城郭・史跡,愛媛

【愛媛県・北宇和郡 2025.9.30】愛媛県南部(いわゆる南予)の中心都市である宇和島から東(内陸)へ15kmほど、高知県との県境近くに河後森かごもり城はあります。昔風にいえば、伊予国と土佐国の境。地図上で見れば、東を流れる広見川とその広見川に各々注ぎこむ鰯川が北、堀切川が南をかこむ防御面からは絶好の山上。 この河後森城ですが、歴史的には特筆するようなものはありません。長曾我部氏が四国制覇を目指していたころ、抗戦する城主を家臣の某氏が裏切り、いったんは長曾我部氏に下ったものの、次には四国平定に乗り出した秀吉の軍のまえに降伏。大きな力、次はさらに大きな力に圧迫されつづける戦国時代の典型的な城の歴史をたどったと言うことです。 興味深い出来事をしいてあげれば、藤堂高虎が宇和島城主だったときに、この河後森城の天守を解体して運び、宇和島城の月見櫓に移築したとのこと。しかしこれも「事実」として記しているものもあれば、「伝承」として片づけているものもあり、そもそも宇和島城に当該の月見櫓が残っていないのですから感慨にふけることもできません。 そんな河後森城ですが、現実に探索してみるとこれがなかなか面白い。と言うことで、ブログに残しておくことにしました。 河後森城 駐車場から奥へ進みます 谷間の道をあるく 現地にあった案内図より抜粋 いま案内図真ん中の「現在地」に居ます。この城の特徴は谷をかこむ... Read More | Share it now!

城郭・史跡,愛媛

【愛媛県・宇和島市 2025.9.30】戦国武将のなかで築城名人として知られるのは、藤堂高虎、加藤清正、黒田官兵衛(孝高)の3人です。その築城術において長けているところは各々異なり、誰が一番優れているかの判断は好みもあって決めがたいでしょうが、もっとも多くの城普請に携わりその才能を後世に多数遺したのは間違いなく藤堂高虎です。 藤堂高虎ははじめ浅井長政につかえていたようですが、浅井家が織田信長に滅ぼされたことから浮かばれぬ浪人さながらの境遇をへて、秀吉の弟・秀長にひろわれます。これが運命の出会いだったのか、まずは武人として頭角をあらわし、秀長の但馬攻めをへて、賤ヶ岳の戦いでも七本槍の七人に負けぬ戦功をあげています。さらに秀長が紀伊平定を進めるなかで、粉河寺こかわでら勢力を牽制するため猿岡山城(和歌山県・紀の川市)を築きます。これが高虎の最初の築城となります。(この猿岡山城はいまは公園として整備され当時の姿を思い浮かべるにも無理があります) その後秀長の紀伊平定が東へとすすむと、一揆をおさえるため(いまの三重県・熊野市に)赤木城を築きます。もちろん普請役は高虎。この城は大規模なものではありませんが、高虎の非凡な才能をうかがわせる傑作です。 赤木城をつくって一揆を平定した2年後に秀長が死去。高虎は秀吉・秀長の甥(一時期関白になった秀次の次弟)であり秀長の養子となっていた秀保ひでやすに仕えることになりますが、その秀保も夭逝。よほど律儀な性格なのか、高虎は出家して高野山に上がってしまいます。 宇和島城 長屋門から入る... Read More | Share it now!

城郭・史跡,愛媛

【愛媛県・松山市 2025.9.29】賤ヶ岳の七本槍と称された加藤姓の武将、といえば少しばかり歴史好きな方なら容易に加藤清正を思い浮かべるはずです。ところが加藤姓の武将がもう一人います、加藤嘉明よしあき。といってもこの武将の名をフルネームで覚えている方はさぞかし少ないのではないでしょうか。たしかに清正のことを知りたいと思って探せば、研究書、解説書、小説、コミックなどわんさかみつかります。一方の嘉明はというと、せいぜい近衛龍春氏の小説『加藤嘉明』くらいのもの。しかもこの小説には副題が付いていて「賤ヶ岳七本槍・知られざる勇将」-... Read More | Share it now!

山登り,大阪

【大阪府・河内長野市 2025.9.23】今日のぼる山は金剛山系にありながらまったく人気のない山です。その山名は根古峰ねこみね、と聞いても大阪在住の登山愛好家ですらほとんどの方が知らないでしょう。一日に平均3人登るとして年間1000人、そのうち990人の方はつまらん山だったとぼやき一月もすればそんな山に登ったことすら忘れるかもしれません。奈良県の二上山から大和葛木山をへて金剛山系へ、この人気の山々をつないであるくルートが関西の登山愛好家なら5回や10回は(あるいは人によっては百回以上も)あるいた経験のあるダイアモンドトレイル(以下、ダイトレ)です。そのダイトレを金剛山から岩湧山へと歩いていると、【根古峰山頂... Read More | Share it now!

