松永久秀が信長に背いてこもった信貴山城を探索する

【大阪府・八尾市~奈良県・平群町、王寺町 2023.8.26】
生駒山系は大阪府の東端を、奈良県との境界をなすように北から南へ伸びています。山系の中程には、古くは楠木正成が軍事拠点として利用し、のちに三好長慶が本格的に築城した飯盛山城があります。
生駒山系の南の端にあるのが高安山で、ここにはずっと時代をさかのぼり、大和朝廷が都を守るためにその山上に築いた高安城がありました。
さらに高安山から東へ、すなわち奈良側へ山中をすすむと信貴山に達します。この信貴山には、三好家の祐筆(書記のような役)をつとめながら権勢を拡大し、ついには三好家(主君)に取って代わった松永久秀が築いた名城・信貴山城がありました。

今日は大阪側から高安山にのぼり、高安城、信貴山城と探索して、奈良県の王寺町に下山しようと思います。

まずは高安山へ

近鉄信貴山口駅からスタートします
高安山(中央奥)へ、民家がたつ生活道路をあるく
20分ほどあるくと山道が始まります

信貴山口駅は大阪の中心地から生駒山へ向かった場合の終点になりますが、同時に高安山の山頂まであがるケーブルカーの麓駅でもあります。
すなわちいま歩いている道は、ケーブルの軌道の横を並行していることになります。

竹林の下、岩が露出する道をすすむ
樹林の隙間から大阪湾まで見える
高安山の山容が垣間見える
開運橋の下に出合う
上がって開運橋を渡る
左の小高いところが高安山の山頂(何もない)

高安城址

信貴山に向かって東へすすみます
高安城倉庫址
奥へ奥へと倉庫址がつづく

この高安城ですが、居住していた跡も、防御のための堀や土塁もみつかっていません。
戦うための設備ではなく、いざという時のために、この山上の倉庫群に塩や食料を保管していたようです。

信貴山城址

さらに東、信貴山へ向かうと、
やがて信貴山城・松永屋敷跡が道横に見えます
下に降りて屋敷跡の曲輪(右上)を見上げる
堀切で曲輪を分割して屋敷を建てていたことがわかる
現地にあった案内板より

現地にあった信貴山城の見取り図をみると、松永久秀がいかにも細心な、むしろ臆病なのかと思えるほど巧妙に曲輪(くるわ)配置を考えていることがわかります。
実際、信長が嫡男(跡取り息子)の信忠に命じて錚々たる勇将、智将とともに攻め立てさせますが、難攻不落。
最後は、力攻めではなく松永方の家臣を寝返らせ、信長方の兵を城内へ隠密裏に侵入させることで落城させています。

左の大きな曲輪は立入屋敷跡
立入屋敷跡

雄嶽、雌嶽

空鉢御法堂より二上山、大和葛城山をのぞむ

雄嶽が信貴山の北峰であり山頂にあたります。
信貴山の東懐(奈良側)には朝護孫子寺というたいへんユニークな御寺がありますが、その御堂のひとつです。

ところで信貴山城があった当時、この山頂には4層の天守が建てられていたそうです。これだけ見晴らしのよい山頂ですから物見目的の天守が必要なはずがありません。松永久秀は権力の象徴として、あえて天守を建てたのだと考えられます。
そしてこの天守が、その後の城では定番となる「天守閣」のモデルになります。

山頂の御堂から本堂のある伽藍へくだる
正面の小高いところが雌嶽(南峰)
雌嶽入口にあった案内板より
朝護孫子寺伽藍まで下りてきました
朝護孫子寺から信貴山・雄嶽をふりかえる

朝護孫子寺は昨年秋にじっくり見てまわっているので今回は素通りします。
たいへんユニークな御寺ですので、興味のある方は、https://yamasan-aruku.com/aruku-64/

王寺へ

もとケーブルカーの軌道があった坂道を下ります
平地に出ると、やがて大和川を渡ります

達磨寺

達磨寺
聖徳太子の愛犬・雪丸の像

聖徳太子が路傍に倒れた老人を助けたところ、その老人こそが達磨大師だったという逸話があります。その現場がここだったということで、ゆかりの寺が建立されています。
境内には聖徳太子の愛犬・雪丸の像もあります。
雪丸は人の話を理解できるだけでなく、御経も読めたとか – – – 話の作りすぎ。

この寺の境内にひっそりと松永久秀の墓があります。(不倶戴天の敵ともいえる)筒井順慶が建てたと書いてありますが、さてさて真相はいかに。

松永久秀の墓

【アクセス】近鉄信貴山口駅~高安山~高安城址~信貴山城址~信貴山~朝護孫子寺~(王寺町)~達磨寺~JR王寺駅 19000歩
【満足度】★★★★☆