須磨寺は寺か神社かワンダーランドか確認する
【神戸市内 2023.1.3】
関西のなかで京都や奈良は別格として、他の中小都市や城下町と比較しても神戸はずいぶん歴史の重みを欠く町のように映ります。
しかし歴史を紐解いてみると、意外に古い史書や文献にいまの神戸市内の地名が登場しています。
たとえば楠木正成が寡兵で足利尊氏の大軍をむかえ撃った湊川の戦いは南北朝時代、いまの神戸市中央区あたりが舞台です。
平家物語で有名な源平合戦において源義経が一躍名をあげる、一ノ谷の戦いも須磨区を中心にした神戸市西側一体が舞台で、時は平安時代末期。
さらに紫式部が遺した「源氏物語」には、源氏の君が一時凋落したとき時勢の不利をすばやくさとり須磨へとみずから下向する展開があります。もちろん「源氏物語」は小説であり創作ですが、当時から須磨は京から離れてはいるが朝廷と何らかの繋がりがある田舎として認識されていたということでしょう。この作品が書かれたのは平安時代中期、いまから1000年も前です。
今日はその須磨に、源義経、さらに織田信長が好んで舞った幸若舞「敦盛」にも関係する須磨寺があるので、そこへ初詣気分で出かけてみます。
紫色のマークが今回歩いた場所です。
須磨寺へむかって
須磨寺
寺案内によると、仁王像は運慶、湛慶作と伝えられているとのことですが、絶対あり得ない。
源氏方の武将・熊谷直実(くまがいなおざね)はひとり逃げおくれた平家の武者と一騎打ちをします。
じつはその武者こそ平清盛の甥にあたる敦盛なのですが、そうとは知らず直実は相手を組み伏せたときにその武将がまだ若く自分の息子と同年代であることを知ります。わが息子のことを思い躊躇する直実でしたが、若武者から自分の首を討って手柄としてくれと逆に促され、心に迷いを残したままその首を討ちます。
ところでなぜ源平合戦の一場面を境内に舞台化して再現しているのでしょうか。考えてみると、妙なお寺です。
さまざまな ?なもの
このカエルは首がまわるようにできており、借金で首が回らないひとは – – ジョークとしては良いのでしょうが、寺に置くようなものなのか。
見ざる、言わざる、聞かざる、怒らざる、見てござる、だそうです。
これも頭をなでると手が動く仕掛けになってます。
首にかけると肩こりに効くそうですが、効きすぎて脱臼しそう。
あつい信仰心をもって拝みにきても、これだけ数々の神様仏様がいたら日が暮れるまでに終わらんのと違いますか。
ここは寺というよりも、仏教要素と歴史要素をふくんだ遊園地のごときものではないでしょうか。
ところで信長が好んで舞ったといわれる幸若舞「敦盛」ですが、これは平敦盛が主人公なのではなく、敵とはいえ自分の息子のような年齢の若武者の首を討ったことに迷い悩んだ末に、出家する道をえらんだ直実の心境を謡い舞ったものです。
伽藍
義経が敦盛の首を検めるときに腰かけた松だそうですが、900年近くも前のことで、だれかが「この松です」と印でも刻んでいなければ確定できないでしょう。
チャチなだけでなく、インチキ臭っ。
この寺がいかにも怪しいと感じたのは、この場所を見たときです。
神社の向こうに三重塔(寺の伽藍)があるのは、神仏習合の時代があったのですから問題はないのですが、ここは神社の社の中を、しかもまさに神前を通りぬけて塔へたどり着くようになっています。
まがいなりにも神仏への信仰の場を提供する寺が、まともな考えで伽藍配置をするなら絶対にこのようなことはしないでしょう。
奥の院
奥の院へと参道をまわりながら、十三神と七福神を巡れるそう。さぞかし御利益 – – あるわけない。
参道には手すりをささえる石柱ならぬ鉄柱がずらっと立っており、柱の頭に人の名が刻まれています。言うまでもなく寄進者の芳名でしょう。
鉄柱の数は数百か千超えか。
がっぽり—、いえいえ何でもありません。
ここは須磨寺というより、すまない寺でした(ダジャレのつもり)
神戸市内を東へあるく
水族館をたずねて海岸まで来ましたが、海の生態にたいして興味もないので素通りします。
ここから神戸元町にのこる花隈城址まで8kmほどなので散歩がてら歩くことにしました。
現役で仕事をしていたころ長田にある靴メーカーと取引があり、ここは幾度も訪れたことがあります。
いつも食事をしていた韓国食堂で昼飯でもと思い寄ってみたのですが、店が見当たりませんでした。
コロナ禍で閉店したのかどうなのか。
ところで鉄人28号の原作者、横山光輝氏は神戸市須磨区の出身です。
花隈城址
花隈城は織田信長が毛利の東進にそなえて荒木村重に築かせた城といわれていますが、その村重が信長に謀反したことから、村重の居城・有岡城とともに信長勢と戦うことになります。
そもそも石垣は再建したものなので歴史感がないのは致し方ないとして、なんだか全体にハリボテのような作り物っぽさを感じたのですが、東面にまわって納得しました。
石垣を歴史の証として復活させたのではなく、単にモニュメントとして模擬的につくっただけの代物でした。
【アクセス】JR須磨駅から、阪急三宮駅まで歩きました。23,000歩
【満足度】★★☆☆☆