【兵庫県・姫路市~高砂市 2025.4.30】兵庫県の南西部を播州あるいは播磨と呼びますが、東は加古川市から高砂市をへて西は姫路市へと播磨アルプスが連なります。この播磨アルプスですが、2~300mの低山ばかりではあるものの、その屹立する山容の美しさにくわえ山肌が岩盤におおわれ、おおいにスリルを味わえる登攀路もあれば、岩肌ゆえに樹林が繁茂しないため遮るものなく常に眺望を楽しめるという贅沢な山歩きを満喫できます。2年ほど前には中間にある百間岩とよばれる馬の背状の岩盤をのぼって鷹ノ巣山から東へ向かい高御位山に登頂、さらに東へと下山道をたどりました。そこで今回は西の登山口からはいって桶居山へと登頂、さらに西へあるいて鷹ノ巣山へ、そこから百間岩をくだってみたいと思います。 桶居山へ 深志野登山口からはまず竹林へ踏み込む タケノコとしては収穫していないみたいこれだけ育ってしまうと、すでに小ぶりの竹でしょう 岩の露出した急坂をのぼる やがて岩盤の急坂にかわる 中央の三角錐が桶居山 随所にクロバイが咲いていました 登ってきた峰をかえり見る 桶居山が近づいてきました 桶居山へ最後のアプローチ 桶居山山頂 鷹ノ巣山へ 低山ゆえ峰々に電柱が立つのは致し方ない 桶居山をふり返るピラミダルという形容がありますが、まさにコレ さらに進んでもう一度振り返ります いったん山脈の内陸側(北面)へ回ります様相もすこし変わりました 山肌が岩そのものなのか樹木がまばら ふたたび海側へ、右のピークが鷹ノ巣山 鷹ノ巣山から東方向を見る... Read More | Share it now!
和泉山脈に名峰はないが、たのしい山歩きが待っている
【和歌山市 2025.4.24】和泉山脈(別称:紀北アルプス)は標高が500ⅿにも達しないような低山ばかりで、これといって山容の美しい秀峰もありませんが、ときに瀬戸内海から淡路島をのぞみ、ときに紀ノ川のながれる和歌山の町を見下ろしながらほどよく整備された道をのんびり歩くのは、気持ちひきしめてピークをめざす登山とは違う、たとえば癒しの山登りを楽しめます。地理的には大阪と和歌山の府県境をなすように山峰が連なっており、大阪側からも和歌山側からもいくつもの登山道があり、かつその道が複雑に交差するためルートはほぼ無数にあるといえます。今日は和歌山市の市域にあるJR六十谷むそた駅から北へと山道をあがり岩神山、さらに北へのぼりつづけ見返り山で大阪府との府県境にいたり、そこから府県境沿いの尾根道を大福山へ、つづいて南東に進路をかえ籤法ヶ嶽せんぽうがだけから地蔵山をへて一気に南へくだり、やはり和歌山市のJR紀伊駅までもどります。ちなみに勇ましげな山名も出てきますが、もっとも標高の高い大福山でも427m、新緑のもと危険箇所もない山道をのんびりあるく予定です。 登山開始 六十谷駅から20分ほど一般道をあるくと、何気ない細道があり、これが登山口になります いきなり樹林地に入ります いかにも手作りっぽい橋をわたる このあたりまでは山登りというよりも山里を散歩するといった感覚で、トレッキングポール(スティック)まで用意してきた方々なら拍子抜けするかもしれません。 岩神山 徐々に登りがきつくなってきます そしてこの急坂道、長々とつづきます 岩神山から紀ノ川、和歌山市街、瀬戸内海をのぞむ 岩神山はたかだか標高238mの山ですが、後半は急坂道で一気に登るのでけっこう堪えます。とくに(個人的に)この日は胸の調子が良くなかったので、なんどか手すりにつかまりながら登る羽目になりました。 見返り山、大福山 岩神山を後にすると、この分岐で左へマイナーな分岐点でも標識があるのは助かります 新緑がまぶしい、たのしい山歩き 見返り山から先程と同方向をのぞむ ここも新緑が映えて美しい 大福山山頂 大阪側の阪南、泉南方面をのぞむ ミツバツツジ... Read More | Share it now!
