【大阪府・豊能郡能勢町 2025.8.26】もう8月も終盤だというのに、いまだに大阪では猛暑日がつづいています。そんな状況下で、どこか山歩きに行けないものかと探してみました。京都も奈良も内陸になるゆえかさらに気温が高く、敬遠。神戸あたりはすこし気温が下がるものの、海寄りの山は岩盤質で樹林がすくなく木陰がないので夏場に山歩きは、不向き。もうすこし内陸にはいると京都や奈良と同じように気温は大阪よりも高く、パス。滋賀県の比良山系は琵琶湖がたくわえる豊富な水の影響か風が吹けば体感気温はぐっと涼しく感じられるのですが、山登り自体がきつくて今は体調が万全でないゆえ、断念。 では諦めるのかというと、長年関西一円を歩き回ってきた経験から、引出は他にもあります。大阪の最北端に位置する能勢町、ここは穴場です。なにが穴場なのかというと、大阪にありながら涼しい。天気予報で確認すると、今日の大阪市内の最高気温が36度、能勢町の最高気温は33度、早朝に家を出てめざす能勢妙見山を8時頃から登りはじめ正午前後に下山してしまえば、楽勝。であることを期待して、いざ出発。※正確には能勢妙見山は山頂付近にある寺院の名称であり、山の名としては「能勢」がつかない、「妙見山」と呼ぶべきようです。 初谷渓谷コース 妙見口駅近くにあった案内板より抜粋 前回2年前に歩いたときには、③の上杉尾根コースを登り、➃の初谷渓谷コースを下りました。登り下りともに大変良かった記憶があります。そこで今回は逆に初谷渓谷コースを登り、どのルートで下るかは山頂に着いてから考えることにします。先に結末を言いますと、山頂に着いた時点では➀の大堂越コースを下るつもりだったのですが、ふと気が変わって手前の新滝道コース(地図にはない➀と➂の中間あたり、リフト・ケーブル跡沿いにある道)をくだり、これが失敗でした。 妙見口駅から田園の中を、初谷渓谷コース登山口へ ここが入口です 渓流沿いの林道を歩きます 路面は自然の土、樹林で木陰、かたわらを渓流この3つがそろえば、暑さはぐっとやわらぎます。 なんとも涼し気なところに出てきました。実際にこのあたりは風が吹き抜けて快適でした 途中にあった、石で作った卵と牙のオブジェよくわからんので、写真だけ撮っておきます 渓流を渡渉する ここから渓流渡渉がはじまる 途中から渓流の渡渉をくりかえすことになります。前回この道を下った時には、渡渉した記憶はあるもののそれほど大変だった思いはないのですが、今回は昨夜の山間部での大雨の影響でしょうか、水量が多くてけっこう難儀しました。 十数回の渡渉があります 渓流を安全にわたるコツがあります。足元を濡らさないように岩の上を歩くと、足をすべらせて渓流に尻もちをついてずぶ濡れ、あるいはケガをすることもあります。このさい足元が濡れることは気にせず、水中の歩きやすいところに足を突っ込むことです。濡れても夏場ならすぐに乾きます。それでは冬場ならどうするか? 冬場に渓流渡渉はしない、それに限ります。 山頂の能勢妙見山(宮)へ このあたりから山道らしくなる 道が崩落したところもあるが、危険というほどでもない 緊急連絡する際の位置をしらせる番号札これが道標の代わりになる ここまでくると山頂も近い さいごに急坂をのぼる 能勢妙見山(宮)の鳥居寺でありながら鳥居があるのは、神仏習合のなごり 本殿 この寺院の正式名称は、「無漏山眞如寺むろさん しんにょじ... Read More | Share it now!
赤目四十八滝を歩いて、写真を撮って、昼寝もした
【三重県・名張市 2025.8.21】8月も下旬になったというのに相変わらず猛暑日がつづいており、山登りであれ寺社巡りであれ、この点天下を歩くと考えただけでうんざりしてしまいます。そこで思いついたのが、渓谷歩きというか滝めぐりというか。大阪市内から近鉄大阪線で東へすすみ奈良県を通り抜けるとすぐ、三重県の名張市にいたります。あらかじめ天気予報で確認したところ大阪市内と名張市のこの日の最高気温は同じ36度。午前10時に電車がついた赤目口駅の気温は33度。この条件下であれば、とうてい散策を楽しむ気にはなれません。 駅前でバスに乗り換え、山中へ走ること15分。終点の赤目滝入口バス停は赤目口駅と標高ではさほど変わりないので気温自体は下がっていないはずですが、まわりの圧倒的な緑の量の差でしょうか体感気温はかくじつに2、3度低いように感じます。 赤目四十八滝 ここが入口... Read More | Share it now!
