法隆寺の謎・そもそも法隆寺にはいくつ謎があるのか
【奈良県・生駒郡斑鳩町 2023.6.20】
法隆寺は聖徳太子ゆかりの寺です。
聖徳太子は天皇(当時は推古天皇)が暮らす宮や政務をとる機能などを飛鳥から斑鳩の地へと移すにさいして、仏教布教のため天皇の宮のとなりに斑鳩寺を建立します。この斑鳩寺は聖徳太子の死後に焼失しますが、その跡地のうえに新しい寺が建立されます。これがいまの法隆寺です。
そもそも法隆寺の再建については、「日本書紀」に斑鳩寺が消失したことが書き記されているにもかかわらず否定する意見が強く、昭和の時代になっての発掘調査により旧伽藍跡(若草伽藍とよばれる)がみつかり、やっと再建説が一般化します。
再建時期については、現存する建築木材の年輪調査などにより西暦690年から710年頃のあいだに完成したものと考えられており、この年時にしたがえば、聖徳太子もその血をうけつぐ蘇我氏は完全に衰退し、藤原不比等の活躍で藤原氏が最初の黄金期を迎えようとしていたころにあたります。
藤原氏といえば大化の改新をすすめることで頭角を現わしますが、そのころ朝廷とも婚姻関係をむすんで絶対権力をにぎっていたのは蘇我氏、そのなかでも主役である蘇我蝦夷・入鹿(えみし・いるか)親子を殺害するクーデターから始まります。
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、天皇家)を中臣鎌足(なかとみのかまたり、藤原家の始祖、のちの藤原鎌足)がうしろで扇動することでクーデターを成功させ、天皇中心の律令制国家へと改革したのが大化の改新です。
しかしその後の歴史を見てみると、しだいに藤原氏が存在感を増してゆき、蘇我氏がそうだったように天皇家と婚姻関係をむすび、権力を独占してゆきます。
そうしてみると、大化の改新の始まりとなるクーデターそのものが、藤原氏が当時の蘇我氏の絶対権力を奪い取り、まんまと我がものにするのが目的であったとさえ思えてきます。
これらの歴史をふまえて考えると、なぜ藤原氏が蘇我氏と濃密につながる聖徳太子のために法隆寺という大寺院を再建したのかという疑問が浮上します。
法隆寺へ
聖徳太子の死から大化の改新の起点となる蘇我蝦夷・入鹿親子暗殺(実際には入鹿は謀殺され、蝦夷は自害している)に至るまでの間には、もうひとつ別の事件がおきています。
聖徳太子の息子であり、いずれは天皇位につく可能性のあった山背大兄王(やましろのおおえのおう)が、さきの蘇我蝦夷・入鹿親子によって自害に追い込まれています。
これは蘇我蝦夷・入鹿親子にとって都合のよい、すなわち自分たちが絶対権力をにぎるうえで扱いやすい天皇を継承させるためには、人々の信任あつい聖徳太子の息子に表舞台に出てこられては困ると考えたからでしょう。
聖徳太子は蘇我氏の血を継ぐだけでなく、蘇我蝦夷の姉を妻として、その子が山背大兄王ですから、これはまったく一族間の争いということになります。
昭和四十年代ですから今では「むかし」と言ってもいいかもしれませんが、哲学者の梅原猛氏が法隆寺に関して独自の評論を発表し、それが『隠された十字架』として出版されると一大センセーションを巻き起こしました。
主とするところは、聖徳太子の怨霊を鎮魂するために法隆寺は建立された、というものです。
中門
いまでは「むかし発表された一論評」としておさまっていますが、読んでみると自論をすすめるうえで牽強付会(こじつけ、ごりおし)が目立つものの、たいへんユニークな発想だと目を瞠るものはありました。
しかし聖徳太子の霊を鎮魂するでとどめておけばそれなりに賛同できるのですが、法隆寺の伽藍に太子の怨霊を封じ込めるとまで言われると、論理の飛躍としか受け取れません。
たとえば法隆寺の中門は横4間となっており、寺院において建造物の間数を奇数(門の場合は、1間、3間、5間のいずれか)とする定例を唯一破っています。
そのため開口部の真中に柱が存在することになり、これが立ち入りを拒んでいるかのようにも思えるとは、明治大正のころから言われていました。
そこで梅原猛氏はこれこそが聖徳太子の怨霊が抜け出さないように封じ込めている証拠だというのです。
いつの頃からか中門からは出入りができなくなっており、廻廊の西南角から入ります。
一説では、門をはいっていきなり金堂や塔にむかい、そこで祈るのではなく、廻廊を一巡し、巡り歩きながら祈りをささげたものだと言われています。
たしかにネパールなどの寺院ではいまでもその祈祷のやりかたをつづけています。
もし中門から直接に入ると、中央にたつ柱を目の前にこのような光景にぶつかるはずです。
建築家の武澤秀一氏の『法隆寺の謎を解く』にはたいへん興味深い記述があります。
廻廊をまわって祈る習慣を前提として、この柱はひとつの門(中門)において入口と出口を分けているのではないか、というのです。
人が廻廊をまわるときには、左手が不浄とされるため伽藍には右手がむくよう時計回りにまわります。すなわち五重塔がみえる左側が入口ということです。
西院伽藍
塔と金堂を横並びにするのが法隆寺様式とよばれる伽藍配置です。
塔と金堂が縦に並ぶのが四天王寺様式ですが、見る位置によっては同じように見えます。
