机城を攻め落とすことになるのですが、その際に「小机はまず手習ひのはじめにて、いろはにほへと、ちりぢりとなる」と戯れ歌をうたっています。小机はこの地の地名ですが、それを子供が勉強につかう小さな机にかけ、「小机城ごときは手習いはじめのように、いろはにほへと書くほどにたやすく散り散りとなる(落城する)だろう」と小馬鹿にしたわけです。いろはにほへとの小机城を訪ねてみることにしました。 小机城へむかって 日産スタジアムの横を通って 小机城へ行くには小机駅が最寄になりますが、今夕大阪へもどる都合で新横浜駅のコインロッカーに荷物を預けました。小机駅は一駅だけ先、わざわざ電車に乗り直すこともないので新横浜駅から歩くことにしました。 前方の丘陵が小机城址 現在は、小机城址市民の森なる公園です 小机城 小机城跡の第一の特徴は、この竹林です もっとも当時から竹林があったのかは不明 大がかりな空堀 竹があると斜面をいかにも登りやすいので 竹林は当時はなかったものと考えるべきでしょう 二の丸広場 二の丸から本丸へと向かいます 防御と言えば堀と土塁だけ、そのぶん堀は大がかり 本丸広場 本丸は二の丸とどっこいどっこいの広さ、位置的にも横に並んでいるだけで、資料によるとどちらが主となる曲輪なのかはっきりしないそうです。 本丸から櫓跡へむかいます 天守がない代わりに、ここに遠望するための櫓があった いろはにほへと、の内に落とせるとは思えませんが、それほどの堅城というイメージはありませんでした。それにしても「市民の森」となっており近くに住宅がひしめいているにもかかわらず、散歩する人すら見かけませんでした。密生する竹林と木立のため、たしかに憩いの場とするにはふさわしい雰囲気ではないかもしれません。 茅ヶ崎城へむかって 小机城から6kmほどあるいて茅ヶ崎城を訪ねます。茅ヶ崎城は横浜市の港北ニュータウンを開発中にみつけられた遺跡のひとつで、どうやら小机城の支城だったのではないかと考えられています。小机城のその後はというと、後北条氏が勢力を拡大すると相模から武蔵へ進出してゆく拠点として整備しなおしたようで、茅ヶ崎城もやはり支城のひとつとして使われていたようです。※鎌倉時代の執権・北条氏は相模北条氏とよばれ、北条早雲にはじまる北条氏は小田原北条氏または後北条氏として区別されています。 港北ニュータウンのマンション群を抜けて 戸建て住宅地に出ると、やがて茅ヶ崎城につきます ここは茅ヶ崎城址公園となっています 現地にあった案内板より抜粋 茅ヶ崎城 案内板のある北曲輪(郭) 西曲輪へ向かいます このあたりが西曲輪と思われます 中曲輪... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,城郭・史跡,神奈川

【神奈川県・鎌倉市 2024.3.31~4.1】過去に訪れたことのない鎌倉を訪ねました。一日半をまるまる鎌倉見物にあてましたが、とてもすべてをじっくり見てまわることはできませんでした。こだわって見て歩いたのは、鎌倉時代初期の頼朝、実朝ゆかりの地。そして幕府倒幕にかかわる後醍醐天皇の皇子・護良親王と足利尊氏ゆかりの地。鎌倉幕府を立ちあげたのは源頼朝ですが、3代目将軍・源実朝が26歳の若さで暗殺され頼朝の血筋は絶え、その後は執権・北条氏による統制(というよりも支配)の時代がながく続きます。その北条氏の出過ぎた執政に業を煮やして王政復古をとなえ行動をおこしたのが後醍醐天皇であり、その勅命にこたえて参集したのが、関東では足利尊氏であり新田義貞であり、畿内では楠木正成です。ところが北条氏をたおして鎌倉幕府を地上から葬り去ったものの、その後はそれぞれの野心や思惑がぞろぞろと顔をだし複雑にからみ合い、ついに足利尊氏の弟で好戦家の直義が、後醍醐天皇の皇子で行動家の護良親王(もりよししんのう)を殺してしまうところから、後醍醐天皇(のちの南朝)vs... Read More | Share it now!