一宮城が名城であることに偽りなし
【徳島市・2024.5.10】
徳島市の中心街から10㎞ほど西すなわち内陸に入った郊外の地に一宮城はあります。
すでに南北朝時代には当地の土豪であった一宮氏によりつくられていたようで、やがて三好氏が阿波を支配するようになると、一宮氏は三好氏に臣従しこの城を拠点として周囲ににらみを利かせます。
ずいぶん難攻不落の堅城だったようで、四国制覇をもくろむ長曾我部氏が阿波へと進行してきた際にもしぶとく抵抗したようです。またその長曾我部氏が城主となりその後秀吉の四国平定のさいには数万の軍勢で攻め立てられますが、この際にもしぶとく奮戦します。
しかし軍勢の数で圧倒する秀吉の軍の前にやがて落城。秀吉は阿波の国に蜂須賀氏を配します。
その蜂須賀氏は堅城ではあるものの一国を統治するには不便なこの城をはなれ徳島城にうつります。そして家臣の益田某に一宮城は任せることになります。
いま残る曲輪や竪堀、土塁は南北朝から戦国時代の遺構と思われますが、石垣に関してはすべて蜂須賀氏時代のものと考えられています。
一宮城へ
蜂須賀氏が徳島城を居城としてから、その防御として周囲をかこむように九つの支城を築きます。
それが俗に阿波九城と呼ばれるものですが、調べたかぎりではこの一宮城が規模が大きいだけでなく、もっともよく遺構がのこっており、ぜひ訪ねてみたい城としてピックアップしていました。
南城
一宮城はふたつに区切り、ここまでの才蔵丸、明神丸あたりを南城とよび、これから向かう本丸あたりは北城にあたるそうです。
おそらく地理的な意味だけでなく、北城のほうが中心になり、南城は出城のような位置づけだったのではないでしょうか。
本丸
本丸の石垣、なかでも虎口にあたる部分は屈曲させるなどの工夫はないのですが、その上る石段そのものが幅狭でしかも急勾配であり、それだけで十分な防御機能を備えていると言えます。
ずいぶん特異な石垣づくりであり、必見です。
小倉丸から陰滝へ
陰滝は水の手丸のすこし下流になります。
すなわちこの谷間から一宮城へと攻めあがるにはこの滝のかたわらの岩場を登らねばなりません。
まったく完璧な防御機能をそなえた堅城です。
※ここはロープをたよりに上り下りすることになります。少々スリリングで楽しめます。
【アクセス】一宮札所前バス停からすぐ
【満足度】★★★★☆