城郭・史跡,香川

【香川県・東かがわ市 2025.9.17】東西に横長な香川県のずっと東の端、まもなく徳島県との県境をこえて鳴門海峡から淡路島に到るというあたりの、瀬戸内海に突きでた岬の山上に引田城はあります。なお「ひけたじょう」と読みます。「ひきた」と読めばマジシャンの引田天功、「ひいた」と読めば興ざめということで誰も訪ねてはくれなくなります。それでは歴史をざっと。そもそもは室町時代の守護職・山内氏の家臣である寒川氏の、そのまた家臣である四宮氏の居城でした。守護の家臣の家臣ですからそれほどの大物ではありません。すなわちさほど大物でもない人物の城だったわけで、そのまま終われば今の時代に国の史跡に指定される(続日本百名城に選定もされている)こともなかったでしょう。織田信長がこの世の現れなければ、おそらく最初に武士として天下統一を成し遂げたのは三好長慶であろうといわれています。その三好氏の出身地は徳島県(阿波)の三好市、三好郡あたりで、そこから讃岐へと勢力をのばしこの引田城も我が物とします。信長の出現で三好氏の勢力は畿内から一掃され、四国でも土佐の長曾我部氏の台頭でしだいに影が薄くなってゆきます。そんななかで本能寺の変により信長が横死。信長の死による時世の混乱に便乗して畿内へ攻めあがろうとした長曾我部氏を抑えるべく、秀吉は若い時から馬廻衆をつとめていた仙石秀久を差し向けます。仙石久秀は淡路島を攻めくだりこの引田城にかまえて果敢に戦いますが、そこは四国の虎の異名をもつ長曾我部元親のこと、力攻めに攻め立てたため仙石勢はたまらず城を捨てて敗走します。 この時点での引田城は石垣も石組もない、土塁と堀だけで防御された室町時代の山城のまんまだったものと思われます。秀吉は天下統一も大方なし終えたころ、信長の従兄弟でもあり重臣ともいえる生駒親正に讃岐一国をあたえます。引田城に石垣の防御が取り入れられたのはこの親正の時代のことと推定されます。 しかし石垣で守りを固めたもののその後は戦乱もなく、江戸時代に入ると一国一城令が出され、引田城は廃城となりしだいに朽ち果ててゆきます。 引田城・北曲輪から北二の丸 登城口近くの駐車場にあった案内図より抜粋 赤で記された【現在地】から北曲輪へ上がり、北二の丸へ、そこから時計回りに一周して東の丸、化粧池、天守台、本丸とみて、北二の丸へもどって元の駐車場へと下ることにします。 登城道というより、登山道と呼ぶ方がふさわしい? このあたりが北曲輪... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,城郭・史跡,香川

