山さん

森鴎外之像津和野・森鴎外記念館内 森鴎外と夏目漱石は明治を代表する2大文豪です。かつて漱石の肖像画が千円札に印刷されていたころは、漱石の小説の方が一般に読みやすく親しまれているからなのかと漠然と思っていました。ところが昨年あらたに紙幣が刷新され明治時代を代表する医学者・北里柴三郎がやはり千円札に採用された際には少なからず驚きました。森鴎外は本名森林太郎、明治時代の陸軍を代表するような軍医(陸軍軍医総監であり陸軍医務局長も兼任する文字通りトップ)、すなわち文学の夏目漱石と医学の北里柴三郎のふたりを合わせたような実績をもつ著名人です。それにもかかわらず、漱石と柴三郎がそれぞれ紙幣に採用されながら鴎外が漏れたのはなぜなのでしょうか。 明治時代には天然痘、コレラ、結核とともに脚気は多くの人の健康をむしばみ命をうばう病気として恐れられていました。いまでこそビタミンB1の欠乏によって末梢神経障害から足にむくみや痺れを生じさせ、さらには心不全をまねき症状が重くなるとついには死に至らしめる、ということは一般に知られるところですが、江戸時代から明治時代初期にかけて江戸を中心にした都市部で原因のわからないまま脚気が流行の兆しを見せはじめます。なぜ都市部でのみ流行したのか。そもそも米を食べるとは玄米を食べることを意味していました。ところが都市部ではより美味しくなるということで精米すなわち玄米の糠ぬかをとり除いて白米にして食するようになります、実はこの糠にビタミンB1が大量に含まれているのですから「糠をのぞいた米」とは「ビタミンB1を捨てた米」ということになってしまいます。※余談ですが、江戸に中長期滞在した人(地方の大名などもふくめ)が江戸での生活で白米をたべるのが習慣となり知らず知らずのうちにビタミンB1欠乏から脚気の症状に悩まされはじめ、地元にかえって玄米食に戻してからはすっかり治ってしまうためこの症状を「江戸わずらい」と呼んでいたそうです。 明確な確証はないものの、江戸から地方へ戻ると症状が見られなくなる、そもそも田舎にはこの症状のみられる病人がほとんどいないという事実から、おもに漢方医らが食生活の違いに原因があるのではないかと推測し従来の食生活をまもるよう勧めたこともあって、やがて脚気の流行は下火になってゆきます。そんなとき思わぬところで脚気が爆発的に流行します。明治6年に徴兵令が施行されて編成された陸海軍においてのことでした。 吉村昭『白い航跡』 小説『白い航跡』は海軍医・高木兼寛を主人公にした物語です。単行本の帯には「高木兼寛は陸軍軍医部を代表する森林太郎(鴎外)と宿命的な対決をする」とか大仰なことを書いていますが、これは出版社が販売促進をねらって誇大に表現しているにすぎません。吉村氏は高木兼寛について書きたいのであって、もちろん反対勢力として陸軍医・森林太郎は登場しますが、そこは十分に抑制のきいた描き方がされています。 高木兼寛は薩摩藩の鹿児島医学校で教鞭をとっていたところかつての師である蘭方医・石神の推挙により軍医として海軍入りします。ところが高木がそこで見たものは、艦船にのる海軍兵の多くが脚気にやられて歩くことすらおぼつかなく、もし敵船と抗戦することになったとしても到底戦ができる状況ではない、このままでは海軍は脚気のために潰えてしまうと恐怖し、高木は救済するための治療法、さらには予防法を必死で模索します。いくつかヒントになる事実がありました。遠洋の航海中は脚気患者が続出するものの外国の港にしばらく停泊しているあいだは罹患するものが目に見えて減る。高木自身が英国への留学中に見たかぎりでは、英国海軍に脚気患者は皆無だった。それらの事実から高木は、軍隊で支給される食事が白米中心であることが原因ではないか、麦飯あるいはパン食に替えたらどうだろうかと考えるようになります。 明治初期に創設されたころの軍隊の食事は、「ひとり1日6合の白米の支給」がひとつの売りでした。地方の豊かとは言いがたい村で育った若者にとっては、毎日白い米飯が6合も食べられるというのはそれだけでも魅力でした。しかも副菜はいくばくかの現金がわたされて各自その金で調達することになっていたため、(いまからすると隔世の感がありますが)若者たちはその金を残して貯め実家におくることを良しとしていました。すなわち白米はふんだんに食べるものの、副菜は極端にお粗末で結果として必要量のビタミンB1が摂取できるはずもありません。 高木兼寛は上司の許可をえて長期の航海に出る船員たちにパン食やビスケット、あるいは麦飯をまぜた食事を摂らせてみることにします。この生の海軍兵をつかった人体実験ともいえる調査の結果をまつ高木の不安と焦燥の姿を見ていると、結果はわかっていても思わず緊張しながら吉報が届くのを待ってしまいます。 