城郭・史跡,佐賀

【佐賀県・唐津市 2025.7.11】秀吉は木下藤吉郎を名乗っていたころは、明るいキャラクターで好漢といって良いと思います。そこから出世して、羽柴秀吉を名乗るころからずいぶん狡猾な顔が見えはじめますが、それでも成り上がる姿とあわせて見れば英傑と評価できます。ところが天下統一をなしとげ、豊臣秀吉を名乗りはじめたときから理解しがたい行動が目立ちはじめます。欲と見栄に毒されたのだろうでは説明のできない、正常な判断力がうしなわれついに狂気にとりつかれたのか。狂気とするなら、その最たるものが朝鮮出兵かもしれません。 秀吉の外征(俗にいう唐入り:当時の中国は明の時代ですが、通称として唐とよんでいた)といえば朝鮮出兵ということになりますが、もともとは朝鮮を切りしたがえて続いて明に侵攻するというのではなく、秀吉の意識のなかではどうやら端から朝鮮が日本に対して反抗するはずがないと決めつけていたようです。そこで、明(中国大陸)を征圧するための軍をすすめる上で朝鮮半島を通るゆえ「征明嚮導せいみんきょうどう(明を征圧に向かうときにはその道案内をしろ)」と秀吉は一方的に命じます。朝鮮王国は公的にも明に対して臣従しています、明国の保護下にあるとも言えます。一方日本に対してはなんら主従関係はありません。秀吉の使者はことを荒立てないよう「仮途入明かとにゅうみん(明に入るときには道を貸してくれ)」と表現をかえて要請しますが、朝鮮王国の抱く不快感は警戒感へとかわってゆきます。 名護屋城 大手口前に入城口があります。入城料は無料ですが、遺跡保存のための協力金として一人100円を任意で払うとここにアップしたガイドマップをもらえます。 協力金は別にして、この地図のためだけでも100円は払うべきです。 大手口から東出丸へ 大手口を通り抜け、 登城坂をのぼる... Read More | Share it now!

城郭・史跡,佐賀

【佐賀県・三養基郡基山町みやきぐんきやまちょう 2025.7.10】基肄城きいじょうについては基山町のHPに簡潔に要約された説明がありましたので、抜粋して添付させていただきます。『基肄城跡は、今から1,360年前の天智4年(665年)に大野城跡(福岡県)とともに築かれた日本最古の本格的な山城で、構造上の特徴から「朝鮮式山城」と呼ばれています。 天智2年(663年)、唐・新羅の連合軍に滅ぼされた百済の再建を支援するため、韓半島に出兵した倭(当時の日本)は、白村江の戦いで大敗します。その後、大宰府を中心としたこの地一体の防衛する目的で、この基肄城が築城されました。 自然地形がうまく利用されており、基山(きざん:標高約405m)とその東峰(標高327m)にかけて谷を囲み、約4kmの土塁・石塁を巡らして城壁としています。尾根沿いには土を盛りあげた土塁を、谷部には石を積んだ石塁を築いて塞いでおり、城壁の途中には、4ヵ所(推定を含む)の城門が備えられています。』 それでは現地を歩きながら何点か補足してゆきます。 基肄城 南門跡付近にあった案内図より抜粋 同じく、よりリアルな案内図 南門から北へあがって東北門へ。丸尾礎石群、展望台を経由して基山山頂へ向かいます。 土塁線沿いに一周すると3時間くらいだそうです。普段なら歩くのですが、あまりにも暑いので短縮します。 「基肄城」の名の由来ですが、『肥前風土記』に記録されるところでは、むかし景行天皇がこの地で行宮あんぐうしたさいに霧が立ち込めていたため「彼の国は霧の国と謂うべし」と告げた、その霧に由来するとの説もあるようですが、そう聞かされてもあまりピンときません。よくわからない、ということで片づけさせてください。 南門跡 南門をかためる石垣最下部に複数の排水路がみられる 城内の雨水などを排出する水路と水門 東北門跡 南門から谷沿いを20分ほどあるいて東北門につきました。手前までは作業車が走れるぐらいの道で、楽に歩けます。 丸尾礎石群 ほぼ山登り、または山歩き 丸尾礎石群 丸尾南礎石群有事のさいにそなえた倉庫群と考えられている 丸尾西礎石群建物の大きさは大半が3✕5間(1間=1.8m)と予想 展望所 山中からひょっこり開けた場所へ 北帝方向をのぞむここを北帝門まで歩くつもりでしたが、あまりにも暑いので中止、眺めるにとどめました。 南の基山にむかって歩きます 前方の方形が基山山頂です。 大礎石群、基山 すこし下って大礎石群へ ここの建物は礎石の間隔から3✕10間と考えられる。ここだけが大きく、しかも全体を見わたす地にあたることから、特別な目的でつくられた建物であろうとのこと。作戦室とか集会所のようなところだったのではないでしょうか。 ところで基肄城跡全体では40の建物跡がみつかっています。 道をもどって基山山頂へ 基山山頂手前で振りかえる土塁を4つに割ってつくった堀切... Read More | Share it now!

