山さん

森鴎外之像津和野・森鴎外記念館内 森鴎外と夏目漱石は明治を代表する2大文豪です。かつて漱石の肖像画が千円札に印刷されていたころは、漱石の小説の方が一般に読みやすく親しまれているからなのかと漠然と思っていました。ところが昨年あらたに紙幣が刷新され明治時代を代表する医学者・北里柴三郎がやはり千円札に採用された際には少なからず驚きました。森鴎外は本名森林太郎、明治時代の陸軍を代表するような軍医(陸軍軍医総監であり陸軍医務局長も兼任する文字通りトップ)、すなわち文学の夏目漱石と医学の北里柴三郎のふたりを合わせたような実績をもつ著名人です。それにもかかわらず、漱石と柴三郎がそれぞれ紙幣に採用されながら鴎外が漏れたのはなぜなのでしょうか。 明治時代には天然痘、コレラ、結核とともに脚気は多くの人の健康をむしばみ命をうばう病気として恐れられていました。いまでこそビタミンB1の欠乏によって末梢神経障害から足にむくみや痺れを生じさせ、さらには心不全をまねき症状が重くなるとついには死に至らしめる、ということは一般に知られるところですが、江戸時代から明治時代初期にかけて江戸を中心にした都市部で原因のわからないまま脚気が流行の兆しを見せはじめます。なぜ都市部でのみ流行したのか。そもそも米を食べるとは玄米を食べることを意味していました。ところが都市部ではより美味しくなるということで精米すなわち玄米の糠ぬかをとり除いて白米にして食するようになります、実はこの糠にビタミンB1が大量に含まれているのですから「糠をのぞいた米」とは「ビタミンB1を捨てた米」ということになってしまいます。明確な確証はないものの、田舎から江戸へ出た人は発症し、江戸から戻ってくると治る、そもそも田舎にはこの症状のみられる病人がほとんどいないという事実から、おもに漢方医らが食生活の違いに原因があるのではないかと推測し従来の食生活をまもるよう勧めたこともあって、やがて脚気の流行は下火になってゆきます。そんなとき思わぬところで脚気が爆発的に流行します。明治6年に徴兵令が施行されて編成された陸海軍においてのことでした。 吉村昭『白い航跡』 小説『白い航跡』は海軍医・高木兼寛を主人公にした物語です。兼寛は薩摩藩の鹿児島医学校で教鞭をとっていたところかつての師である蘭方医・石神の推挙により軍医として海軍入りします。ところが高木がそこで見たものは、艦船にのる海軍兵の多くが脚気にやられて歩くことすらおぼつかなく、もし敵船と抗戦することになったとしても到底戦ができる状況ではない、このままでは海軍は脚気のために潰えてしまうと恐怖し、高木は救済するための治療法、さらには予防法を必死で模索します。いくつかヒントになる事実がありました。遠洋の航海中は脚気患者が続出するものの外国の港にしばらく停泊しているあいだは罹患するものが目に見えて減る。高木自身が英国への留学中に見たかぎりでは、英国海軍に脚気患者は皆無だった。それらの事実から高木は、軍隊で支給される食事が白米中心であることが原因ではないか、麦飯あるいはパン食に替えたらどうだろうかと考えるようになります。 明治初期に創設されたころの軍隊の食事は、「ひとり1日6合の白米の支給」がひとつの売りでした。地方の豊かとは言いがたい村で育った若者にとっては、毎日白い米飯が6合も食べられるというのはそれだけでも魅力でした。しかも副菜はいくばくかの現金がわたされて各自その金で調達することになっていたため、(いまからすると隔世の感がありますが)若者たちはその金を残して貯め実家におくることを良しとしていました。すなわち白米はふんだんに食べるものの、副菜は極端にお粗末で結果として必要量のビタミンB1が摂取できるはずもありません。 高木兼寛は上司の許可をえて長期の航海に出る船員たちにパン食やビスケット、あるいは麦飯をまぜた食事を摂らせてみることにします。この生の海軍兵をつかった人体実験ともいえる調査の結果をまつ高木の不安と焦燥の姿を見ていると、結果はわかっていても思わず緊張しながら吉報が届くのを待ってしまいます。 メルカリで購入した『白い航跡』 『白い航跡』は上下巻ともAmazonの中古本で安いものは各1円+送料で売られています。メルカリであれば状態のよいものが上下巻・送料出品者負担で6~800円といったところです。よほど人気がないからそれほど安いのかというとそうではなく、中古本市場は人気があってたくさん販売されたものは読後にたくさん売りに出されるため値段が下がります。 森鴎外『舞姫』 『舞姫』は森林太郎自身のドイツ留学の体験をもとに書かれたもののようですが、私小説かというと、さてどうなのでしょう。 森林太郎は現在の島根県の津和野藩につかえる典医の長男として生まれます。森家には代々男子が生まれなかったようで、祖父も父も婿養子として森家を継いでいます。それゆえ久々の男子誕生に森家は沸き立ち、幼いころから神童の片りんを見せはじめるこの直系の跡取りにおおいに期待を寄せたということです。というのは表向きで、林太郎の曾祖父には3人の息子がいたものの、長男は早世、次男は西家へ養子入り(して西周にしあまねの父親になる)、そして三男が森家を継ぎます。ここから先はあとで紹介する山崎一穎かずひで『森鴎外 国家と作家の狭間で』によりますが、この三男・亮良あきよし?が典医をつとめていたとき、森家家伝の胃腸薬の需要が多すぎて生産が追いつかず原料をかえていわゆる偽装薬品を供給したようなのです。西周の記述するところでは「故アリ家断絶ス」ということで、どうやら森家は藩から蟄居を命じられ亮良は山口へ出奔してしまいます。その後曾祖父は娘に婿養子をとり(この人が林太郎の祖父)なんとか家系を存続させるのですが、藩からは減封されあきらかに森家は衰退してしまいます。 それゆえ森家一同の林太郎に託す再興の思いは並大抵ではなく、これがつねに重圧になっていたことは容易に想像できます。たとえば『舞姫』の主人公・太田豊太郎のつねに陰のある憂鬱そうな姿にそれは反映されています。林太郎は文字通り神童でした。東京医学校(現在の東京大学医学部)予科に年齢を2歳上に偽って入学し19歳で卒業、主席ではなく8番席次ではあるものの他の卒業生がみな5~7歳年長であることを考えると、恐るべき秀才といえます。