奈良駅から万葉まほろば線で南へ、帯解周辺を歩く
【奈良市 2025.4.16】JR奈良駅から別名「万葉まほろば線」として親しまれている桜井線にのって南へ下ると、最初の駅が京終(きょうばて)です。意味は文字通り平城京の終わり(果て、端)を意味します。さらに南下すると、帯解(おびとけ)駅があり、石上神宮いそのかみじんぐうが近い天理駅、古代遺跡の代表である纒向まきむき遺跡がのこる巻向、大神おおみわ神社と三輪山が鎮座する三輪をへて桜井駅へ。このあたりは大和がまだ倭と記されていた時代にヤマトの中心であったと考えられている土地です。 「まほろば」とは古事記にも出てくる古語で、漢字で書くと「眞秀呂場」となり「素晴らしい処」を意味します。そもそもはヤマトタケルが詠んだ歌「倭は 国のまほろば 畳たたなづく 青垣 山籠ごもれる 倭し麗し」が由来となっているようです。 奈良観光というと、東大寺や春日大社をふくむ奈良公園周辺、法隆寺のある斑鳩、桜と紅葉がみごとな吉野、あとは薬師寺、飛鳥(明日香村)、橿原神宮といったところのようですが、この万葉まほろば線沿いにもなかなか見逃せない処(観光客がぐっと少ないという意味では穴場)があります。とはいっても、天理~巻向~三輪~桜井あたりは以前にあるいてブログにも書きました。そこで今日は、京終から天理までの途中に位置する帯解おびとけで下車して周辺を歩いてみることにします。 帯解寺 帯解寺・山門 帯解寺おびとけでらの名の由来を書いておきます。文徳もんとく天皇(1200年ほど前に即位した第55代天皇)と后の染殿皇后が子供ができないことを悩みこの寺で祈願したところ、男児・惟仁親王(のちの清和天皇)をさずかり無事に出産。天皇はおおいに喜び「腹帯がとけて安産できた」との意味で、「帯解寺」の名を下賜されたとのこと。 本堂、左後方に十三重石塔 以上が一般につたわる由来ですが、実際のところはずいぶんキナ臭い史実が残っています。染殿皇后の元の名は藤原明子。父は藤原良房、皇族以外ではじめて摂政の位についた実力者(くせ者とも言える)です。 藤原良房の妹・順子は54代任明天皇に嫁ぎ道康親王を出産、これがのちの文徳天皇です。 本堂 文徳天皇は他の后がさきに産んだ第一皇子を寵愛していたものの、良房は娘である明子を入内させ惟仁親王を出産すると、天皇家に藤原家の血をさらに濃く注ぎ込むため強引に惟仁親王を立太子させます。※立太子とはつぎの皇位継承者として立てること。本来は天皇すなわち文徳天皇が決めるべきことをここでは岳父の良房がやってしまっている。 帯解寺の名の由来にケチをつけようというのではなく、歴史は裏があるから面白い、と思いませんか? 円照寺 帯解寺から円照寺へは徒歩20分 長い参道を歩いてゆくと、 やっと山門に着きます ところが未公開の拝観謝絶でした(笑) 山門手前から霊気漂うような石段が なんとか歩けるように整えた道をすすむと、 大師堂にたどり着きました... Read More | Share it now!
