読みあるく銘々伝

佐和山城の麓・龍潭寺にある三成の座像 滋賀県石田村にある三成の像 ふたつの石田三成像を見てもたしかに頭がやや大きいように思えます。画像はともに下記のブログよりhttps://yamasan-aruku.com/aruku290/ 石田三成の才智 石田三成はとびぬけて頭がよかったと伝えられています。また三成は才槌頭だったと言われてきました。才槌頭とは槌のように前頭部と後頭部がでっぱった頭のことをいいます。要するに頭が大きく、大きな頭にはいっぱい脳ミソが詰まっているのでその人は賢いと、むかしはいかにも非科学的な迷信が信じられていました。アインシュタインの脳は死後すぐに検死医によって頭部から取りだして持ち去られるのですが、そのため脳の重さについて正確な数字が残されています。1230ℊ、これは平均的重さであり、脳ミソがいっぱい詰まっているから、ましてや頭が大きいから頭がいいとはとても言い切れないことを語っています。 三成の居城・佐和山城本丸跡 佐和山城は、家臣の島左近の存在とともに「三成に過ぎたるものがふたつある」と皮肉られるほどの名城だったようですが、関ケ原合戦以後に徳川家の重臣・井伊直政が彦根に転封されたのを機に、徹底的に破却しその石材や木材をあらたに築城する彦根城の材料として使ったようです。画像は下記のブログよりhttps://yamasan-aruku.com/aruku290/ 徳川家康の大願 家康が出陣するさいの旗印は「厭離穢土欣求浄土」(おんりえどごんぐじょうど)ですが、これは「穢れた現世を厭い離れ、平和な浄土を願い求める」という浄土教の根本思想です。あくまで軍団の旗印ですからここでは思想的な意味合いよりも、戦場で軍兵が死を恐れぬよう死んだならば浄土へ行けるとつよく励ましたものと考えられます。しかし家康の心中には争いの絶えない現世こそ穢土であり平和な国こそ浄土であるという確固とした信念がありました。そして平和な国をつくることこそが家康の大願でした。なぜそう言い切れるか。家康が天下人となってつくり上げた徳川幕府がその後260余年にわたって江戸時代とよばれる天下泰平の世をつむぎ続けた奇蹟をみれば、家康が我欲ではなく明確なビジョンをもって天下平定に邁進したことはあきらかです。 一方の石田三成はというと、家康が亡き太閤秀吉の遺志にしたがわず勝手なことをしたと怒り、それこそが豊臣家に対する謀反であるゆえに成敗すると息巻くのですから家康からみたら子供が喧嘩をふっかけてくるレベルでしょう。しかも三成が大事とする太閤秀吉の晩年の治世が世間から眉をひそめ内々に批判されていたとなれば、三成のやっていることは滑稽でさえあります。 関ケ原開戦直前の陣形 明治時代にドイツ軍参謀少佐がこの陣形図(黄色の内応軍や黒色の傍観軍はすべて西軍に含まれていたもの)を見て「西軍の勝ちだ」と言い放ったというのは有名な話です。しかしずぶの素人がみても正面、側面、背面の3方向を囲んだ西軍が絶対有利であることは容易にわかります。むしろ不思議なのは、百戦錬磨の家康がなぜ一見して不利とわかる位置にわざわざ布陣したのかを三成は疑問に思わなかったのでしょうか。家康は黄色も黒色も自分(東軍)に向かって襲いかかってくることは絶対にないと確信していたのでしょう。 福島正則の直情 福島正則は秀吉の実母(大政所)の妹の息子であり、秀吉から見ると20歳以上年の離れた従弟にあたります。秀吉子飼いの武将の代表格であり、とくに賤ヶ岳の戦い以後は秀吉の下で数々の武功を上げて立身してゆきます。それがなぜ徳川家康についたのか。過去の通説では大の石田三成嫌いで、すでに家康に内応していた黒田長政からそこを刺激され怒りにまかせてということになっていますが、それ以前に正則の息子(養子)と家康の娘(養女)が婚姻しており、早くから徳川方へ傾いていたものと考えられます。天下人となってからの秀吉は聚楽第、大坂城、桃山城と絢爛豪華な城普請に天下の銭を湯水のごとく使います。それでもこれは今でいうところの公共事業に相当しそれなりに景気刺激策になると理解を示す人がいたかもしれません。しかし武人たちの疲弊に目を向けることもなく目的のわからない朝鮮出兵をくり返すことに賛同したものがいたとは見聞きしたことがありません。さらに甥の関白秀次や茶頭の千利休を自死に追いやるなどの愚行をみると、老人性の耄碌とか痴呆とは違って急激に狂いはじめたとしか思えません。もしこのころ内閣支持率のごとき天下人支持率が集計されていれば、間違いなく一桁だったことでしょう。その一桁のなかには秀吉子飼いの福島正則さえ入っていなかったということです。ところがその一桁のなかに入る男がいました、石田三成。しかも三成は関ケ原合戦がはじまる直前になっても、福島正則を味方に引き込めるかもしれないと報せる書状を会津の上杉家に送っています。なんとおめでたい御仁なのでしょうか。 福島正則が改修した広島城... Read More | Share it now!

