王舎城ともよばれた鹿野城を訪ねる

【鳥取市 2024.2.2】
鳥取市西部にある鹿野城は、因幡の豪族だった志加奴(鹿野)氏によりその原形が造られたのではないでしょうか。その後勢力を拡大する尼子氏に攻め落とされています。
先日訪ねた布施天神山城を拠点に守護をつとめていた山名氏が、鳥取城主の武田某に攻められその尼子氏を頼りここ鹿野城まで撤退した歴史もあります。
羽柴秀吉が鳥取城を落としたのは「飢え殺し」とまでいわれるほどの徹底した兵糧攻めでしたが、その時点では鹿野城はすでに秀吉方のものになっており、尼子氏の旧臣・亀井玆矩(これのり)が城代をつとめていたようです。
亀井玆矩はその後徳川方についたことで飛躍し、鹿野藩の藩主となります(すなわち鹿野城の正式な城主でもある)。それを機に城を近代城郭に改修して王舎城(インドにあった、釈迦が長く滞在し説法を行なったマガダ王国の都の名)、また城下町をととのえ鹿野苑(釈迦が悟りをひらいてはじめて説法した地)などインド仏教に関係した名前をつけています。

幸盛寺

幸盛寺・山門
幸盛寺境内
山中鹿之助の墓

鹿野には山中鹿之助の墓があります。
由来はこうです。玆矩の正妻は鹿之助の娘、すなわち鹿野藩主・亀井玆矩にとって山中鹿之助は義父になります。
玆矩は非業の死をとげた義父の鎮魂の意味もこめて鹿野城下にあった寺を菩提寺とし、鹿之助の本名である幸盛(ゆきもり)から字をもらい幸盛(こうせい)寺と改めました。
なお鹿之助の通称は、兜に鹿の角が脇立として飾られていたことが由来で、「鹿野」とは関係ありません。

鹿野城跡 / 水堀、櫓台、本丸

鹿野城の水堀、石垣、背後の山に天守があった
大舎城(鹿野城)のイメージ図
水堀
石垣
水堀越しの高台に本丸があった(?)
背後の城山に登ってみます

西の丸

いかにも山城へとつづく道
さらに坂道をのぼる
西の丸曲輪に到着 / 礎石が残っている
土塁の跡? / 周囲が盛り上がっている
背後は削ったような急坂 / 切岸?

曲輪群

通常のルートから外れると、
大規模だったと思われる石垣の残骸に出くわす
妙見社
階段状の曲輪群の一部であることがわかる
ここが二の丸?
天守台

鹿野

天守台より鹿野の町をのぞむ
階段状に曲輪が展開しているのがわかる

【アクセス】鍛冶町バス停~幸盛寺~鹿野城跡~(徒歩1時間20分)~JR浜村駅
【満足度】★★★★☆