楠木正成をたずねて千早赤阪村を歩く
【大阪府・南河内郡千早赤阪村 2023.2.5】
楠木正成と書いても、今の時代では「くすのきまさなり」と読んで、それ誰?と反応する若い人もいるのかもしれません。
「くすのきまさしげ」と読みます。天皇を日本国の頂点とする勤王思想によるならば、間違いなく日本史上トップクラスのヒーローです。天皇家が分裂して争うことになる南北朝時代に、後醍醐天皇に忠誠をつくして南朝のもとをつくる人物です。同朋であった足利尊氏と袂をわけて戦い敗れますが(湊川の戦い)、それも10万もの足利勢を少数で迎え撃つべく練り上げた戦略を後醍醐天皇に却下され、敵の大軍に玉砕覚悟で挑んでゆく私心のない姿があたかも仁義勇を象徴するかのようで、むしろ評価を上げます。
足利尊氏がひらいた室町時代をのぞくと、戦国時代から江戸時代にかけては、軍事の天才として「多聞天」の化身と崇敬されます。(四天王として祀られる場合には多聞天、単独では毘沙門天といわれます)
また明治時代には正一位を贈られます。正一位は位階のなかでももっとも上のもので、幕府の将軍であるとか関白など公卿の最上位にあるもの以外では、例外中の例外といえます。
ところが昭和の時代になると、崇敬されることに変わりはないのですが、その私心のない忠誠心を都合よく利用されることになります。楠木正成は湊川の戦いで敗れ、「七度人として生まれ変わり、朝敵を誅して国に報いたい」と言葉をのこして自害しますが、太平洋戦争において日本帝国軍部はこの言葉を借用し「七生報国」なるスローガンを掲げます。なにかというと四字熟語をつくって有難がるあたりにも何やら寒いものを感じますが、さらに楠木正成を看板がわりに利用して無策のきわみのような作戦計画を立てます。
戦争末期の沖縄決戦において、じつに1800を超える戦闘機がアメリカ軍の戦艦に体当たりしてゆきます。俗にいう神風特攻隊ですが、この戦闘は「菊水作戦」と呼ばれていました。
「菊水」は楠木正成の旗印です。後醍醐天皇から天皇家の菊紋をつかうよう下賜された正成は、そのまま使うのは畏れ多いと恐縮し、菊のしたに水が流れる独自の紋をつくります。
どこまでも私心のない忠誠心を示しつづけた楠木正成を称えることと、その楠木正成を象徴として、どこまでも私心のない忠誠心を強要するのとは、いかに時代が変わろうとも同体にはなりえません。
前置きが長くなりました。今日は楠木正成ゆかりの地、大阪府南西部にある千早赤阪村を訪ねます。
千早赤阪村へ
豊臣秀吉の命で検地されて小さな祠がつくられ、その後この地をおとずれた大久保利通の要請で石碑が建てられたとのことです。
ところでこの近くに正成が産湯を使ったとされる井戸があるのですが、たどり着くまでの階段が朽ちて立ち入り禁止となっていました。
下赤坂城跡
この畑の上の方に、楠木正成が築いた城のひとつ下赤坂城があります。
曲輪跡ぐらいは残っているはずなのですが、最短距離でむかう道路は工事中とかで通行止め。いったん来た道をもどって大回りして反対側にまわるとなると、往復で2時間ぐらいかかりそうなので諦めて、上赤坂城へ向かいます。
上赤坂城跡
横堀があります。文字どおり敵の侵入を防ぐために横に堀をほったもので、この場所だけを通路とするため橋を架けたかのように地表を残しています。
楠木正成は勇敢なだけでなく、軍略家でもあり、統率力にすぐれ、城づくりの才にも秀でていたそうです。
戦闘用の城づくりが本格的になる戦国時代からさかのぼることおよそ300年、すでにこの時点で城の防御を完璧に考えています。
いまは残っていませんが、ここまで上がってくる道には各所に門が設けられ、要所には塀がめぐらされていたそうです。その塀というのが2枚塀になっていて、崖下から上ってきた敵兵が一枚目(外側)の塀をよじ登りはじめると、頃合いをみて外側の塀だけ崖下にむかって押し倒し敵兵もろとも転落させます。
そもそも周辺に藪を残しておくことでそこに守備兵が隠れひそみ、侵入しようとする敵兵をゲリラ戦のごとく急襲するため、攻める敵にとっては塀までたどり着くのもただごとではなかったでしょう。
本丸(一の曲輪)
楠木正成は城で相手を迎え撃つさいには、石も投げ、熱湯もあびせ、なんと糞尿までまき散らしたそうです。
糞尿では致命傷は与えられませんが、大抵のものなら戦意を失うことでしょう。
ここで思い出したのは、熊本城には天守建物から出窓のように突出した部分に便所があり、敵兵が石垣を登ってきたら、底蓋をあけて溜まった糞尿をぶちまける仕掛けがあります。
熊本城をつくったのは、城づくりの名人といわれた加藤清正。清正はきっと正成のこの戦法からアイデアを得たのに違いありません。
建水分神社
建水分(たけみくまり)神社は、金剛山の水分神(みくまりのかみ:流水をほどよく配分し水不足や洪水から土地を守る神。転じて農耕の神でもある)を祀ったことが起源で、荒廃していたものを後醍醐天皇の命により正成が再建したものです。
同時に正成はこの社を氏神としていたため、いまは摂社として当の正成を祀る南木(なんぎ)神社が鎮座しています。
スイセンの丘
奉建塔は楠木正成の死後600年を記念して、徳島県の画家・森下氏が地道に寄付金をあつめて建立したそうです。
【アクセス】JR富田林駅から ➡楠木正成生誕地➡下赤坂城跡(近く)➡上赤坂城跡➡建水分神社・南木神社➡スイセンの丘➡ JR滝谷不動駅まで歩きました。 30,000歩
【満足度】★★★☆☆