神社・仏閣,奈良

【奈良市 2024.10.30】東大寺の転害門からかつての京街道を北へ10分もあるくと般若寺があります。般若寺はコスモス寺として有名で例年なら10月末までが見頃なのですが、今年は夏から秋にかけて異常な高温がつづいたため今頃になって見頃を迎えたとWEBサイトで紹介されていました。夏にぎっくり腰を患い、さらに数日前にも腰を痛めて難儀していたのですが、近鉄奈良駅から歩いても2km強、この程度であればリハビリがてら歩くのも良かろうと判断し出かけてみることにしました。 般若寺は高句麗から渡来した法師が創建し、聖武天皇が平城京の鬼門(北東)を護るため伽藍をたて大般若経の経典をおさめたことが起源と伝わっています。往時には千人の学僧が修行をしていたといいます。修行といっても荒行苦行の類ではありません。般若経でいう般若とは「智慧」のことであり、ここでいう智慧とは「真理を見きわめる力」を意味します。経典を読み、もっぱら学問をしていたものと想像できます。その経典ですが、いうまでもなく般若経の教えをコンパクトにまとめた般若心経がつかわれていたことでしょう。 般若寺 楼門は鎌倉時代に再建された重要文化財 さてその般若心経、わずか260文字のおそらく世界一短い経典でしょうが、その260文字をそのまま読むだけで理解できる人がいるのでしょうか。凡夫の私などは260文字を理解するために260頁以上ある解説書を2度読みましたが、それでも「わかったようなわからないような」レベルです。 塀沿いに入口にむかう... Read More | Share it now!

城郭・史跡,兵庫

【兵庫県・豊岡市 2024.10.21】昨年夏に出石の街を訪れた際にはまず名産の出石蕎麦をたべて腹ごしらえし、出石城を見学しました。その出石城の裏手からさらに山道をのぼって背後にそびえる有子山の山上の城を見に行くつもりだったのですが、その日はたしか最高気温が37度に達する猛暑日で、急峻な坂道を目の前につぎの一歩が踏み出せず断念。それ以後忘れていたわけではありませんが、再訪はのびのびになっていました。 きっかけは些細な記事です。天空の城として全国にしられる竹田城を築いたのが山名家の全盛期をきずいた山名持豊(宗全)ですが、その持豊から5代あとの祐豊(すけとよ)は此隅山(このすみやま)城を本拠にしていたものの織田信長の下ではたらく秀吉に攻められ降伏、その後信長の許しをえてあらたに有子山城を築きます。その有子山ですが、落城した此隅山城が「子盗み」を連想させて縁起が悪いので、もとは別の名だった山を「有り子」山と名づけたのだとか。真偽のほどはわかりませんが、「そうだ、出石へ有子山城を見にいこう」と思い立つ発端にはなりました。 出石城から 出石城入口... Read More | Share it now!

