東京にて、忠臣蔵ゆかりの地を見て歩く
【東京都・千代田区他 2023.2.18】
昨秋会社をしめる際に、外出を控える世間の空気もあり直接会って挨拶することなく付合いが絶えてしまった得意先や同業者の方々がいました。そこで、かつて自分も出展していた大規模な展示会がいま東京で行われているので、そこへ行けば幾人かとは確実に会えると考え、3年ぶりに東京へ行くことになりました。
仕事の続きみたいなものですが、すでに会社がないので交通費を経費で落とすわけにもいかず、それならば一泊して、いま興味を持っている忠臣蔵に関係した地を回ってみるのはどうか。
ということで、かつて使っていた東品川、大崎あたりのホテルは高いので(ネットで調べると、なぜかコロナ前よりも3割程度上がっていました)、両国に安いビジネスホテルを見つけて、そこからスタートすることにしました。
吉良邸跡
ここ両国に、赤穂浪士が討ち入った吉良邸がありました。もとは2,550坪という広大な邸宅で、いま目にしている跡地のじつに86倍あったそうです。
それならば47人が討ち入り、どこかに隠れた吉良上野介(きらこうずけのすけ)を捜しまわりやっと見つけたというのも納得できる話で、この跡地が邸宅のすべてならば我が家と同じレベルで、47人総出で捜すもなにも、そもそも隠れる場所が押入れとベッドの下ぐらいしかありません。
さて今日は7時半スタートなので、まだ十分に時間があります。そこですこし寄り道をして浅草寺(寺はあさくさではなく、せんそうじと読むそうです)まで歩いてみます。
両国から浅草へ
護国寺
浅草寺は人が多すぎるので早々に切り上げ、本来の目的地である護国寺に向かいました。
護国寺は文京区、池袋のすこし東にあります。浅草寺から7kmとのことで歩くことも考えたのですが、住宅街の中を縫うように歩くため土地勘がなく道に迷う不安もあるので電車で行くことにしました。
ところがこの電車、何度か乗り換えが必要なのですが、その乗り換え方さえも複雑で、結局1時間以上かかってしまい、すっかり疲れました。
とにかく東京は人が多いし、物も多いし、見て歩くのもなかなか大変です。
護国寺は忠臣蔵とは直接には関係ないのですが、その忠臣蔵の時代背景を考えるときに押さえておくべきものと思います。
忠臣蔵すなわち赤穂事件が起きたのは、江戸時代の前期から中期にかわるころ、「生類憐みの令」で有名な徳川綱吉が将軍職に就いていた時代です。
徳川綱吉は愚物ではなかったようです。むしろ人々が争いをおこして無益な殺傷をする殺漠とした世をかえ、未来永劫に平和な時代をむかえるためには、まず食生活では肉類をひかえ、生き物をむやみに殺さない習慣をつけ、また生き物に対して愛情を持つために、その代表として犬を大切にするように(自分と、両腕と頼る二人の側近がそろって戌年生まれだった)との考えがあったようです。
ただ殿中での生活しか知らないがために、肉体労働者には肉類のない飯ばかりでは働く力が出てこないとか、犬を大切にするあまり庶民の生活にやたらに支障が出ているとか、そういった現実はまったく見ていなかったのも事実です。
そして家康から3代将軍・家光までは確実につづいていた、質素倹約を美徳とした手堅い幕府運営も、ここにきてそろそろタガが緩みはじめます。お犬様を保護するための広大な養育場をいくつもつくり、国家安泰・平和祈願のために寺院をつぎつぎに建立します。
この護国寺も、綱吉の生母・桂昌院からの願いで建立したもので、いまでこそ縮小されていますが、当時は5万坪。さきほど見た吉良邸跡地の86倍が元吉良邸、そのさらに20倍の敷地で、そこに堂塔が立ち並び、おそらくは千人以上の僧侶がいたはずです。しかもこの寺は檀家をもたない幕府直管のため、維持費はすべて幕府もちです。
