京都で桜を見てあるき(八坂神社~知恩院~高瀬川)

【京都市・東山区~中京区 2023.3.25】
待ちに待った桜の季節がやってきました。
ところが毎年のことですが、桜が満開となると天気が不安定になる。関西では京都市内がもっとも早く桜が見ごろを迎えるのですが、東山界隈では満開になったとネットで確認しているものの、このところずっと空はぐずつき模様。今日はなんとか降らずにもちそうですが、明日は本降りとのことなので、万一にもその雨で桜が散ってはと心配になり、それこそ慌てて出かけることにしました。

八坂神社

四条通を東へすすむと、西楼門が見えてきます
京都観光のランドマークにもなっている西楼門
本殿と舞殿(手前)
舞殿は神前結婚の式の準備中でした
本殿の屋根が拝殿を覆う

八坂神社は本殿の屋根庇が前にのびて、拝殿もすっぽり覆ってしまう独特の構造をしています。

ところでこの八坂神社は素戔嗚尊(スサノオノミコト)を祭神として祀っていますが、インドの祇園精舎の守護神である牛頭天王(ゴズテンノウ)と同一視されたことから、祇園寺と呼ばれていました。
八坂神社と呼ばれるようになったのは、明治維新のさいに神仏分離令がだされ、単体の神社になってからのことです。
いまは全国に約3000社ある八坂神社の総本社です。

南楼門(内からみています)
摂社、末社がならぶ東側 / ここは美御前社

円山公園

円山公園のシンボルともいえる祇園しだれ桜
満開です
円山公園は西は八坂神社に隣接し、
北は知恩院へとつながる絶好の位置にあります

知恩院

山門 / とにかく大きい
福島から復興支援感謝のために踊りを奉納 / 山門にて
山門から男坂へ

知恩院は浄土宗の総本山です。
僧・法然は比叡山延暦寺で修業を積みますが、ひたすら念仏を唱えれば人は救われる(極楽浄土へゆける)という専修念仏の考えにいたり、比叡山を下りてこの地に草庵をむすび、布教につとめます。
一時期旧宗教勢力の迫害で四国の讃岐へ流罪となりますが、4年後に許され京都に戻ってからもこの地にとどまりみずからの教えを広めることに専心します。
その後弟子たちの尽力と、天皇直々の庇護、さらには秀吉、家康ら有力者からの寄進もあって時代とともに巨刹へと変貌してゆきます。

御影堂(本堂にあたる)、経堂(右奥)
霊塔
御影堂渡り廊下から阿弥陀堂をみる
大鐘楼 / 大とつくだけにこの鐘と楼は巨大です
法然上人御廟へあがる階段
御廟を見上げる

東山三条から三条大橋へ

青蓮院あたりで見上げると、一部ですが青空が
途中の寂光寺で、紅白まざった源平桃を見つけました

瑞泉寺

三条大橋をわたり高瀬川に沿う木屋町通りへ
通り沿いに瑞泉寺があります
ビルの間に埋もれるようにある小さな御寺です
ここに豊臣秀次の墓があります

豊臣秀次は秀吉の甥ですが、天下人となった秀吉に人生すべてを都合よく利用され振りまわされ壊された悲劇の人物です。
秀吉は自分が高齢になるにしたがい後継ぎができないことを焦り、甥の秀次に関白の地位を譲り、実質的に自分の後継者とすることを公けに示します。ところがその直後に淀君が懐妊、元気な男子を生みます。幼名を拾丸、のちの秀頼です。この拾丸は元気過ぎて秀吉の種ではないと言われていますが、それはさて置き、秀吉は元気な男子が生まれたことに狂喜します。ところがそこで関白の地位を秀次に譲ってしまったことを後悔し、どこでどう思考回路が狂いだしたのか、秀次を跡形もなく消してしまうことを画策しはじめます。
秀次はしまいには殺生関白といわれるまでに貶められ、ついに自害させられます。さらにその妻妾、その子女三十余名をこの近くの三条河原で処刑します。
その後、もちろん秀吉が亡くなったあとですが、荒れ果てた塚がぽつんと残るだけのこの地に、当時の京都の豪商・角倉了以が私財で秀次および妻妾子女の墓をつくり寺を建立します。角倉了以の弟は秀次の家臣だったそうで、しかも先に亡くなったその弟の一周忌にこれらの墓と寺をつくっていることから考えると、なんらかの思い入れがあったのでしょう。
ところで角倉了以は京都の街中での物流がスムーズになるよう運河をつくることを考案します。そして完成したのがいまの高瀬川です。

それでは最後に高瀬川の桜を堪能して、京阪三条駅から帰途につきます。

高瀬川

【アクセス】京阪祇園四条駅 ➡ 八坂神社~円山公園~知恩院~瑞泉寺~高瀬川 ➡ 京阪三条駅 11,000歩
【満足度】★★★★☆