瀬戸大橋をわたって、丸亀城を見に行こう
【香川県・丸亀市 2023.5.1】
定例となっている、岡山で暮らす母親の定期検診に立ち会うため、大阪から朝一番で出向いてきました。昼前にはそれも終わり、下津井漁港でうまい魚を食べて母親をお世話になっている施設まで送り届けると、今回も午後からぽっかり時間が空きました。
そこで、かねてより気になっていた、香川県の丸亀城を見に行くことにします。
本州から海をわたって四国へ、となるとずいぶん気合を入れた旅行のようですが、実際にはいま母親が暮らす岡山県の児島から丸亀までは、瀬戸大橋をわたると電車で30分ほど、530円で行けます。(特急なら20分足らず、830円です)
瀬戸大橋を渡って
岡山駅から児島駅(岡山県)まで至った電車は、そこから瀬戸大橋をわたり坂出駅(香川県)に到着します。
そこで東方向(高松、徳島)へ向かうものと、西方向(丸亀、松山)へ向かうものに分かれます。
丸亀駅は、坂出駅から2つ目です。
丸亀城へ
丸亀城のなにが凄いかというと、3段構えになった石垣の総高はじつに60mに達します。
大坂城(大阪)の本丸東面が高さ32mでもっとも高い石垣であることは事実で、大阪人としては「日本一」の勲章をゆずるつもりはありませんが、それはそれとして、「3段60m」はいかなるものなのか、大いに楽しみです。
丸亀城は、もと織田信長の家臣で、その後豊臣秀吉に臣下した生駒親正により築城されました。
生駒親正は信長の従兄弟にあたりますが、信長が本能寺の変に倒れてからは、秀吉の配下で手柄をたて、ついに讃岐の国12万石を与えられます。
生駒氏4代、山崎氏3代の時代をへて、丸亀城には江戸幕府の命によりあらたに丸亀藩主となった京極氏が入ります。京極高和という人物で、この人がほぼでき上がっていた丸亀城の、天守をつくり、麓に屋敷をつくり、その屋敷の表門がいま見た玄関先御門です。
京極氏は天皇家からつながる名家であり、同時に信長、秀吉とも浅からぬ縁があります。
信長の妹であり、比類なき美形とうたわれた御市の方は、近江の浅井長政に嫁ぎ、そこで美人3姉妹を生みます。
長女・茶々は秀吉の側室となり、淀君とよばれ跡取りの秀頼を生みます。三女の江(ごう)は徳川家康の嫡男すなわち江戸幕府2代将軍・秀忠の正室となり家光を生みます。秀頼と豊臣家が徳川家に滅ぼされ、家康が天下人となり江戸幕府をひらいて後を秀忠、家光に任せることになるのですから、歴史はえてして皮肉なものです。
話がそれていました。さて御市の方の次女は初(はつ)と言い、この初が京極高次に嫁ぎ、その孫にあたる人物が京極高和です。
石垣をみる
三の丸北面には、高さ20m以上の石垣がつづきます。
隅角は算木積みでしっかり固定し、下部はゆるやかで上に行くほど急勾配になる、「扇の勾配」となっています。
石垣の反りと勾配について
https://blog.kojodan.jp/entry/2020/10/19/180000
丸亀城の石垣は大半が打込み接ぎで、隅角は算木積みで整えられています。
この丸亀城の石垣は見応えあります。
二の丸から本丸、天守へ
京極氏が丸亀藩を治めた時代になると、戦はすでになく平安な時代ゆえ、城には武装の意味合いはほとんどなくなっていたはずです。
それゆえ生活するのも(本丸御殿が残っていたとしても)、より平地に近く便利な山下曲輪にわざわざ屋敷を構えたのでしょう。その立場で考えると、天守は権威の象徴ほどの意味もなく、城に天守がないのでは画竜点睛を欠くぐらいの気持ちで造ったのではないでしょうか。
南の搦め手側へ下りる
3段60mの石垣
城全体を北東の位置から見ています。
この場所からだと、3段、総高60mの石垣の全貌がよくわかります。
【アクセス】JR丸亀駅から大手門まで徒歩10~15分
【入場料】天守のみ 200円
【満足度】★★★★☆