そして幕府の金が足りなくなれば、大名に出費を強い、庶民からは年貢や税で取り立てることになります。
まちがいなく武家にも庶民にも、幕府(お上)への不満が満ち溢れていたことでしょう。そこに突発したのが赤穂事件であり、なぜ赤穂事件があそこまで世間から支持されたのかを理解するには、この時代背景を押さえておく必要があります。
江戸城・平川門から二の丸
江戸城へは御茶の水方向(北)から歩いてきたため、平川門から入ることにしました。
江戸城における平川門は、大手門が表門にあたるのに対して裏門にあたり、不浄なもの、たとえば屎尿や、さらには罪人や病人もこの平川門すなわち裏門からそとへ出すようにしていました。
松の廊下の刃傷沙汰のあと、吉良上野介(きらこうずけのすけ)も浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)も、この平井門から外へ出されたと記録されています。
二の丸の一角にある二の丸庭園の、その庭園の一部の池がこの広さですから、二の丸だけでもどれだけ広大なのか。
二の丸から本丸へ
このバカでかい敷地に、渡り廊下でつながれている箇所があるとはいえ、本丸御殿というひとつの建物があったというのですから驚くばかりです。
これだけの巨邸となるとどれだけ掃除がたいへんなのかと考えてしまい、我が家はわずか数室で良かったと感じ入りました。
本丸から大手門へ
浅野内匠頭の赤穂藩は、刃傷事件の前年にはこの大手門の番役を担当していたそうで、そのときは出費も少なく、吉良上野介のようなお節介爺さんからガミガミ言われることもなく、内匠頭自身たいへん穏やかに過ごしていたようです。
泉岳寺
泉岳寺は、いまの港区高輪近くにある、浅野家の菩提寺です。
赤穂47義士は、両国の吉良邸で上野介の首を討ち取ると、それを小袖につつみ、(一説では槍の先に刺して掲げ)全員であるいて、ここ泉岳寺まで運びます。そして浅野内匠頭の墓前にその首を据え、恨みを晴らしたことを報告して男泣きに泣いたということです。
四十七義士の墓では、ひとつ見ておくべきポイントがあります。
吉良邸から上野介の首を下げてこの泉岳寺まで向かう途中で、ひとり寺坂吉右衛門というものが行方不明になっています。一説では、吉良上野介を打ち取った以上はこれ以上つき従う必要はないと本人が考えて脱走したのだろうと言われています。別の説では、赤穂本国への報告を命じられて一人密かに脱出したとも言われています。
その寺坂吉右衛門の墓も、右列の一番奥にきちんと整えられています。しかし他の義士たちの戒名がすべて「刃雲輝劔信士」とか「刃電石劔信士」「刃清元劔信士」など武人らしいものであるのに対して、その戒名だけは「遂道退身信士」となっています。語感からは「逃げた人」と読めますが、深読みして「道を遂(と)げるために身を退いた人」となると、密命をおびて脱出したとも考えられます。
泉岳寺のすこし北、都営住宅のあるあたり一帯は当時肥後細川家の藩邸がありました。47士(実際には46士)のうち大石内蔵助ほか17士は、しばらくこの上杉邸に預けられますが、切腹の沙汰をうけ、当日朝から次々に腹を切って果てます。
ここに世にいう忠臣蔵、赤穂事件のすべてが終わります。
【アクセス】両国のホテル ➡ 吉良邸跡 ➡ 浅草寺 ➡(地下鉄)➡ 護国寺 ➡ (地下鉄) ➡ 江戸城 ➡ (地下鉄) ➡泉岳寺 ➡ (地下鉄) ➡ 東京駅 36,000歩
【入場料】赤穂義士記念館:入場料500円、浅野内匠頭と赤穂義士の墓:線香代300円
【満足度】★★★★☆