VS信玄、上杉家跡目争い、歴史にきざまれた鮫ヶ尾城

【新潟県・妙高市 2023.11.1】
謙信と信玄といえば、川中島の戦いが有名ですが、川中島は越後と甲斐の国境近くにあります。
その川中島から信玄が直線的に侵攻してきたとして、謙信の居城である春日山城への途上に、標高185mの山があります。謙信はこの山上に堅固な城、鮫ヶ尾城を築きます。出城のひとつですが、あきらかに信玄が万一にも侵攻してきたときのため最終防御拠点と考えてつくったものと思われます。
信玄が亡くなったため、武田軍の侵攻はなくなりました。このまま時代がすぎれば、鮫ヶ尾城は歴史の中に埋もれてしまっていたかもしれません。

謙信はあさ厠へ立ったさいに、脳卒中でたおれたと伝えられています。真偽のほどはわかりませんが、急死したのは確かです。ここで問題がおきます、謙信は自分がある朝あっけなく死んでしまうとは予期していなかったので、後継者を決めていませんでした。
謙信といえば篤い仏教信奉者で、生涯不犯(ふぼん:男女の性交渉をしない)を通したため、実子がいません。そこで景勝と景虎のふたりを養子としていました。
景勝は上田長尾家の当主・長尾政景の次男、景虎は北条氏3代当主・氏康の七男、出身がまったく違うので上下関係がなく、おたがいに忖度も遠慮もありません。
ここで必然のように跡目争いがおこります。上杉家が真っ二つに割れて戦う、ぞくにいう「御館の乱」です。

斐太遺跡、斐太神社

鮫ヶ尾城だけでなく、一帯で歴史の里とされていました
斐太神社 / 鮫ヶ尾城の守護社として上杉家も信仰していた
斐太遺跡発掘地

北登城道をのぼる

斐太歴史の里案内所前にあった案内板より抜粋

「現在地」から赤線の北登城道をのぼり山頂城郭へ、下りは黄線の東登城道をくだって戻ることにします。

北登城口
木立の向こうに見えるのが本丸のある山頂部
長い丸太階段を登ります
曲輪なのか帯曲輪なのか、城郭跡らしきものが
この山城の特徴は、各曲輪をくぎり長く伸びる堀切です
このような堀切がときには100mほども続いています
ここも堀切です
2つの曲輪が堀でしっかり分断されています

山頂城郭・本丸周辺

上越、妙高の町を見わたす
山頂付近から背後の山々をのぞむ

さて「御館の乱」ですが、さきに動いたのは景勝で、謙信の居城である春日山城を占拠します。それに対して景虎は、謙信がかつて前関東管領・上杉氏のため城下に建てた「御館」に入ります。当初は景虎側優勢で進展するものの、徐々に景勝側が巻き返し、ついに景虎は敗走します。
この形勢逆転については理由があり、この跡目争いは上杉家だけのものではなく、縁戚関係や地理上の関係がからみ合い、周辺の大名、氏族を巻き込んでの大掛かりな争いに拡大してゆくのですが、さきに春日山城を占拠した景勝は、城にのこされた謙信の遺産である潤沢な軍資金をばらまくことで、同盟関係をより有利に進めてゆきます。そのなかでも、信玄亡きあととはいえ未だ大きな勢力をもつ武田勝頼との手打ちはターニングポイントになったかもしれません。

本丸跡
下にも階段状に曲輪がつづく
本丸跡を返りみる
左上の屋根が見える辺りが本丸跡

さて敗走した景虎ですが、家臣・堀江宗親の導きで、宗親の居城であった鮫ヶ尾城に立てこもります。
本人としてはここで体勢を立て直して逆襲する心づもりもあったのかもしれませんが、じつは先導した宗親はすでに景勝側に寝返っており、進退に窮した景虎はこの城で自刃して果てます。こうして御館の乱とよばれる跡目争いは終結し、上杉家は景勝の時代に移ってゆきます。
ところで上杉景勝といえば、名参謀・直江兼続ですが、この御館の乱においてなんらかの活躍をしたという記録は見たことがありません。兼続が表舞台に出てくるのは、上杉家が米沢に移ってからのことのようです。

東登城道をくだる

手前にずいぶん埋まっていますが、堀があります
東一の丸跡、と表記されていました
ここにも堀切
「大堀切」となっています、たしかに大きい
遺跡発掘場跡

ずいぶん大きな曲輪があると思って先に写真を撮ったのですが、着いてみると斐太遺跡の跡地でした。
早々と麓まで下りてきたことになります。

宮内池の横をあるいて出発地へもどる

鮫ヶ尾城を一回りしてきました。
ところが後から縄張図を見てわかったのですが、今回のぼった北登城道と、くだった東登城道以外にもう一本南登城道があり、この道沿いにさらに曲輪が並んでいたようです。

もしこれから見てまわるのであれば、東登城道を上り、南登城道をくだるのがベストかと思います。北登城道はたんに階段がつづく山道で、有酸素運動には良いでしょうが、山城見物はできません。

【アクセス】レンタカーで回る
【満足度】★★★☆☆