ノーマークの三石城で山城の魅力を満喫
【岡山県・備前市 2024.7.4】
月に1回程度のペースで倉敷市に私用で出向くのですが、往路は午前の早い時間についておく必要があるため新幹線で向かいます。ところがたいていの場合は正午過ぎには要件は片づくため、そのまままっすぐ自宅のある大阪へ戻るのももったいないような気がして、大抵は普通電車を乗り継いでどこか城なり社寺なりに寄り道することにしています。
ただ今日は梅雨の晴れ間でなんとも蒸し暑いので、あまり長時間歩き回ると熱中症の心配もあります。
そこで地図で確認しながら調べたところ、JRの山陽本線で倉敷から大阪方面へと向かい岡山県の東の端、その先は兵庫県との県境というところに三石城があるのですが、詳しく見ると最寄りの三石駅からは目と鼻の先であることがわかりました。
標高291mの山上にある山城ということですが、すぐに山道に入れるのであれば木陰になり土の地面であれば放射熱もなく、さすがに快適ではないものの苦行のようなことはないはずです。
結果を先に言うことになりますが、ぜひ行きたいと探したのではなくどちらかと言うと消極的な理由でえらんだ三石城でしたが、訪ねてみるとこれがなかなかの収穫でした。
登山道をのぼる
JR三石駅から登山口(登城口)までは徒歩5分。
かつて城が存在した山は、その山そのものが有名でないかぎり大抵は城山と名づけられており、ここも例外ではありません。
山肌が岩だらけでまるで播磨(播州)の山を登っているようなと思っていたのですが、考えてみるとすぐ東の先の県境をこえると備前から播磨へつながるのですから、地質が似ているのも当然でした。
三石城は南北朝時代に地元の豪族である伊藤某が南朝方に加勢し築いたのが始まりのようです。
その伊藤某はここ三石城を拠点に西から京へと攻め寄せる北朝勢をくい止めるのに一役買ったそうですが、ここから20㎞ほど東にある播磨の感状山城では北朝方に加勢した赤松氏が、敗れていったんは九州へ落ちのびる足利尊氏の軍勢を援けるため、その感状山城で東から追撃してくる南朝勢をくい止めた歴史があります。
室町時代になり赤松氏が備前の守護職につくと、浦上氏が守護代として三石城に入城。
その後山名氏の台頭により赤松氏が備前の守護の地位を奪われますが、応仁の乱のどさくさの中でふたたび守護職に復帰、同時に浦上氏も守護代に復帰します。
しかし赤松氏の勢力には陰りが見えはじめており、下剋上をもくろむ浦上氏が反乱の狼煙をあげます。赤松氏は三石城を攻めますが落とせず、ついには浦上氏が備前の守護職につくことになります。
イラストでいうとその右側から登ってきました。
これから三ノ丸→二ノ丸→本丸→鶯丸とあるき、そこから堀沿いにくだって本丸の真下に描かれた大手門へと向かうことにします。
※そのあとですが、大手門から下へ降りる道はどこへ抜けるのか不明なため、坂をのぼって三ノ丸まで戻り来た道をひき返しました。
三ノ丸から二ノ丸へ
本丸
ここにもわずかな盛り上がりが残るのみですが、土塁跡が見られます。
外(右)側にむかって深く切れ込んでいますが、これは人の手による切岸ではなく、天然の山の傾斜を利用したものと思われます。
なお散乱する石ですが、「軍用石」と説明板がありました。軍用石とは、攻めてくる敵に投げ落とす武器の代わりにつかう石のことです。
このあたりに散乱する石は、投石用としては大きすぎるので、建物の基礎を固めるとか、本丸内にさらに防御のための石垣を組んでいたその残骸ではないでしょうか。
鶯丸から大手門へ
石の組み方は粗い野面積みですが、赤松氏の時代にはそもそも山城に石垣を組む発想自体がなかったはずで、浦上氏の時代になってから造られたものだと考えられます。
なお大手門の石垣もよくわかりませんが、矢倉台跡の石垣については一度崩壊したものを後世に積み直したのではないかと思えてなりません。もちろん組み直したからと言って、この三石城の価値が下がるわけではなく、たいへん見ごたえのある山城でした。
【アクセス】JR三石駅から登城口まで徒歩5分
【満足度】★★★★☆