メルカリで購入した『白い航跡』 『白い航跡』は上下巻ともAmazonの中古本で安いものは各1円+送料で売られています。メルカリであれば状態のよいものが上下巻・送料出品者負担で6~800円といったところです。よほど人気がないからそれほど安いのかというとそうではなく、中古本市場は人気があってたくさん販売されたものは読後にたくさん売りに出されるため値段が下がります。逆に人気のない初版発行で終わるような本は希少品ということになり、需要が少ないにもかかわらず値があがります。たとえば、これからあとに紹介する評論書の類い。 森鴎外『舞姫』 『舞姫』は森林太郎自身のドイツ留学の体験をもとに書かれたもののようですが、私小説かというと、さてどうなのでしょう。 森林太郎は現在の島根県の津和野藩につかえる典医の長男として生まれます。森家には代々男子が生まれなかったようで、祖父も父も婿養子として森家を継いでいます。それゆえ久々の男子誕生に森家は沸き立ち、幼いころから神童の片りんを見せはじめるこの直系の跡取りにおおいに期待を寄せたということです。というのは表向きで、林太郎の曾祖父には3人の息子がいたものの、長男は早世、次男は西家へ養子入り(して西周にしあまねの父親になる)、そして三男が森家を継ぎます。ここから先はあとで紹介する山崎一穎かずひで『森鴎外 国家と作家の狭間で』によりますが、この三男・亮良が典医をつとめていたとき森家家伝の胃腸薬の需要が多すぎて生産が追いつかず原料をかえていわゆる偽装薬品を供給したようなのです。西周の記述するところでは「故アリ家断絶ス」ということで、どうやら森家は藩から蟄居を命じられ亮良は山口へ出奔してしまいます。その後曾祖父は娘に婿養子をとり(この人が林太郎の祖父)なんとか家系を存続させるのですが、藩からは減封されあきらかに森家は衰退してしまいます。 それゆえ森家一同の林太郎に託す再興の思いは並大抵ではなく、これがつねに重圧になっていたことは容易に想像できます。たとえば『舞姫』の主人公・太田豊太郎のつねに陰のある憂鬱そうな姿にそれは反映されています。林太郎は文字通り神童でした。東京医学校(現在の東京大学医学部)予科に年齢を2歳上に偽って入学し19歳で卒業、主席ではなく8番席次ではあるものの他の卒業生がみな5~7歳年長であることを考えると、恐るべき秀才といえます。しかし当の林太郎は主席で卒業できなかったことに内心忸怩たる思いがあったようで、というのも首席で卒業すると文部省派遣の官費留学生としてドイツへ留学できる、それを夢見ていたようです。運が良いというべきでしょう、進路の定まらない今でいうところのプー太郎のようなリン太郎に東京医学校の同期生・小池正直から陸軍省へ入らないかと誘いがあります。林太郎としては役人にも軍人にもなる気はなかったようなのですが、周りからの熱心な勧めもあって卒業後半年ほどで入省します。そこからはやはり大秀才です、衛生制度に関する調査にかかわるかたわら衛生学をまなび、2年後にはドイツ陸軍の衛生制度を調べるためにドイツ留学を拝命することになります。 林太郎はこのドイツ留学中にドイツ人女性との恋におちることになるのですが、『舞姫』のなかでは主人公の豊太郎が貧しい踊り子を援けたことから恋仲になり、やがて踊り子との生活に安らぎをおぼえ(留学生の立場としては)自堕落な生活に埋没しついには官費の支給を打ち切られ、しだいに奈落に落ちてゆきます。現実の林太郎はおおいに成果をあげて留学生活を終え帰国しますが、そのあとを追うように恋仲になったドイツ人女性が日本へとやってきます。陸軍省としては将来有望な、森家としては一族再興の希望の星ともいえる森林太郎を、異国の女性が異国から追いかけてきたなど言語道断と思ったのでしょうか、ドイツ人女性は一ヶ月の滞在で(おそらく林太郎に会うこともなく)帰国します。 『舞姫』では奈落に落ちかける豊太郎に友人・相沢が手を差しのべ、その並外れた語学力を活かして一気に栄達の道が開かれることになります。ところが踊り子はそのとき妊娠しており、豊太郎は栄達の道をえらんで帰国するか踊り子との恋をつらぬいてドイツに留まるかの板挟みになります。『舞姫』は悲恋の物語ではありません。豊太郎はなんだかんだといいながら結局は栄達の道すなわち踊り子を捨てる決心をします。しかも正気を失ってしまい会話もままならない踊り子に対して、相沢の手を借りて無事出産できるようにとその費用と当面の生活費をおいて日本へと去ります。そして最後の一文はこうです「嗚呼、相沢謙吉がごとき良友は世にまた得難かるべし。