しかし当の林太郎は主席で卒業できなかったことに内心忸怩たる思いがあったようで、というのも首席で卒業すると文部省派遣の官費留学生としてドイツへ留学できる、それを夢見ていたようです。運が良いというべきでしょう、進路の定まらない今でいうところのプー太郎のようなリン太郎に、東京医学校の同期生・小池正直から陸軍省へ入らないかと誘いがあります。林太郎としては役人にも軍人にもなる気はなかったようなのですが、周りからの熱心な勧めもあって卒業後半年ほどで入省します。そこからはやはり大秀才です、衛生制度に関する調査にかかわるかたわら衛生学をまなび、2年後にはドイツ陸軍の衛生制度を調べるためにドイツ留学を拝命することになります。 林太郎はこのドイツ留学中にドイツ人女性との恋におちることになるのですが、『舞姫』のなかでは主人公の豊太郎が貧しい踊り子を援けたことから恋仲になり、やがて踊り子との生活に安らぎをおぼえ(留学生の立場としては)自堕落な生活に埋没しついには官費の支給を打ち切られ、しだいに奈落に落ちてゆきます。現実の林太郎はおおいに成果をあげて留学生活を終え帰国しますが、そのあとを追うように恋仲になったドイツ人女性が日本へとやってきます。陸軍省としては将来有望な、森家としては一族再興の希望の星ともいえる森林太郎を、異国の女性が異国から追いかけてきたなど言語道断と思ったのでしょうか、ドイツ人女性は一ヶ月の滞在で(おそらく林太郎に会うこともなく)帰国します。 『舞姫』では奈落に落ちかける豊太郎に友人・相沢が手を差しのべ、その並外れた語学力を活かして一気に栄達の道が開かれることになります。ところが踊り子はそのとき妊娠しており、豊太郎は栄達の道をえらんで帰国するか踊り子との恋をつらぬいてドイツに留まるかの板挟みになります。『舞姫』は悲恋の物語ではありません。豊太郎はなんだかんだといいながら結局は栄達の道すなわち踊り子を捨てる決心をします。しかも正気を失ってしまい会話もままならない踊り子に対して、相沢の手を借りて無事出産できるようにとその費用と当面の生活費をおいて日本へと去ります。そして最後の一文はこうです「嗚呼、相沢謙吉がごとき良友は世にまた得難かるべし。されど我が脳裡に一点の彼を憎むこころ今日までも残れりけり。」 津和野にのこる鴎外が10歳まですごした生家 霊亀山上の津和野城址から津和野の町を見わたす 坂内正『鴎外最大の悲劇』 その創設当初から日本陸軍と海軍との不仲は顕著でした。倒幕から明治維新へと日本を新しい時代に導いていった中心的存在といえば、薩摩、長州、土佐、肥前の4藩ですが、それぞれの藩がどれだけ多くの血を流したかにくわえ、財力とそれにともなう軍事力の差からまず陸軍は旧長州藩士と旧薩摩藩士が中心となって組織されます。ところが西郷隆盛をかつぎあげた薩摩藩士が袂たもとをわかち結果として西南の役での敗北、隆盛は自決し多くの人材が失われました。ここで陸軍を実質的に掌握するのは旧長州藩ということになります。一方の海軍ですが、旧長州藩は陸軍中心でその海軍力は微々たるものであったため海軍は旧薩摩藩の独壇場でした。とはいっても創設当初の陸軍と海軍の規模の差には隔絶の差があり、日清戦争当時の総軍人数約20万人、うち海軍2~3万人、日露戦争当時の総軍人数約100万人、うち海軍3~4万人、どうやら旧長州藩中心の陸軍ははなから旧薩摩藩中心の海軍を対等とは見ておらず、陸軍の支部支局どころか付け足し程度の認識だったのではないでしょうか。 そのような歪みのある関係の中で、海軍医の高木兼寛が軍部が支給する白米中心の食事にこそ脚気の原因があると声高に発表したのですから陸軍としては黙ってはおれません。高木のいうことは突き詰めていうと「白米中心の食事が悪い、白米中心の食事はやめるべきだ」ということになり、「ひとり1日6合の白米」を標榜してきた軍部を否定し、「ひとり1日6合の白米」にあこがれて入隊する若者たちにとっては梯子をはずされるも同然のことです。 さらにこの問題を複雑かつ深刻にしたのは、海軍がイギリス式であったのに対して、陸軍はドイツ式であったこと。海軍は医学もイギリス流を取り入れ、その特徴は実践(予防と治療)にありました。それだからこそ高木は脚気の症状の出るか出ないかだけで予防法を見つけえたのですが、陸軍はというと医学もドイツ流、基礎医学の研究を重視し、脚気についてもまずその原因を究明することが喫緊の課題とされていました。当時もっとも注目されていたのは細菌学で、脚気も伝染病であろうと推察され先ずは病原菌を見つけ出せが合言葉のようなものでした。当時の医学や衛生学はビタミンの存在もしらず栄養価が高いか低いかだけを物差しにするレベルであり、しかも陸軍からの一方的な軽視があれば高木の主張が認められるはずがありません。ここで森林太郎が陸軍を代表して海軍の高木を真っ向から批判し、さらに「ローストビーフ好きのイギリスかぶれ」と侮蔑したとされていますが、ふたりの経歴を年代とともに見比べるうちに疑問がわいてきます。高木は明治15年(1882)に海軍医務局副長に就いてから脚気問題に取り組みはじめ、翌年海軍医務局長就任をへて明治18年(1885)に海軍軍医総監(海軍軍医のトップ)に就くのと前後して白米食の脚気原因説を発表しています。一方の林太郎はというと、ドイツ留学から帰国したのが明治21年(1888)26歳のとき、これでいくと陸軍のペーペー森林太郎は、海軍のトップに向かって昂然とその研究成果を批判し、しかもローストビーフがなんちゃらと誹謗中傷したことになり、実際の場面を想像しようにも無理があります。やはりその背後には、やがて陸軍の軍医総監に就く石黒忠悳ただのりの影を見ざる得ません。評論『鴎外最大の悲劇』はドイツ文学者である坂内正氏によって書かれた、森鴎外を非難することに全精力をかたむけたかのような、力作というよりも力みすぎた作品です。たしかに資料をよくあつめ精読してはおられます。しかし文章全体があまりに粘着質で、批評ではなくあたまから批難、さらに論難から糾弾へとひとりで盛り上がり、言葉尻をとらえての揚げ足取り、憶測で皮肉り、皮肉ることで自分の中で憶測が確信にかわるのか、はては誹謗、中傷、雑言など個人的な恨みでもあるのかと読んでいて不快になってきます。 戦艦三笠と東郷平八郎の像... 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山さん