城郭・史跡,兵庫

【兵庫県・朝来市 2024.10.21】鎌倉時代から清和源氏を先祖として歴史に名をつらねる山名氏は室町時代に全盛期をむかえます。山名兄弟で全国66ヶ国のうち山陰から丹後一帯の11か国を守護領国とし、そのため「六分の一殿」と呼ばれています。応仁の乱といえば足利義政や日野富子が主役の将軍家の後継争いが中心に取り上げられますが、そもそもの発端は細川勝元と山名宗全の幕府内における勢力争いが引き金になっています。その山名宗全、これは出家後の名で、諱(いみな)は足利4代将軍義持の一字を賜り、持豊。このひとが但馬の守護であったときに播磨の赤松氏にそなえて国境に築いたのが竹田城です。 竹田城といえば天空の城、雲海に浮かぶ城、あまりにもビジュアル面が有名であり、縁あってこのブログを見てくださっている方にとっても城の歴史はどうでもええわ、が本音かもしれませんのでさっそく見学に向かいましょう。 山上の竹田城 朝7時前 秋の竹田城といえば雲海があまりにも有名です。ネット等で調べたところ夜明けから8時ごろまでがチャンスとのことなので、7時前に着くよう早起きして来てみましたが、雲は左端のほうにわずかに見られるのみ。これは今年の秋の異常にたかい気温のため霧が発生しにくい、あるいは夜明けごろには見られてもすぐに気温が上がるため早々に消滅してしまうようです。今年のように高温がつづく秋には、見頃は11月も後半からと考えた方がよいのでしょうか。 古城山の山頂に竹田城の石垣がみえる日差で空が青くひろがる7時半頃から登城開始 表米神社から登ることにします 丸太階段道をえんえんと登る 以前(10年ぐらい前)に訪れたときにはJR竹田駅の裏から出発する道を登ったので、今回は500mほど南西にある表米神社から登る道をえらびました。結論からいうと、これはオススメできません。ふだん山登りに親しんでいない人にとっては、「修行に来たんとちゃうでぇ」と一声あげたくなることでしょう。 竹田城 縄張図を見かけたので掲載します 縄張としての竹田城の特徴をいうと、中心に本丸があり、北と南に両翼のように曲輪がのびて端がともにひろい千畳曲輪になっていること。山麓の駅裏から登っても表米神社からでもいったんは同じところにたどり着きます。そこが料金所になっています。料金所からは登り専用道があり北千畳よこにたどりつきます。そして城跡を縦走するようにあるいて南千畳から下ると、料金所から50mほど離れた場所に下りてきます。そこから駅裏へ下るのも表米神社へ下りるのも可能です。 北曲輪群 城郭が見えてきました 城内へ 桝形虎口になった大手門 大手門をあがって振り返る 二ノ丸から三の丸方向をみる 天守台方向をみる 北二ノ丸、三の丸をみる 南曲輪と天守台をみる 南曲輪群 天守台 天守台から南曲輪群を見わたす 天守台と周辺 南二ノ丸から天守台と北曲輪群の石垣をみる このあたりの石垣の石はきれいに削られ、 このあたりの石は粗く、築かれた時代が早い 下城する 駅裏道は九十九折りで歩きやすい 気持ち良さげな東屋がありました 駅裏は城下町の風情をのこす 寺院越しに山上の城郭をのぞむ 【アクセス】JR竹田駅より登城口はすぐ、登城口から城まで徒歩30~40分【入城料】500円【満足度】★★★★★ ... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,城郭・史跡,京都