神社・仏閣,福岡

【福岡県・太宰府市 2025.7.8】菅原道真というと今でこそ学問の神様として敬慕されていますが、そもそも太宰府天満宮は道真の怨霊を鎮めるために建てられた神社です。天満宮が創祀時から趣旨替えして道真を学問の神として祀るようになったのは、怨霊騒動もおさまったことだしいつまでも鎮魂でもあるまい(現実問題としてそれでは庶民にありがたがれることもなく参拝者が増えない)との判断にもとづいたものでしょう。それでは発端の怨霊騒動とはなんだったのだろうかと考えたとき、人々の(この場合は道真追い落としにかかわった天皇や公卿の)怨霊を恐れる意識があまりにも過敏なのではないか、言いかえると誰かが作為して道真の怨霊を誇張し、その怨霊を鎮めるための神社をつくらせ道真を神として祀らせたのではないかと疑心が沸き上がってきました。 菅原道真は平安時代前期に公卿ではあるもののそれほど高位ではない学者の家に生まれます。幼少期から漢詩を詠んでいたという逸話に象徴されるように並外れた文才にめぐまれ、かつ公卿のなかでは身分が高くなかったので周囲との権力争いにエネルギーを浪費することもなく勉学に精進したようで、文字どおりトントン拍子で出世してゆきます。さらに宇多うだ天皇から目をかけられたことでその出世のペースは加速します。宇多天皇が即位したときに朝廷を取り仕切っていたのは藤原基経(のちに道真追い落としの首謀者となる藤原時平の父)、この人物が曲者くせものだったわけではありませんが、この時点で5代にわたる天皇に仕えてきた実績から宇多天皇にとっては煙たい存在であったことは容易に想像されます。その基経が亡くなり順当に時平が表舞台に登場しますが、そのとき時平は21歳の若輩、宇多天皇が21歳の弱輩とかるく見たかどうかはわかりませんが、自分の思い通りの政まつりごとができると解放感は感じたことでしょう。ここから偏愛ともおもえるほどの道真の重用がはじまります。 たとえば寛平3年には、2月に蔵人頭くろうどとう、3月に式部少輔しきぶのしょう、4月に左中弁さちゅうべんを兼務とめまぐるしく役職を得て、ついに寛平5年には参議に叙せられます。参議とは「朝廷の政に参議する」という意味からきた役職で、大納言・中納言とあわせて「卿」に属し、それに対して公家の「公」は大臣を指しており、一口に公卿といっても公と卿ではまるで位階がちがいます。先に書いたように道真は公卿でも身分が低かったために権力争いには無縁でした。ところが公卿の「卿」に仲間入りしたことで、仲間だけでなく多数の敵に取り囲まれることになります。やがて道真は周囲からの誹謗中傷に悩まされ辞任を申し出たとの説もありますが、どちらにしても宇多天皇が手放すはずもありません。 太宰府天満宮へ 西鉄太宰府駅ホーム朱鳥居をイメージしている? こんなタイル張りの参道を歩き、柄は大宰府で出土した蓮華唐花模様 道すがら、梅のマンホールを見やりながら いくつ目だかの鳥居の前に着きます奥の門は延寿王院の山門... Read More | Share it now!

城郭・史跡,福岡

【福岡県 太宰府市 2025.7.8】大宰府というと、菅原道真と天満宮が当然のように思いだされるかもしれませんが、菅原道真が大宰府に左遷されたのは西暦でいうと901年、太宰府天満宮はその18年後に道真の墓のある場所に安楽寺天満宮として建立したのが始まりです。それにたいして大宰府は大和朝廷が九州を統括管理するためにつくった地方行政機関で、創始は7世紀後半ですから天神さんより2世紀以上も前ということになります。 道真の大宰府への左遷ですが、表向きは大宰権帥だざいのごんのそちという役職での赴任。元来大宰府での役職は大宰帥だざいのそちがトップではあるものの、この役職は形だけ(すなわち名誉職)であってナンバー2の大宰権帥が実務を取り仕切っていたという見解もあり、また大宰帥が実務をおこない大宰権帥は代役にすぎずたいていの場合は空席だったとの意見もあります。どちらにしても道真が与えられたのは完全な閑職、しかも役職に見合った報酬も与えられず日々の生活にも困窮したようです。 ところで12世紀に平家が急激に勢力をのばし一時的にせよ日本を支配下におきますが、その平家が急成長したのは平清盛が大宰府をみずからの管轄下に置いて貿易による富を独占したことが大きく関わっています。(このとき清盛がついた役職は大宰大弐だざいのだいに、大宰権帥よりひとつ下位になりますが時代が変わって役職のありかたにも変化があったのでしょうか)その清盛が宋との貿易の都合上、海沿いの博多を重視して都市機能すべてを移転したため、ここから大宰府は衰退の一途をたどることになります。 ※古代の行政機関としては「大宰府」と記し、現在の地名としては「太宰府」と記すのが通例のようです。そのため歴史上の遺構としては「大宰府」、太宰府市にある神社ということで「太宰府天満宮」としています。 水城みずき 大和朝廷が九州地方を統治するための政治拠点としてつくったのが筑紫大宰つくしのたいさい。そのころ朝鮮半島において百済が新羅と唐に蹂躙されていたため日本軍は救援に向かいますが、惨敗。百済は滅亡し、日本は朝鮮半島からの撤退を余儀なくされます。(これが白村江はくすきのえの戦い)この敗戦をうけ新羅と唐の進攻にそなえて周辺の防御機能を充実させ、さらに8世紀初頭に制定された大宝律令のもと、外交よりも天皇を中心にした中央集権国家設立のため内政に力をそそぐことになり、筑紫大宰をより拡充させ碁盤の目ように整った行政都市をつくり上げます。こうして筑紫大宰はおおきく生まれ変わって大宰府と呼ばれるようになります。また大宰府は九州の政治拠点というだけでなく、「西の都」と呼ばれます。 水城・東門跡付近水城とは堤(土塁)と濠をあわせた防御施設の総称です 中央の木立部分が本堤、右側が外堀跡、現在の車道が大宰府への道で、ここに東門があった 水城の内側堤の規模は基底部幅80m、高さ10m、長さ1.2km 水城の外側... Read More | Share it now!