【山形市 2025.5.23】南北朝時代、足利尊氏とおなじ清和源氏のながれをくむ斯波某が北朝方の奥州管領かんれいとしてこの地に入ったのか、その斯波某が南朝方の某氏をしりぞけかわってこの地をおさめることになり結果として奥州管領となったのか。そこのところはよくわからないのですが、ともかく斯波某がここに山形城の原型となる城をきずいて統治の拠点とした、というのが山形城の歴史のはじまりのようです。 信長に代表される織田家が勃興し支配した尾張国を室町時代に統治していたのも斯波氏ですが、それぞれ尾張斯波氏、出羽斯波氏のように区別されています。出羽斯波氏はやがて最上と名乗るようになります。ということは、南北朝時代から室町、戦国時代をへて江戸時代初期にいたるまで戦乱の下剋上の時代にいちども領主の家筋がかわることがなかった、稀有な例といえます。戦国時代に、たとえば尾張斯波氏が織田氏に尾張国を乗っ取られたように、なぜ出羽国は成り上がり大名に取って代わられなかったかといえば、もっとも多難な時代に最上家に義光よしあきがうまれてきたからと言っても過言ではないでしょう。そのすぐれた武力と政治感覚で、ときには伊達政宗の爪牙そうがをかわし、ときには上杉家の直江兼続の猛攻を耐えぬき、家康とは昵懇の仲になり57万石を領して初代出羽藩主となり、藩の統治においては善政をしき明君として民からも慕われていたようです。 山形城 水堀... Read More | Share it now!