平群には、なぜ神はたくさんいるのに仏は少ないのか
【奈良県・生駒郡平群町 2025.8.16】大阪府(西側)と奈良県(東側)の境界をなすように北から南へと伸びているのが生駒山系。その生駒山系のほぼ南端にあるのが中腹に朝護孫子寺を擁する信貴山。生駒山系は大阪側では傾斜がきびしく、奈良側では緩やかという特徴がありますが、信貴山から北東への緩やかな山腹と、そこからひろがる平地部を合わせた一帯の土地を平群(へぐり)とよびます。 平群の地名については、古代に大和の中心であった飛鳥や桜井からみて奈良盆地(大和国の領域)とは対角の北西にあることから「辺の国:へのくに」とよばれ「へぐり」に変化したという説もあるようですが、それでは「平群」という特異な文字があてられた理由がわかりません。やはり当地の豪族が平群氏を名乗っていたゆえとするのが妥当でしょう。 さて平群の地ですが、googleマップで見ていると、神様はたくさんいるのに仏様がずいぶん少ないことに気づきます。意味不明な表現になりました。神が祀られるのが神社、仏が祀られるのが仏寺ですから、平群には神社はたくさんあるけれど、仏寺は少ないということです。もちろん理由はあります。さて今日も大阪、奈良ともに猛暑日予報のため、早朝に家を出て午前中に平群一帯を歩いてみることにします。 石床いわとこ神社、消渇しょうかち神社 石床神社(元の地)横10m、高さ6mの巨岩が御神体ここには拝殿も祠もない この巨岩は、陰石(女性器)と見なされている 古代において信仰とは自然の中の万物に神が降臨する、あるいは神が宿ると考え、その自然を崇拝することで神に感謝することでした。たとえば岩がその対象(ご神体)になる場合は磐座いわくら信仰とよばれ、そもそもは岩に向かって手を合わせるだけのものだったのでしょう。そののち鳥居がたてられるようになり、さらに岩の上や脇に祠がたてられ、なかには前面に拝殿が建てられるようになりますが、それは自然信仰が神道しんとうとして確立されて以後のことです。 現在の石床神社 300mほど離れた地に、現在の石床神社があります。拝殿と本殿がつくられてはいるものの、これがなんとも貧相で、なぜここに勧請(神の霊をうつす)したのか理解できません。 消渇神社 石床神社のすぐ上に消渇神社があります。江戸時代には女性の病気(おもに性病)を治すといわれ、遠方(の遊郭など)からも多くの参拝者があったようです。なぜ女性の性病なのかは、石床神社のご神体が陰石であることから容易に想像できます。 地蔵、西宮古墳 路傍の岩に彫られた地蔵 地蔵は地蔵菩薩ですから本来は仏様ということになりますが... Read More | Share it now!
アマテラスの祖神をまつる多賀大社へ参る
【滋賀県・犬上郡多賀町 2025.8.13】「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀のお子じゃもの」といわれる滋賀県にある多賀大社。なぜかといえば、伊勢神宮内宮にまつられる天照大御神アマテラスオオミカミは、この多賀大社にまつられる伊邪那岐大神イザナギノオオカミ、伊邪那美大神イザナミノオオカミの子であるゆえです。 言い方をかえると、イザナギとイザナミはアマテラスの祖神おやがみということになるのですが、祖神は祖神であって「親神」ではありません。古事記によると、男神であるイザナギは先に亡くなった妻である女神のイザナミに会うために黄泉よみの国へむかいます。そこでイザナギが見たのは、腐敗して蛆がわいたイザナミの醜い姿。イザナギは恐れおののいて黄泉の国から逃げかえり、その穢れけがれをおとすため水で身体を清めて禊みそぎをします。その禊をするなかで、左の眼を洗った時にあられたのがアマテラス、右の眼を洗った時にあられたのが月読命ツクヨミノミコト、鼻を洗った時にあらわれたのが素戔嗚尊スサノオノミコトということです。(このあたりの話は、山さんブログ『なぜ熊野三山では不吉なカラスが神使なのか』 https://yamasan-aruku.com/aruku-362/ に詳しく書いていますので、ここでは端折りました) 左の眼を洗ったらアマテラスが生まれたというのも奇異な話ですが、ここではそれはさておき、イザナギとイザナミは夫婦であるものの、この話を読むかぎり、アマテラスはイザナギから生まれたのであって、イザナミはその生誕にまったく関わっていないことがわかります。しかも具合が悪いことに(?)イザナギは男神です。男親から子が生まれるとはなんでやねん?と誰しもが思うはずです。このように神話の世界ではそれぞれの神々を「親」と「子」として見ると、不可解(あるいは不合理)な点が多々出てきます。しかし「アホくさ」で片づけてはいけません、なにしろ私たち日本人の先祖(とされている)ですから敬わねばなりません。そこで教養のある先達が「親おや」神ではありません、「祖はじめ」神です、と断りを入れた、のではないかと私は勝手に考えている次第です。 ※なお天理教では、「人間を創造し育てられた神」のことを「親神様」と呼ぶそうです。 鳥居から太閤橋 多賀大社前駅をでると目の前に大鳥居 多賀大社が人気をあつめたのは、ひとつにはこのあたりが交通の要衝であり、宿場町が形成されたこともあります。 現地にあった案内板より抜粋 また京の都と北陸あるいは東国をむすぶ地理的に重要な位置にあり、むかしから有力な武将が近辺に居城をかまえていました。そのため佐々木道誉(勝楽寺城)、浅井長政(小谷城)、織田信長(安土城)、羽柴秀吉(長浜城)、さらに井伊家(彦根城)の関係からか徳川家等々が多額の寄進をした記録があります。 太閤橋... Read More | Share it now!