【香川県・高松市、坂出市 2025.9.17】7世紀、朝鮮半島でおこなわれた白村江の戦いにいたるまでの経緯を述べておきます。そのころ中国大陸において隋のあとに興った唐は、朝鮮半島のなかで自国と国境を接する高句麗に対してたびたび侵攻をくり返していました。朝鮮半島の南端にある新羅は、唐からの直接の脅威はないものの隣国の百済とは敵対関係にあり、しかも高句麗が倒された時には、つぎは唐の進攻がわが身に及ぶことは明らか。そこでみずから唐にすり寄り、冊封国(宗主国=唐にたいして臣下の礼をとって朝貢国となり、攻撃を受けないだけでなく他国との争乱のさいには援軍を要請する)の位置におさまります。そして唐が高句麗を征圧するのと前後して、新羅は唐に対して百済征討を要請します。 そのころ日本(倭国)は百済と友好関係をむすんでいました。百済に危険が迫っていることを知った朝廷内では、救済のため海をわたって軍を派遣することも検討されますが、唐の戦力を怖れてのことか、あるいは侮っていたのか積極派の案は却下。そうこうしているうちに唐と新羅の連合軍は百済全土を蹂躙してしまいます。さすがに倭国の朝廷も目が覚めたようで、さっそく船をととのえて朝鮮半島にむかいます。これが白村江の戦いにいたるまでの推移です。さて白村江の戦いで、倭国と百済(の敗残兵)の連合軍は、唐に大敗、惨敗、完敗。這う這うの体で逃げかえります。こうして朝鮮半島では高句麗と百済が滅亡し、新羅は唐の冊封国となっており、いまでいう東アジアにおいて唐に相対するのは倭国のみとなっていました。 屋島城 冒頭「つかみ」の部分が一見ムダな記述のように思えるかもしれませんが、いかに当時の日本(倭国)が唐と新羅の進攻を怖れていたかが念頭にないと、対馬から畿内にかけていまにのこる古代山城の築城理由が実感として理解できないと思います。またこのとき日本(倭国)へと逃避した多くの百済の人々がそのまま定住し、朝鮮の文化や技術をつたえた歴史も認識しておく必要があります。いままでに訪ねた古代山城としては、奈良県の高安城➀(遺構はわずか)、岡山県・総社市の鬼ノ城きのじょう➁、福岡県・太宰府近郊にある大野城➀、基肄きい城➀ --それぞれブログはあります。今回は香川県の瀬戸内海を見下ろす位置にある屋島城➀、城山城➁をたずねます。※古代山城は厳密には、日本書紀に唐や新羅からの進攻を防衛するため築城したと記録ののこる朝鮮式山城➀と、記録がなく遺構の発見・発掘によって古代山城と認定した神籠石式山城こうごいししきやまじろ➁にわけられます。なお朝鮮式山城とよばれる理由ですが、日本に定住した百済人から伝えられた当時の朝鮮の技術により築城されたゆえです。 前方に見えるのが屋島の特異な山容 そもそも屋島は「島」ではありません。一部(北嶺)が瀬戸内海にむかって突き出してはいますが、南嶺からは地続きで、南から北の海へとのびる台地状の丘陵と思ってください。 現地にあった案内板より抜粋 今回歩くのは、城跡がのこる南嶺だけです。地図の右下の屋嶋城城門まで麓から登り、北へすすんで談古嶺、西へ進み南へくだり、屋島寺に寄ったのち地図上の南嶺を一周して城門までもどります。 そこそこ自分の足で上がる観光客もいるのか、登り道は丸太階段で整えられています。 防御のための竪堀が2列、いわゆる畝状竪堀跡 まもなく、とはいっても結構しんどい登りの後、城門にたどり着きます。 古代城ですから、言うまでもなく石垣は修復したもの 城門上から 城門を俯瞰する崩落を防ぐためでしょうが、修復のやり過ぎ 談古嶺から瀬戸内海を遠望する 談古嶺から西進しながら瀬戸内海へと突きだす北嶺をのぞむ 新屋島水族館あたりから北嶺をのぞむいかにもテーブルマウンテンの異名どおり 西尾根から南嶺の山頂あたりをのぞむ山頂ちかく中央の土色部分が城門 のちの城でいうところの、本丸跡いまは集いの広場と名づけられた公園? 屋島寺 見てまわった感想は、なんと言えば良いのでしょうか。ここは山城を探索にくるのではなく、瀬戸内海の眺望を楽しみながらの山歩きを目的に訪ねることを断然おすすめします。 城山城 上から読んでも下から読んでも「しろやましろ」ではなく、「きやまじょう」と読みます。兵庫県たつの市にも漢字で書くとおなじ城山城があり、こちらは「きのやまじょう」と読ませています。読み方はどうあれどちらも神籠石式山城であり、「城山城」という安易なネーミングを重複して使っていることからも推測できるように、古代山城はずいぶんたくさん造られたようです。 車道脇に城跡へあがる山道がありました ホロソ石... Read More | Share it now!

