大垣城址と墨俣一夜城跡地を訪ねる
【岐阜県・大垣市 2024.1.5】
大垣城が歴史の中ではっきりと記録されるのは、美濃の斎藤道三と尾張の織田信秀(信長の父)による争奪戦が繰りひろげられるようになってからです。
地理的に言うと大垣城は尾張からずっと美濃の領地へ食い込んが位置にあるのですが、その大垣城を織田氏に奪われるというのは美濃をおさめる斎藤氏にとっては喉元に刃を突き付けられたようなものでしょう。
ところが織田信秀が亡くなり、跡取りの信長がその威力を発揮するまでに至らぬうちに斎藤氏は尾張の勢力をぐぐっ押し返し、長良川をはさんで国境をしっかり固めます。
歴史を振り返ってみると、信長はこの美濃との国境を越えるのに大変な労苦を強いられたようです。義父である斎藤道三が息子・義龍との戦いに敗れて果てたのが1556年、そのときから信長は美濃侵攻をはかります。しかしその後1560年に桶狭間で今川義元を討って全国にその名を轟かせ、1561年に義龍が病死し嫡男・義興との小戦には勝利しますが、美濃侵略までにはいたりません。
このあたりから信長は美濃攻めの方針を変えたようです。
義龍を失って屋台骨が揺らぎはじめた斎藤氏の家臣たちの調略を始めます。5年の時がながれ機が熟したころ、当時まだ足軽頭ていどだった秀吉をつかって長良川の対岸(美濃側)に砦を築かせ、そこを拠点に一気に美濃に押し寄せ、翌1567年に美濃を完全に掌握します。
この件(くだり)はよく把握しておかねばなりません。秀吉が長良川の対岸に砦を築いた(これが墨俣一夜城)おかげで信長の美濃侵攻が可能になったと、後世にはすべて秀吉の手柄のように語られていますが、そのまえに美濃の有力な国人衆を懐柔してその諸城を手にし、さらに斎藤家の重臣である西美濃三人衆すべてを味方につけています。すなわち美濃に侵攻してきた織田軍に対して全力で交戦する美濃兵はすでにほとんどいなかったということです。
大垣城
あらかじめ書いておきますと、大垣城は石垣と曲輪を遺構として残すのみで、天守をはじめ櫓や塀などはすべて鉄筋コンクリートで復元したものです。
大垣城はその後、関ヶ原の合戦のまえに石田三成が入城してここを拠点に出陣したことでふたたび歴史に記録されますが、斎藤vs織田の時代はもちろん、関ヶ原の時代にもこれほど堅固なつくりではありませんでした。
このように立派な城になったのは江戸時代になって徳川家が交通の要衝の守りとして改築してからのことです。
城内展示室
住吉灯台
大垣城は「続日本百名城」にも選定されているのですが、一言でいうならトホホでした。
あまりに物足りないので、半時間ほど市街を散策しました。
ここから墨俣までは7㎞強、歩けない距離ではありませんが、資料館が17時閉館のため余裕をもって到着したいので、バスで行くことにします。
墨俣一夜城
長良川をはさんでこちらの岸まで織田軍は迫ってこれたのですが、この川を渡るときに斎藤軍に打たれ手痛い目にあって退却を繰り返していました。
史実では何とかして対岸に砦を確保したいとの信長の要望にこたえ、秀吉が川並衆をひきいる蜂須賀小六の助力を得て、なんと一夜にして砦を築いてみせたということです。
(秀吉ファンに怒られそうですが、絶対ウソだと確信しています)
墨俣には城はありませんでした。
これは資料館としてつくられた城郭風の建物です。
秀吉は後世に自分がいかに偉人であったかを伝えることに腐心したのか、ずいぶんと事実を捻じ曲げ、都合の悪いことは抹消したうえで伝記を書かせています。
さらに江戸時代には徳川幕府に反発する民衆を喜ばせるため、当時の作家がその伝記をウソと誇張でふくらませ太閤人気をあおります。結果として秀吉の実像はかなたに消えてしまいました。
個人的には、墨俣に一夜で砦を築けたはずはないと確信しています。それだけでなく、秀吉の伝記にはあまりに捏造が多いのでつねに疑ってかかることが習慣になったのか、この墨俣に砦を築いた事実があったのかさえも半分は疑っています。
ところでこの墨俣一夜城資料館ですが、パネルと模型が大半で、ここもトホホでした。
生駒吉乃(いこまきつの)は、織田信忠や信雄の母ですが、信長がもっとも愛した側室といわれています。
清楚な美人をイメージしていたのですが、これでは「〇〇幽霊」ではないですか – –
【アクセス】大垣城:JR大垣駅から徒歩15分、墨俣一夜城: 墨俣バス停から徒歩10分
【料金】大垣城資料館(天守)200円、墨俣一夜城資料館200円
【満足度】★★★☆☆