城郭・史跡,福島

【福島県・二本松市 2025.5.22】福島県のほぼ中央に位置する猪苗代湖からすこし北東寄りに二本松城はあります。室町時代に奥州管領かんれいに任ぜられた畠山某がこの地に居を構えたのが始まりで、のちに地名が二本松、城主も二本松と改名します。ただし城は近年まで霞ヶ城と呼ばれていたようです。霞が城の歴史をなぞれば、福島県下の多くの城がそうであるように伊達政宗の飛躍でいったんは伊達氏に支配され、その後はおもに豊臣氏と徳川氏の天下をかけた駆け引きと戦いの結果として蒲生氏、上杉氏、加藤氏と目まぐるしく城主がかわり、やっと江戸時代初期に丹羽氏が転封されて落ち着き城も大改修されます。いまのこる石垣などの遺構はすべて丹羽氏の時代のものです。 とは言え、二本松城が歴史に記録される最たる出来事といえば戊辰戦争の後半にあたる会津戦争、そのなかでも激戦のひとつとされる二本松の戦いでしょう。頑強に抵抗する旧幕府軍の中心的存在である会津藩を掃討すべく、長州藩と薩摩藩を核とした新政府軍は奥州へと軍をすすめます。まず目標となったのが白河城(白河小峰城... Read More | Share it now!

城郭・史跡,福島

【福島県・会津美里町 2025.5.21】向羽黒山むかいはぐろやま城は戦国時代に伊達政宗と当地で覇権を争った蘆名あしな氏により築城されています。蘆名氏の先祖は相模の三浦氏、源家にしたがって平家討伐や奥州合戦で戦功をあげ、鎌倉幕府内で将軍家(源氏)の重臣となります。その後会津の地に領土を与えられ、蘆名と名乗って領土をひろげてゆき、黒川城(いまの会津若松城のもとになる城)を拠点として統治に励みます。それから20年ほどのち、蘆名氏は黒川城の南西6㎞、向羽黒山(岩崎山)に新たな城を築きはじめます。一説では、黒川城が政務をおこなったり人と接見したりする公的な城であり、向羽黒山城は住まうことを目的とした私的な城であったとも言われています。たしかに6㎞の距離であれば、移動は容易であったはず。 その後蘆名氏は伊達政宗に敗れて滅亡するものの、伊達氏がこの向羽黒山城を占有して使用した記録はなく、さらに後に蒲生氏郷、つづいて上杉景勝が自身の統治時代に支城として使っていたようですが、上杉氏が関ケ原合戦にやぶれて米沢へ移封されてからは廃城になったようです。 二曲輪(二の丸) 現地の案内板より抜粋 現地には縄張図も掲載されていましたが、あまりにも細かくて読み解くのが大変すぎるので、簡単な案内図をアップします。まず二曲輪そばの駐車場に車を停め、さきに二曲輪の(案内図で)下あたりを歩きました。つぎに徒歩で移動し、図にも描かれている細道を一曲輪まで上がりました。 山城には誰もいまいと思いきや、駐車場に数台の車、二曲輪は城祭りの準備中でした 二曲輪から見わたす 二曲輪をはなれ山中に入ってゆきます 土塁と堀、堀切 これは虎口と見るべきか? 幾重にも連なる土塁跡 行けども行けども、 土塁、堀切、 そして曲輪がつづきます ネットで調べると、向羽黒山城の規模は、東西1.4km、南北1.5km、面積は50haで東京ドーム約11個分(AIによる回答)ということで、到底すべてを見てまわることはできません。この辺りで引き返すことにしました。 一曲輪 虎口 堀跡 堀跡 上へ上へとあがって行く 本丸に相当する一曲輪が見えてきました 一曲輪 一曲輪から切岸下をのぞいてみる 上杉氏は会津の地へ入封後、この城の重要性にすぐに着目し、神指こうざし城の築城にかかるまえに2年の歳月をかけて向羽黒山城の大改修をしたようです。ということは現在目にする向羽黒山城は蘆名氏がというよりも、上杉氏がつくった城というべきかもしれません。その事実をふまえてあらためて見ると、たしかに越後の上杉氏の居城であった春日山城を彷彿とさせるものがあります。 ※なお一部石垣が残っているとのことでしたが、見当たりませんでした。 【アクセス】車にて【満足度】★★★★☆ ... Read More | Share it now!