神社・仏閣,奈良

【奈良市 2025.9.13】奈良時代、仏教をひろめるため聖武天皇の勅願で東大寺が建立されますが、そののち東大寺と対になるように称徳天皇の勅願により西大寺が創建されます。両寺の寺名からもわかるように平城京においては東と西に位置します。さて今日訪ねる寺は、西の西大寺の、その北にあります。寺名は秋篠寺あきしのでら。東大寺と西大寺がともに由緒の正しさが明らかのであるのに対して、秋篠寺の前身は地元の豪族・秋篠氏の氏寺ではなかったかと伝えられているもののはっきりしません。しかし記録としては、奈良時代の末期に光仁天皇の勅願により造営されたとあるようです。その意味では天皇の勅願寺ということになり、由緒には問題はないと言ってよいでしょう。 秋篠といえば、あたりまえのように今上きんじょう天皇(現在の天皇)の弟君である秋篠宮殿下(文仁親王)を思い浮かべることでしょう。ところで天皇家の人々には姓がありません。さらに細かく言うと、今上天皇の徳仁とか秋篠宮家の文仁は名ではなく「称号」というべきものです。文仁親王の結婚に際し、そのときの天皇(平成天皇、いまの上皇)から秋篠宮の宮号を賜って、秋篠宮文仁(宮号+称号)と呼ばれるようになったということです。(今上天皇は現天皇ゆえに宮号もなく、ただ称号の徳仁のみ) 秋篠へ 近鉄大和西大寺駅から秋篠寺までは徒歩20分ほど 地名や寺名が宮号に使われるのは珍しいことではありません。たとえば三笠宮は春日神社の背後にある御蓋山(みかさやま)から。桂宮は桂離宮のある桂村から。 秋篠寺南門手前にある八所御霊神社崇道天皇ほか八所(八つ)の御霊をまつる、もとは秋篠寺の守護社 秋篠寺の本堂には本尊の薬師如来ほか多数の仏像が祀られており、そのなかでも伎芸天ぎげいてんは、その優しい笑みと美しい立ち姿から一番人気といえます。文仁親王が結婚にさいして秋篠の宮号を賜ったことについて、その伎芸天の顔立ちが結婚される紀子さんに似ているので秋篠の号を希望したと語ったそうですが、これはあきらかにリップサービスに類するものでしょう。残念ながらというか可哀そうというか、天皇家の人々にはそのような、結婚相手の容姿がらみで宮号を選ぶ自由はありません。 南門から 秋篠寺・南門 南門から入って、 樹林と境内全体にひろがる緑苔三連休初日にもかかわらず人出もまばらで、 静謐の空間に身を置いていると、時の流れが止まったかのような錯覚を覚えます 天皇家の人々は法律上は日本国民ですが、戸籍がありません。日本国民の全員がもつ姓名もありません。日本国民としての権利(人権)がないので、選挙権も被選挙権もなく、日本国民としての自由を保障されていない(あるいは大幅に制約されている)ので、職業をえらぶ自由も、生活拠点を変える(引っ越し)自由も、好きなところへ旅行する自由もありません。天皇(および皇族)は、天照大御神あまてらすおおみかみを始祖とする神の系譜であり、戦後の「天皇の人間宣言」が発出されるまでは現人神あらひとがみ(人の姿でこの世に現れた神)とされてきました。ずいぶん右寄り思考の私ですら、(ブログにはしばしば天皇は現人神であると書いていますが)天皇が神様の系譜だなどとは信じていません。そもそもアマテラスであれ、スサノオであれ、オオクニヌシであれ、見方しだいではその生い立ちは笑止千万といえます。もともと日本人にとっての神様は「自然」でした。太陽の光であり、風であり、雨であり。その自然イコール神を崇拝するなかで、より拝む対象をはっきり具体化させるために御神体が生まれ(選ばれ)ました。それが富士山などの山であり、磐座いわくらとよばれる岩であり、霊木とよばれる巨樹であり。そこに神が降臨する、あるいは神霊が宿るとされました。それでは山や岩や巨木に降臨し宿る神とはいかなるものなのか。やがて神の姿をよりはっきり知りたいという欲求が生まれます。それは崇拝する対象をもっとくわしく知ることによって、より親しく崇めたい、拝みたいという希求がもとになっているのでしょう。古事記や日本書紀の神話に関する記述はなんともユーモラスで、(それゆえ見方次第では笑止千万となるのですが)対象が神様でありながら思わず親しみを感じてしまいます。日本の神様は八百万やおよろずといわれるように唯一神でないだけでなく、全知全能の絶対神でもありません。唯一神でもなく絶対神でもない、誰にとっても親しく身近に、むずかしい礼拝の言葉も必要なく、ただ手を合わせて頼ったり、すがったり、願ったり、慕ったり-... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,山登り,滋賀

【滋賀県・長浜市 2025.9.7】 今日歩きに行こうとしているのは、「山本山」という名の山です。大阪市内に居住する私のスマホで「山本山」と検索すると、「山本山 阪急うめだ本店」「山本山 阪神梅田本店」と出てきます。これは言うまでもなく、お茶やら海苔やらを製造販売するあの会社、その大阪での出店店舗になります。「山本山」、たしかに一風変わった山名です。「山本山 名の由来」で検索すると、(京都)宇治の山本村出身の山本〇〇さんが上京して、お茶などを扱う商売をはじめ... Read More | Share it now!