吉野にて、圧巻の桜と圧倒的な人混みに翻弄される
【奈良県・吉野町 2025.4.9】およそ15年ぶりに吉野の桜を見に行くことにしました。ベストの見頃は明後日か明々後日のようなのですが、明日から天気がくずれるとの予報のため、快晴予報の本日決行することにしました。なぜ「決行」などという大げさな言葉を使うかというと、桜が見頃時期の吉野はえぐいほどの人出で、たとえば関西登山のガイドブックには桜のシーズンは混みすぎるので避けた方がよいと注意書きがされるほどです。人出に関して、それほど多くないのではと楽観できる要因は今日が平日であること、とんでもなく多いのではないかと悲観するしかない要因は明日から天気が悪くなるため(私と同じように)今日しかチャンスはないと考える人が... Read More | Share it now!
玄蕃の暴走で勝家は戦にやぶれ、玄蕃尾城がのこった
【福井県・敦賀市刀根~滋賀県・長浜市余呉町 2025.4.7】<青春18きっぷ>をつかって新大阪駅から福井県の敦賀まで、乗り換えなしの新快速にのると2時間かからずに到着します。そこからコミュニティーバスで30分南へ戻ると、滋賀県との県境ちかくに玄蕃尾城があります。この城は織田信長が本能寺で謀殺されてのち重臣たちによる覇権争いの最終決戦となる賤ヶ岳の戦いのさいに、琵琶湖南岸に陣をしく羽柴秀吉方にたいして北岸に陣をしいた柴田勝家方の、その勝家の本陣がおかれた場所です。城の名の由来については複数のサイトで確認できましたが、たんに勝家の甥にあたる佐久間玄蕃盛政の名に由来するとだけ書いてあるもの、この城が賤ヶ岳の戦いにおける佐久間玄蕃盛政の陣城と(誤)認識されていたとするもの、また盛政がこのあたりに行軍のための尾根道をつくり、その道が「玄蕃の尾根道」と呼ばれたことからとするものなどがありました。ともかく玄蕃盛政がなんらかの形で関わっていることは確かですが、築城主と書いているサイトは見当たらないので誰がこの傑出した山城を縄張したのかは不明です。(柴田勝家の指示のもとにつくられたのは確かです) 刀根バス停から歩く 刀根バス停で下車、ほぼ車の姿のない車道をあるく まったく車の姿のない林道をあるく 山の北面には雪が残っていた 登山口には駐車場があった... Read More | Share it now!
城に桜にと欲張って、アブハチ取らずの津山城
【岡山県・津山市 2025.4.6】津山城は、江戸時代初期に小早川秀秋の死によって小早川家が改易され、そのあとに信濃の地から美作一国18万石で加増転封してきた森忠政により築城されました。美濃において斎藤道三から織田信長に権力が移行するころ、その道三から信長に主家をかえて頭角をあらわしたのが父・森可成よしなりであり、忠政はその六男にあたります。ちなみに長男は若くして戦死、次男の長可ながよしは武勇をとどろかせ鬼武蔵と称されますが、小牧長久手の戦いで秀吉が止めるのを聞かず徳川軍の背後から奇襲するつもりが逆に返り討ちにあい戦死します。三男が信長の小姓として有名な蘭丸(成利)、四男が坊丸(長隆)、五男が力丸(長氏)、この3人は本能寺の変で信長に随伴していたためそろって討死しています。このとき忠政(当時は長重)も信長の小姓をつとめていましたが、どうやら幼すぎて悪戯がすぎるのか国元に返されていたようで、それがために惨事に巻き込まれることを免れたようです。 さてその津山城、ぜひ訪ねたい城のひとつであり大阪から泊りでゆくには近すぎるからと、青春18きっぷをつかっての日帰り旅行を以前から企画していました。そこまでは良かったのですが、津山城が日本百名城であると同時に、城のある鶴山公園は日本さくら名所100選でもあることから、ついつい欲張ってしまいました。しかも今日は日曜日、仕事を引退して毎日が日曜日(のような)私はついうっかり週末は観光地は混むということを失念していました。さてこの旅、吉と出るか凶と出るか。 印象に残るのは、①人、②桜、③石垣 いかにも最近作ったような階段をあがって、 階段を上がった正面にある案内図より抜粋 菜の花と桜、そして石垣... Read More | Share it now!