炎天下で豊橋吉田城、田原城をあるいてバテバテ
【愛知県・豊橋市、田原市 2024.7.26】
青春18きっぷをつかって今回も遠方まで足を伸ばそうと欲張り、愛知県の豊橋まできました。
天気予報を仔細に見ていると、東海地方では名古屋、浜松が突出して高温にみまわれる土地柄のようで、理由はわかりませんがその間にある豊橋はいくぶん日々の最高気温が低めのようです。
とはいっても、やはり暑い、なによりも湿気がひどい、もちろん熱中症警戒アラートは発令されています。
JR豊橋駅から日傘をさして吉田城のある豊橋公園まで歩きました。
吉田城
吉田城は戦国時代初期には今川氏の三河支配のための拠点となっていましたが、桶狭間の戦いで今川義元が討死してからは急速に力を失います。かわって今川家からはなれ独立した松平(のちの徳川)家康が奪取、家康は岡崎城を居城とし、この吉田城には重臣の酒井忠次を配します。
吉田城が大きく変わるのは戦国時代末期、秀吉が家康を関東へと押しやり、身辺を固めるため養子としていた池田輝政(山崎の合戦や小牧長久手の戦いでともに戦い秀吉が天下人になる助力となった池田恒興の次男)が城主として入城してからです。
この池田輝政はのちに播磨に移封されてから姫路城をいまにのこる威容に大改修した人で、ここ吉田城もずいぶん立派な城に仕上げていたようです。
残念ながらいまでは本丸とその周辺の曲輪、石垣などがわずかに残るのみで、はっきり言うと、見る影もありません。
田原城
吉田城があまりに物足りなかったため、ご当地の豊橋鉄道にのって渥美半島の中央あたりにある田原城にむかいました。この田原城は、今川、松平、池田、そして徳川の時代を通して吉田城の支城の役目を担っていたようです。
田原城も遺っているものはこれだけでした。
今日一日が徒労だったとは言いませんが、思い出として残ったのは「暑かった」のみ。
吉田城見学が正午ごろ、これだけでも暑さにバテ気味だったのに、さらに昼過ぎから夕方にかけての暑さの盛りに田原城まで遠征したためいっそう堪えました。
【アクセス】豊橋駅~吉田城 1.8km 、三河田原駅~田原城0.8km
【入場料】ともに無料
【満足度】★★★☆☆