城郭・史跡,福島

【福島県・会津若松市 2025.5.20】会津若松城の歴史を時系列で記します。南北朝時代に蘆名あしな直盛が当地に館を築き、その後16世紀末まで蘆名氏が黒川城として統治。1589年、伊達政宗が蘆名氏を攻めて滅ぼし、黒川城を占有、米沢城から本拠を移す。しかし豊臣秀吉の東征にともないその下に臣従することになり、黒川城を明け渡す。1592年、秀吉の命で蒲生氏郷が、伊達政宗だけでなく、江戸へ転封となった徳川家康を背後から牽制する意味で、42万石の知行を与えられ黒川城に入城。氏郷はまもなく92万石に加増され、当地名を会津と改めるとともに見代にふさわしい堅牢で豪壮な城に改修。1598年、氏郷の急死後、嫡男の秀行があとを継ぐが器量不足のため家臣間の深刻なお家騒動をまねき、ついには宇都宮へ大幅な減封とともに移される。そのあとに会津に転封されるのが、上杉景勝とその執政である直江兼続です。 上杉景勝が会津への転封の命をうけて間もなく秀吉は死去します。晩年の秀吉は豊臣政権を永続させること、そのためには跡取りの秀頼を家臣たちが盛り立ててくれることを妄執にとりつかれたかのように念じつづけ、それゆえにこそ徳川家康の存在に怯え続けていたのですから、この上杉家の会津転封は秀吉にとってはなにがなんでもという思いであり、同時に藁わらにもすがる思いだったのでしょう。 会津若松城 本丸の石垣と堀 北出丸大手門 北出丸に設置された城郭案内図より抜粋 上杉謙信以来、上杉家では「義」をなによりも重んじてきました。謙信の甥であり養子となってその薫陶をうけて育った景勝もそうですが、その景勝の近習として育った直江兼続の存在も見逃せません。義×義=義のかたまり、のようなこのコンビならば、秀吉亡きあと着々と地歩をかため政権を奪おうとする家康の専横的行動を看過することはできるはずがありません。※昨今は家康を弁護する解釈が取りざたされてはいますが、「義のかたまり」コンビの目には、家康は悪辣なタヌキオヤジとしか映らなかったことでしょう。 天守閣 太鼓門を入る 5層の天守閣 景勝と兼続は会津の防備をかためるため、支城の整備、道路の拡張、橋の建設など軍事拡張につとめます。さらに慶長5年(1600年)会津若松城では立地の上で城郭の拡張がむずかしいと判断し、5kmほど北西の平地に本城を移すための工事をはじめます。これが完成すれば会津若松城の2倍の面積を誇るはずであった神指こうざし城です。 守城側が容易に石垣を昇り降りするための「武者走り」 鉄門と天守閣 鉄門から天守閣をみる 鉄門の石組 徳川家康は親豊臣派の武将たちに対してはつねに神経をとがらせ、些細なことでも難癖をつけてその力を削ぐための策略を巡らせていました。そんな家康が、上杉家の会津での軍事拡張を見逃すはずがありません。さっそく上杉家にたいしてなにゆえの軍事拡張なのかと詰問状が届けられます。さらには上洛して申し開きをするよう召喚状がとどきます。それに対して直江兼続があたかも相手を挑発するかのような返書を送ったとされています。これが俗にいう「直江状」であり、この返書をよんだ家康が激怒して会津征伐へと軍事行動をおこしたとされています。 この直江状に関する一連の騒動には諸説あります。いかにも真実に近いと思われるのは、もともと上杉家を排除するため会津征伐を実行したかった家康としては、上杉家が不遜な態度を取ったため懲らしめるために軍事行動にうつったと周囲に印象付けるよう、直江状が挑発的であったと過剰に喧伝したとするもの。 さらに信憑性がたかいのは、家康は直江状の内容には関係なく強引に上杉家の非をとがめ会津征伐に向かったのが史実で、江戸幕府成立後に家康の軍事行動を正当化するためこの時点で「直江状」を創作したとするもの。 本丸周囲の石垣上をあるく 石垣上から本丸と天守閣をみる 外側の水堀 広大な本丸曲輪越しに天守閣を遠望する... Read More | Share it now!

