マムシに落とされた揖斐城はいまもマムシに注意
【岐阜県・揖斐川町 2024.1.5】
今日は「青春18きっぷ」をつかって岐阜県の大垣まで遠征します。主目的は大垣城と、その東の長良川沿いにある墨俣一夜城跡地ですが、早朝に大阪を発って昼休みも削って歩き回れば、どうやらもう一ヶ所くらいは訪問可能なようです。
斎藤道三に関する本を読んでいたところ、大垣市の北・揖斐川町にのこる揖斐城(いびじょう)を知りました。
斎藤道三は油商人からはじまり、武人となって頭角を現わし、ついに当時美濃国の守護であった土岐氏の中枢に入り込みます。
まずは弟の土岐頼芸(よりあき)を援けて当主(すなわち現守護)の兄・頼武(よりたけ)を追いやり、頼芸が守護になるとその頼芸を追いやり自分自身が美濃一国の守護大名となります。その剛腕ゆえに「梟雄:きょうゆう」とか「蝮:まむし」と後世に伝えられます。
さて揖斐城ですが、頼芸や頼武よりも5世代ほど前の土岐頼雄(よりかつ)なる人物が築城し、のちに揖斐頼雄と改名、この揖斐城を居城としながら揖斐氏は土岐氏の支族として栄えます。ところが斎藤道三がフクロウだかマムシだかの凶暴さで勢力を拡大する中で、この揖斐城も落城し揖斐氏の系譜は絶えることになります。
ところで登城者用に「クマ、マムシ、ハチに注意」の注意書きがありました。恐ろし!
揖斐城へ
城山をのぼる
南の丸から本丸
二の丸、三の丸、出丸
南北朝時代から室町時代につくられた初期の山城は、石垣がまだなかったため言ってみれば「いかに土を活かすか」で防御を考えました。
まず山の地形を最大限に利用し、生活空間となる曲輪(くるわ : 廓におなじ)を守るために、あるところでは土を掘って横堀、竪堀、堀切をつくり、あるところでは斜面の土を削って切岸をなし、さらにその土を盛り上げて土塁を築き、虎口(入口)を設けます。
遺構としてはもちろん建物もなく、土の作業場を見ているに等しいのですが、当時の人たちが知恵をしぼって土だけの造作でいかに堅固な城を築こうとしていたかを考えながら見ていると、「見る」からいつのまにか「見入る」に代わってきます。そのころにはすっかり山城ファンになっていることでしょう。
搦手口は裏口であり、城を脱出するときに使います。
ここでは敵の大軍から逃避することを想定し、尾根上に逃げ道を確保したため両脇が斜面となって敵軍はどれほど大軍でも横にひろがって駆けることができないことになります。
井戸、そして下城
【アクセス】JR揖斐駅~35分~麓の公園~25分~揖斐城址~揖斐駅 / 14000歩
【満足度】★★★☆☆