【京都府・宮津市 2024.10.20】まず細川家の説明から始めます。細川氏は南北朝時代に足利尊氏のもとで要職について勃興しますが、その後も脈々と家系を存続しつづけます。明治維新後も細川氏の系譜から侯爵、子爵、男爵と計8家もの華族がうまれ、平成の時代に誕生した細川姓の総理大臣もこの家系の人です。応仁の乱ののち勢力をうしなった細川氏本流にたいして、室町時代も末期になって分流ながら足利義昭をたてて幕府再興をはかったのが細川藤孝(のちの幽斎)。それを援けたのが明智光秀。光秀は(一説では)美濃の国衆であり、一時期美濃を掌握した斎藤道三と縁故関係にあり、さらに道三の愛娘・濃姫が織田信長に嫁いでいた縁から信長に接近。ここで義昭をともなって上洛し天皇の詔(みことのり)をえてあらたな将軍に据えることで、将軍家にたいしては大きな貸しを、朝廷に対しては太いパイプをつくる利を説きます。この計略はあらたな将軍となった義昭が信長の思惑どおり操り人形となることを嫌い独立独歩の態度を示したことで破綻、それどころか信長の逆鱗に触れ義昭は追放、信長は独力で天下統一にむけて驀進してゆきます。ここには明らかに歪みがあります。義昭はこのとき将軍のままなので信長は幕府の存在(意向)を完全に無視、また相手方から頼まれて義昭を新将軍たらしめる詔をくだした朝廷も完全に無視。一説では本能寺の変の黒幕は、幕府とも朝廷ともいわれています。 一方明智光秀と細川藤孝はともに信長に仕えながら戦功をあげ、城もちの家臣として取り立てられます。さらに家同士の関係強化のため信長の勧めもあって、光秀の三女・玉(のちに洗礼を受けてガラシャ)が藤孝の嫡男(跡取り息子)忠興に嫁ぎます。それから4年後、本能寺の変。もともと盟友でもあり親友でもありさらに互いの娘と息子が婚姻しているゆえ光秀としては細川家が味方してくれるのは前提としていた感すらあるのですが、想定外なことに藤孝は拒否の返事こそ寄こさないものの剃髪して引退し、家督を忠興にゆずります。明智光秀とは関わりはないし今後も関わる気はないとの宣言といえます。南北朝時代からえんえんと「家」をまもってきた細川家のこと、状況を細心に判断し光秀に与しても利もなければ与するだけの理もないと判断したのでしょう。忠興はどうかというと、明智光秀が主君・織田信長を討ったことはまぎれもなく謀反であり、「家」の存続を考えるなら光秀の実娘の玉の存在は厄介そのもので、通常ならば離縁したはずです。ところが夫の忠興には愛する妻を離縁することはできませんでした。 宮津 宮津市内にたつガラシャの像 忠興は玉を心底愛していました。しかしその愛は偏愛であり、しだいに狂愛のおもむきを帯びてきます。 宮津の城で暮らしていたときには、玉を誰にも見らないよう屋敷の一番奥の棟に監禁するように住まわせていました。もちろんいっさいの外出を禁じていたといいます。 山上から天橋立をみる 天橋立の先、入り江部分に宮津の街がひろがっています。そこに宮津城はありましたが、おそらく玉(ガラシャ)は最後まで天橋立を見ることはなかったのではないでしょうか。 忠興の狂愛についてはいくつも逸話が残っています。有名なところでは屋敷に出入りする庭師が偶然にも室内にいる玉の姿をのぞき見てしまい、そのことに激怒した忠興が即座に庭へ駆け下り刀で首をすっ飛ばしたとか。この逸話はよく耳目にふれますが、はっきり否定しているものはないのでけっこう真実なのかもしれません。 三土野へ 本能寺の変のあと、忠興は丹後半島の山中深くにある三土野の地に玉の身柄を移します。いうまでもなく大名の正室ですから身辺の世話をする侍女数名、さらに護衛のための武人と男手十数名程度がしたがいます。宮津城で暮らしたところで人に見られないよう屋敷奥に軟禁しているのですからわざわざ山奥に移さなくても良かろうにと突っ込みを入れたくもなりますが、資料によってはいったん離縁したと書いているものもあるので、もしかすると世間には離縁したこととし身柄を隠したのかもしれません。 棚田のひろがる山里 ここまででもずいぶん山奥へと入ってきましたが、三土野はさらに山奥の奥です。それどころかさらに奥へと進んだところ道が荒れはてて通行止めになっており、Uターンしていったん山をくだり違う道からあらためてアプローチすることになりました。とにかく車でたどり着くのさえ大変です。 なんとか三土野に着きました 大滝... Read More | Share it now!