されど我が脳裡に一点の彼を憎むこころ今日までも残れりけり。」 津和野にのこる鴎外が10歳まですごした生家 霊亀山上の津和野城址から津和野の町を見わたす 坂内正『鴎外最大の悲劇』 その創設当初から日本陸軍と海軍との不仲は顕著でした。倒幕から明治維新へと日本を新しい時代に導いていった中心的存在といえば、薩摩、長州、土佐、肥前の4藩ですが、それぞれの藩の軍事力の差からまず陸軍は旧長州藩士と旧薩摩藩士が中心となって組織されます。ところが西郷隆盛を核とした薩摩藩士が袂をわかち結果として西南の役での敗北、隆盛は自決し多くの人材が失われました。ここで陸軍を実質的に掌握するのは旧長州藩ということになります。一方の海軍ですが、旧長州藩は陸軍中心でその海軍力は微々たるものであったため海軍は旧薩摩藩の独壇場でした。とはいっても創設当初の陸軍と海軍の規模の差には隔絶の差があり、日清戦争当時の総軍人数約20万人、うち海軍2~3万人、日露戦争当時の総軍人数約100万人、うち海軍3~4万人、どうやら旧長州藩中心の陸軍ははなから旧薩摩藩中心の海軍を対等とは見ておらず、陸軍の支部支局どころか付け足し程度の認識だったのではないでしょうか。 そのような歪みのある関係の中で、海軍医の高木兼寛が軍部が支給する白米中心の食事にこそ脚気の原因があると声高に発表したのですから陸軍としては黙ってはおれません。高木のいうことは突き詰めていうと「白米中心の食事が悪い、白米中心の食事はやめるべきだ」ということになり、「ひとり1日6合の白米」を標榜してきた軍部を否定し、「ひとり1日6合の白米」にあこがれて入隊する若者たちにとっては梯子をはずされるも同然のことです。 さらにこの問題を複雑かつ深刻にしたのは、海軍がイギリス式であったのに対して、陸軍はドイツ式であったこと。海軍は医学もイギリス流を取り入れ、その特徴は実践(予防と治療)にありました。それだからこそ高木は脚気の症状の出るか出ないかだけで予防法を見つけえたのですが、陸軍はというと医学もドイツ流、基礎医学の研究を重視し、脚気についてもまずその原因を究明することが喫緊の課題とされていました。当時もっとも注目されていたのは細菌学で、脚気も伝染病であろうと推察され先ずは病原菌を見つけ出せが合言葉のようなものでした。当時の医学水準の低さをしめす笑うに笑えない逸話があります。陸軍が米飯の麦飯にたいする優位性を誇るのに、「麦飯は米飯よりも多量の糞便を排泄する、すなわち米飯の方が消化吸収がよい」たしかに米の方が麦より消化がよいのは事実のようですが、それだから米が脚気の原因ではないとは結び付かないでしょうし、そもそも糞便の量だけで消化吸収の良し悪しを決めるのは乱暴でしょう。当時の医学はその程度のレベルであり、しかも陸軍からの一方的な軽視があれば高木の主張が認められるはずがありません。ここで森林太郎が陸軍を代表して海軍の高木を真っ向から批判し、さらに「ローストビーフ好きのイギリスかぶれ」と侮蔑したとされていますが、ふたりの経歴を年代とともに見比べるうちに疑問がわいてきます。高木は明治15年(1882)に海軍医務局副長に就いてから脚気問題に取り組みはじめ、翌年海軍医務局長就任をへて明治18年(1885)に海軍軍医総監(海軍軍医のトップ)に就くのと前後して白米食の脚気原因説を発表しています。一方の林太郎はというと、ドイツ留学から帰国したのが明治21年(1888)26歳のとき、これでいくと陸軍のペーペー森林太郎は、海軍のトップに向かって昂然とその研究成果を批判し、しかもローストビーフがなんちゃらと誹謗中傷したことになり、実際の場面を想像しようにも無理があります。やはりその背後には、やがて陸軍の軍医総監に就く石黒忠悳ただのりの影を見ざる得ません。評論『鴎外最大の悲劇』はドイツ文学者である坂内正氏によって書かれた、森鴎外を非難することに全精力をかたむけたかのような、力作というよりも力みすぎた作品です。たしかに資料をよくあつめ精読してはおられます。しかし文章全体があまりに粘着質で、批評ではなくあたまから批難、さらに論難から糾弾へとひとりで盛り上がり、言葉尻をとらえての揚げ足取り、憶測で皮肉り、皮肉ることで自分の中で憶測が確信にかわるのか、はては誹謗、中傷、雑言など個人的な恨みでもあるのかと読んでいて不快になってきます。巻末をみると、発行年月日が記してあるだけで「初版」とも記されていません。さずがに出版社も脱稿されてきた原稿を見てこの内容では重版はありえないと思ったのでしょうか。さもありなん。 戦艦三笠と東郷平八郎の像... 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