城郭・史跡,福島

【福島県・白河市 2025.5.19】かつての下野しもつけの国(いまの栃木県)から奥州(いまの東北地方)への入口にあたる場所、現在の福島県の南東部に白河小峰城はあります。ここは昔から交通の要衝で南北朝時代のころから砦や城が築かれていたようですが、その後秀吉の時代になって会津藩領となり蒲生氏、つづいて上杉氏が支配。さらに江戸時代になると、地理的な重要性が再認識されたのか白河藩として独立し丹羽長重(信長の宿老であった丹羽長秀の嫡男)が転封されてきて石垣で重装備された堅牢な城を築きます。 小峰城としての歴史であればそれだけの説明でも十分なのでしょうが、白河といえば幕末の戊辰ぼしん戦争における白河城の戦いがあまりにも有名で、これを抜きにして白河城を語ることはできません。(京都の)鳥羽・伏見の戦いに端を発した戊辰戦争は、旧幕府の長である徳川慶喜が江戸へ逃げたためそれを追うように新政府軍は東征を開始します。慶喜は江戸城をも開城し新政府軍にたいして恭順の意(すなわち降参)を示しますが、旧幕府軍の中には、たとえば新選組の首領・近藤勇のように徹底抗戦を唱えるものもいました。ここで弱腰の慶喜よりも声の大きな徹底抗戦派が旧幕府軍の主流となり、佐幕派の中心的存在である会津藩とそもそもはその会津藩にやとわれて佐幕的行動をつづけてきた新選組が中心になって、戊辰戦争の中で「東北戦争」とよばれる戦いに突入していきます。※はたして新選組がれっきとした佐幕思想をもって討幕派と戦い続けたのかは疑問で、八王子あたりの浪士集団が役職まであたえられ、れっきとした武士として生きられる自らの生きざまに陶酔して白刃を振り回しつづけたのではないか。そのあたりは疑問なのですが、ここでは主題からそれるので考察はまたの機会にします。 白河小峰城 駐車場に車を停めて、前方の案内板へ 案内板によると、このあたり一帯が二ノ丸跡車をとめた駐車場あたりが三ノ丸跡のようです 大堀跡... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,兵庫

【兵庫県・西宮神社 2025.5.8】きょうは、招福の神であり商売の神様でもある、恵比須さまを祀るえびす宮の総本山、西宮神社に参詣します。そもそも恵比須とはどのような由緒をもつ神様なのか。いわゆる七福神のなかで、唯一日本古来の神様です。(他は大黒天、弁財天、毘沙門天がインド由来、布袋、寿老人、福禄寿が中国由来)日本古来の神様であるなら記紀(古事記と日本書記)に記述があるはずですが、たしかに日本書紀の国生みの話のなかで1つではなく数度にわけて書いてあります。それぞれ表現は違うのですが、すべてを総合すると、「伊弉諾尊いざなぎのみことと伊弉冉尊いざなみのみことが日の神と月の神を産んだあとに生まれたのは蛭子(ひるこ:蛭ひるのように手足のない子、あるいは不自由で3歳になっても脚が立たなかったとも)でした。そのためイザナギ、イザナミは古事記によると「出来がわるい」と葦の船にのせて海へ流してしまいます。なんとも残酷というか可哀そうな話なのですが、この流された蛭子の運命はこれで尽きたわけではありません。ここから先の話は、記紀をはなれます、出典はわかりません... Read More | Share it now!