山登り,奈良

【奈良県・曽爾村 2024.10.14】室生山地を訪れるのは、昨秋ススキがひろがる風景を曽爾高原に見にきて以来ですからちょうど1年ぶりということになります。今回はその曽爾高原も東に望むことのできる兜岳と鎧岳に登ります。その名からしてなんとも勇ましいというか、厳めしくさえあるのですが、室生山地にそびえる山々はおおむね標高1000ⅿ前後、またバス停は標高400ⅿ前後の谷間沿いにあり、さらにバス停から車道をのんびり歩いて登山口まで行くとそこは標高600ⅿ前後。すなわちマイカーをつかった場合にもこの登山口までは行けるので、山道登りは標高差にして300~400ⅿ程度ということになります。 兜岳へ 車道をあるいているうちに兜岳が迫ってくる 手前が兜岳、右前方に見えるのが鎧岳 ここから山道に入ります 案内板には「ハイキングコース」とあります。この登山口が標高648ⅿ、兜岳山頂が894mゆえ246ⅿ上がるだけですからたしかにハイキングと言えなくもないですが。-... Read More | Share it now!

城郭・史跡,岐阜

【岐阜県・関ケ原町 2024.10.10】関ヶ原の合戦については、徳川家康率いる東軍と豊臣家を代表する石田三成率いる西軍が天下をわけて争ったというイメージがあるのですが、調べればしらべるほど違和感を覚えてしまいます。まずこの争いについては敵対する者同士が領土の取り合いをするといった戦国時代特有の戦ではなく、豊臣家の中での主導権をめぐる、いうなれば内輪揉めであると捉えた方がしっくりきます。 秀吉による豪奢な城づくりをはじめとした放逸な散財、あるいは意図の理解できない朝鮮出兵などの愚政に庶民だけでなく武人たちもほとほと嫌気がさしていました。それに取って代わろうとした家康。家康が天下をおさめた結果として生まれた江戸幕府が、大きな争乱もなく260余年にわたって太平な時代をつむいで行けたのは、ひとえに家康のビジョンが優れていたからでしょう。 関ヶ原の合戦を前にして、豊臣派であった多くの武将たちが家康に従うようになります。しかし家康がえがく将来の日本の姿に共感した、なんて者はひとりもいなかったのではないでしょうか。大半の武将はわが家(いえ)の存続のため豊臣方と徳川方とどちらが勝ちそうか天秤にかけた上でのこと。あるいは石田三成憎しの私怨で突っ走った者。ただ一人だけ家康の器量を認めたうえで、(豊臣政権を倒すかどうかは別にして)家康がトップに立って国政を取り仕切るべきと考えていた、と思われる武将がいます。それが石田三成に従い獅子奮迅の活躍をする大谷吉継であるのは皮肉すぎますが。 豊臣家の面々はどうなのかと見ると、北政所ねね(高台院)はどちらかというと三成よりも家康のほうに傾いていたようです。淀君と秀頼、一般には淀君が近江の生まれのため三成をはじめ近江衆と懇親であったと言われていますが、関ヶ原合戦の前後に淀君がいわゆる西軍のためになんらかの助成をしたかというとまったくその痕跡はありません。そうなると、西軍vs東軍とは豊臣方vs徳川方だったのかその構図さえ怪しくなってきます。 そもそも石田三成は、秀吉亡きあと秀頼をたてて豊臣政権を末永くつづけていこうと考えていたとして、どのような国づくりをするか明確なビジョンがあったのでしょうか。