そもそも塔の由来は仏教発祥地のインドやネパールにおいてはストゥーパとよばれる仏塔であり、これは仏舎利(ブッダの遺骨)をおさめるもっとも大切な場所でした。
そこで仏教が伝来して間もない飛鳥時代には、伽藍に入るとまず塔が建っているという配置にしたようです。
しかしそれだと、塔が視界を塞いでしまい、うしろにある仏像を安置した金堂が見えない。
ということで塔と金堂を横並びにしたのではないかと考えられています。
発掘調査により、聖徳太子が建立した斑鳩寺が完全に消失して今ある法隆寺が再建されたのではなく、斑鳩寺がのこったままで法隆寺の建立をはじめ、ある時期に斑鳩寺が消失したというのが真相のようです。
ここからは私個人の推測を書きます。
もしかすると蘇我氏の痕跡を消してしまいたい藤原氏は、斑鳩寺を残したくなかったのではないか。なぜならば斑鳩寺は聖徳太子にかかわる一族の氏寺であり、四天王寺様式の伽藍は聖徳太子が建立した寺の特徴です。
それに対して法隆寺は官寺であり、より大規模になるのですから建て替えは正当な、むしろ聖徳太子を敬ってのことと認められるはずです。
これで聖徳太子一族の氏寺(斑鳩寺)は消滅し、再建された法隆寺は藤原氏の時代に採用された、塔と金堂が横並びになるあたらしい伽藍配置となります。
当時の聖徳太子信仰はたいへんなものでした。
藤原氏といえど、聖徳太子を疎かにはできない。かといって蘇我氏の痕跡は消してしまいたい。
結局のところ、藤原氏をどう評価するかですべての見え方が変わってくると言えそうです。
藤原氏が「善い人」であるなら、蘇我氏は歴史から抹消してしまいたいほどの悪者であり、そのなかで聖徳太子だけは汚すことなく、法隆寺という大寺院を建立してその霊魂をなぐさめたと見ることもできます。
逆に藤原氏がどうしようもない「悪い人」であったなら、当時人気絶大であった聖徳太子だけは貶めるのではなく逆に持ち上げ、持ち上げる(利用する)ことで蘇我氏と藤原氏の因果関係に目がいかないように煙幕をはってしまう。そのうえで蘇我氏を徹底的に悪人に仕立て上げて、蘇我蝦夷・入鹿親子の暗殺を正当化する。
さらに深読みすると、蘇我蝦夷・入鹿親子は殺されて当然の悪者と世間に示し、歴史に記録させるためには – – 聖徳太子の実子で天皇位につく資格もそなえていた山背大兄王は不運にも、蘇我蝦夷・入鹿親子によって自害に追い込まれた、そういうことにすれば、まさに目論見どおりとなります。
ちなみに山背大兄王の自害については、「日本書紀」に詳細が記されているぐらいで、その日本書記はというと、藤原氏最初の黄金期をきずいた藤原不比等が中心になって編纂されたものです。
勝者が自分の都合のよいように歴史を書き換えるのは世の常ですが、さて真相はどうなのでしょうか。
西院伽藍周辺(西側)
この一帯は法隆寺境内でも西端にあたり、ほとんど訪ねる人もありませんが、西院伽藍とは一転して静寂につつまれた雰囲気のよいところです。
西院伽藍周辺(東側)
西院伽藍東側には、大宝蔵院があります。いわゆる宝物庫ですからコンクリート造りの写真を撮る気にもならない建物ですが、中には重厚あるいは繊細な仏像ほかが満載で、絶対に見逃さないように。
基本の拝観料に含まれており、別料金は要りません。
東院伽藍
夢殿に祀られる救世観音像は、毎年春と秋に限定公開されます。
昨年秋の公開時に拝顔しましたが、聖徳太子等身大に造られたという、むしろ儚げな印象の像でした。
ところでこの像は、明治17年に政府の要請をうけ岡倉天心が開扉させるまで誰も見ることのない秘像だったそうで、はじめて人の目に触れた際には長い布でミイラのごとくグルグル巻きされ寝かせて安置されていたそうです。
法隆寺をあとにして
ということで、法隆寺中門の柱の謎、法隆寺建立いきさつの謎については、各々それなりの回答を得るに至りました。しかし夢殿においてあらたな謎に取りつかれました。救世観音像とはいったい何であるのか?
またの機会に解き明かすためのチャレンジをするとして、今日のところは法隆寺をあとにします。
法隆寺から法輪寺、法起寺に向かうにはこの道を通ると印象深い散策を楽しめます。
この道ですが、実は西にすこし傾くように延びています。なぜかというと、消失した斑鳩寺の伽藍はいまの法隆寺よりもすこし傾いて配置されており、この道はその斑鳩寺伽藍の中心線にそって延びているそうです。
法輪寺
法輪寺は山背大兄王が聖徳太子の病気平癒祈願のために建立したとも伝えられていますが、正確なところはわかりません。
また当時の境内敷地はいまよりはるかに巨大で、あたらしい法隆寺を建立するさいのモデルになったのではないかと言われています。
なお現在の建物はすべて再建されたものです。
法起寺から斑鳩の里をあるいて
法起寺は、やはり斑鳩の地に飛鳥時代に建てられた寺のひとつですが、昨年秋にコスモス畑を見に来たさいに拝観したので今回は前を通るにとどめます。
こうして出発点であったJR法隆寺駅へと戻りました。
◎法隆寺は朝8時に開門します。9時30分までは比較的空いた状態で静かに拝観できますが、10時前あたりから団体客が次々に訪れてきます。時期によっては、寺院内全体が「渋滞」してしまいます。
【アクセス】JR法隆寺駅~法隆寺~斑鳩神社~法輪寺~法起寺~中宮寺跡~JR法隆寺駅 15000歩
【拝観料】法隆寺1500円、法輪寺500円
【満足度】★★★★★