山登り,兵庫

【兵庫県・神戸市 2025.9.2】今日の大阪の最高気温は36度と相変わらずの猛暑日予報ですが、神戸はうらやましいことに33度。神戸を主体にすると、北に連なる六甲山系と、南に面する瀬戸内海、さらに南西にある淡路島、それらの位置関係が(神戸の気候にとっては)たいへんよく、風や潮流がバランスよく夏でも市内を冷やしてくれるみたいです。大阪はもちろん、周辺の西宮や明石にくらべても夏の気温はいつも低めです。もっとも神戸に住む知人がいうには、神戸も大阪も暑いのは同じだとのことですが。 それはさておき、六甲山系は東西30kmにわたって連なるため芦屋市、西宮市、宝塚市にも複数の登山口があります。今日は「周辺の市より3度も気温が低い」に惹かれて、神戸市灘区の阪急・六甲駅からスタート、やはり神戸市北区の神戸電鉄・谷上駅をゴールとします。 登山口へ 神戸護国神社にあった案内板より 阪急六甲駅で下車して市街地を西へあるき、神戸護国神社の角をまがって北(山方向)に向かいます。その護国神社に摩耶山登山案内があったのでアップします。(摩耶山も六甲山系の一部です)案内図右下の【現在地】からひたすら北へ、杣谷をのぼり、杣谷峠へ、そこから穂高湖をまわってシェール槍に登頂、シェール道を西に進み、(そこから先は案内図にありませんが)北へまがってマムシ谷、炭ヶ谷をくだって谷上駅へ。 護国神社からまだしばらくは住宅地を歩きます 登山道全体を確認するにはYAMAPなど山のアプリが良いですが、六甲山の登山ルートはたくさんあるので、好みのものを選ぶには「六甲山ビジターセンター」のサイトを見ると参考になるのではないでしょうか。 住宅地を抜けると、この橋に出ます橋をわたって右が登山口 すぐに山道に変わります日陰と土の地面、さらに生活排熱がないのでいきなり体感気温がぐっと下がる 徳川道沿いに杣谷をのぼる 杣谷川の渡渉もあれば、 いかにも六甲山らしい岩盤質の山肌 ずいぶん細いところもあります いま歩いている道は徳川道。江戸時代末期に、いまの神戸市三宮あたりの西国街道路上で、備前藩の武士がフランス人水兵を斬りつける事件が発生。列強国がこの事件にかこつけて強談判してきたため、その武士を切腹させるとともに、今後のトラブルをさけるためなんと毛糖けとうに西国街道を優先使用させ、日本の侍には六甲山中にわざわざ迂回路をつくってこの道を使わせたとか。(毛糖は漢字がちがうので差別用語ではおまへん)徳川幕府がつくったゆえに「徳川道」といま呼ばれているようです。 水流量調整のための堰堤もいくつか越えます ほかにもこの道は「カスケードバレー」と名づけられていますが、カスケードとは「階段状に連続する滝」のことをいうので、この連続する堰堤で階段状の滝ができあがっていることから、きっとそう呼ぶことにしたのでしょう。現実にはその名はまったく定着しておらず、文字で見たことはあっても耳で聞いたことはありません。(ヘンな洋名にするから馴染んでもらえんのとちゃいますか) 木立の隙間から摩耶山がみえる 巨岩がゴロゴロ、まさに六甲山の風景 この石段は江戸時代のものでしょう ここでは短いながら渓流登りを体験 杣谷峠から穂高湖へ ここが杣谷峠、と思います(標識がない)両側の石積は徳川幕府作のはず、かつてはこれくらいの整った道が終始続いていたのでしょう いまの時代の「峠の休憩所」 穂高湖を周回する遊歩道をあるく さてこれから登るシェール槍と、つづいて歩くシェール道ですが、その名の由来は大正時代に神戸に暮らしたドイツ人のシェール氏が六甲登山のさいに好んで歩いた道ゆえシェール道、その道のつづく先の峰ゆえシェール槍と名づけられたとか。なんだかなあ、と思いませんか。大阪の金剛山には千回、二千回はざらで、なんと五千回登攀をやりとげた方までいます。しかしスズキ道とかタナカ峰とか、そのような名称はどこにもありません。 シェール槍、シェール道 高度でいえば、5~10mほどですが、このような岩登りが2ヶ所あります ふり返ると、穂高湖が 初心者でも登れないレベルではない、と思います シェール槍山頂から... Read More | Share it now!