三成があれほど嫌われたのは本人の横柄な性格にくわえて、秀吉がおこなった悪政をそのまま取り仕切る代官であり、ほかの武将としては恩義のある秀吉には向けられない怒りの矛先を三成に集中させていたとも考えられます。 この関ヶ原へは今年の夏に訪れる予定だったのですが、あまりにも暑い日々がつづくため10月も半ば近くになってやっと腰をあげました。その間にもさらに下調べをすすめたため準備万端、いざ出発です。 ◆話の展開をわかりやすくするため、今回は歩いた順ではなく故意に並べ替えをしています。 毛利秀元、吉川広家 合戦がはじまる直前の陣形 赤で記された「東軍」のやや後方・桃配山に徳川家康が布陣しています。そのさらに後方の南宮山には黒で「傍観軍」と記された吉川広家をはじめ秀元率いる毛利家の本隊が控えています。 そもそも寝返ったのは吉川広家、そして毛利本隊を説得して山上にとどめ置き、安国寺恵瓊、長束正家、長曾我部盛親は西軍に味方していましたが、毛利の大軍が居座るため動くに動けなかったようです。 桃配山の家康の陣跡 後方の山並みが南宮山、その手前麓に桃配山 南宮山の手前にひろがる平地一帯に東軍の軍勢が陣取っていました。その後方に家康が本陣をかまえること自体に不自然さはないのですが、そびえる南宮山には毛利の大軍がいます。吉川広家の寝返りは確実だったものの、家康としては毛利秀元がどう動くかは最後まで確信できずにいたと伝わっています。しかしこの陣形をみれば秀元の寝返りも確信していたと考えるべきです。家康としては吉川だけでなく毛利も100%内応しており、南宮山山上から自分に襲いかかってくることは200%ないと信じていたからこそあの場所に陣を敷いたのでしょう。 毛利氏が徳川方に寝返ったのは、一にも二にも御家存続のためです。ところが家康の剛腕のまえには抗うすべもなく、関ヶ原後毛利氏は120万石から30万石に減封されたうえ、本州の西の端の長門・周防へ押しやられます。関ヶ原合戦で一番の貧乏くじをひいたのは毛利氏かもしれません。◆毛利氏はこのときの恨みを二百数十年忘れず、幕末には長州藩みずから先頭に立って江戸幕府(徳川幕府)をたおすため決起するのですが、それはのちの話。 黒田長政 黒田長政が布陣した丸山 黒田長政は、秀吉に天下を取らせた男といわれた黒田官兵衛の息子で、まさにあの親にしてこの子あり、たくみな人心掌握により秀吉子飼いの武将たちを次々に徳川方に引きこみます。父親の官兵衛(このときは剃髪後で如水と号す)が秀吉と一心同体のごとくであったにもかかわらずなぜ家康にすり寄ったのか。そもそもが石田三成とは反目しており、さらに親は親とわりきっていざ情勢を俯瞰したところおのずと家康に傾いたということでしょう。関ヶ原合戦後は、豊前中津12.5万石から筑前52万石の大名に大抜擢されています。 ◆黒田長政はなかなか恨み深い性格だったようです。官兵衛が幼少時から育てた家臣の後藤基次(又兵衛)とそりが合わずついには又兵衛が出奔してしまいます。又兵衛は武勇名高く仕官先には事欠かなかったのですが、長政がこのもの召し抱えることならずと全国に布告したため(これを奉公構という)又兵衛はその後浪人生活をおくるしかなく、それがゆえに大坂の陣では招かれて豊臣方につくことになります。 細川忠興 細川忠興の陣跡... Read More | Share it now!