瀬戸大橋を眺め、下津井城址を探索する
【岡山県・倉敷市 2023.3.20】
まずは私事。
高齢の母が地元の倉敷に残っているのですが、10年ほど前から介護が必要となり、親切で良い施設があるのでそれ以来ずっとお世話になっています
ところが3年前の新型コロナの流行以来いっさい面会禁止。昨年秋にわずか15分間の制限付きで可能となったものの、月イチで2回合計30分顔を合わせただけで、打ち切りとなりました。
それでも今月15日からふたたび可能になったので、しかも病院での診察に付き添うのであれば制限時間なしというボーナス付きのため、今日は朝から倉敷(瀬戸内海沿いの児島という土地)に向かいます。
さて午後2時に施設に母を連れてかえり、すこし時間があるので、以前から気になっていた児島にある下津井城址を訪ねてみることにします。
この下津井城ですが、築城したのは宇喜多秀家。その後秀家は関ヶ原の合戦で豊臣方について敗北したため、八丈島へ配流となります。
以後は小早川秀秋の短い治世の時を経て、池田家が岡山城を主城として岡山藩主をつとめながら、親戚筋や重臣に城代をつとめさせます。
1632年に因幡鳥取藩主であり同じ池田家の血筋をひく池田光政が岡山藩に移封されたのにともない、その家臣であった池田由成がこの下津井城の城代となります。
ところでこの池田由成ですが、娘の熊子が赤穂家の重臣・大石家に嫁ぎ、そこで後に大石内蔵助(おおいしくらのすけ)として知られる大石良雄を生んでいます。
赤穂井戸
下津井城の北側に武家屋敷があったようで、そこに赤穂井戸とつたわるものが残っています。
浅野内匠頭による刃傷事件の結果、赤穂藩は取り潰しの憂き目をみますが、浪人となった武士たちは、その後の吉良家討入に加わったものもいれば、当時赤穂の主要産業であった製塩業に就いたもの、何処かへ流れて行ったものなどさまざまでした。
その中には大石内蔵助のツテをたよって、この下津井まで流れてきたものがいたようで、その者たちがこのあたりに住んでいたため、これを赤穂井戸として残しているそうです。
風の道をあるく
下津井城址
この石垣が宇喜多秀家が築城した当時のままのものであれば、こんなものなのかとは思いますが、それでも織田信長や明智光秀の時代にはすでに「石垣名人」の穴太衆が活躍していたのですから、それを考えるとずいぶん稚拙な造りです。
下津井城は各曲輪が横一列にきれいにならぶ、典型的な連結式の縄張りでした。
シンプルで良いと言えばよいのでしょうが、防御機能に優れているとは思えないし、名城とは言い難いです。
ただ瀬戸内に沈む夕日でも眺めながら一杯やるのはきっと格別だったことでしょう。
下津井の街
【アクセス】JR児島駅 ➡ 赤穂井戸~風の道~鷲羽山~下津井城址~下津井の街並み ➡ JR児島駅 19,000歩
【満足度】★★★★☆