浜田城にて、案内板を最大限につかって楽しむ
【島根県・浜田市 2024.7.31】
浜田城の歴史はそれほど古くはありません。
伊勢国松阪藩の吉田某が、大坂の陣のあと徳川氏主導の報奨をふくめた国替えにより5万余石で入封し、石見国浜田藩主となると同時に城づくりをはじめます。その後は、本多氏、松平氏など徳川将軍家と関係のふかい武将が入れ替わり藩主をつとめます。おそらく大幅な減封を強いられたことで徳川家に恨みをもつ毛利氏への山陰側の抑えの意味もあったのでしょう。江戸時代の毛利氏・長州藩は萩に居城をかまえており、その長州藩と隣接し萩を山側から見下ろす位置にある石見国津和野にはやはり徳川家と昵懇の亀井氏を藩主として配しているので納得できます。
幕末になると長州藩は倒幕をかかげて武装蜂起しますが、案の定京都をめざす過程で浜田城を攻撃の第一目標にします。ここで激戦があり浜田城を死守する浜田藩兵の奮戦により長州軍は足止めを食い – – – となっていればより深く関心をもって調べてみる気持ちにもなるのでしょうが、家康や秀忠が後難の憂いのなきよう浜田藩をおき浜田城を築かせてから二百数十年も経てば、しかもその間大きな戦もない時代であれば、地方の武士が武士とは名ばかりになっていても致し方ありません。
このとき浜田藩の藩主は一戦もまじえず逃げてしまいます。もちろん兵たちも雲散霧消、それだけならまだしも城と城下町に火をつけて遁走したためすべて灰燼と化してしまいました。
階段をのぼって二の門へ
浜田城址には、随所にCGで復元した画像とともに詳細な説明をくわえた案内板があり、これらを参考に見て歩くと、ことに城歩きを始めたばかりの人には当時の様子がイメージしやすいものと思います。
またこれによって城郭ファンが増えることも期待できます。
本丸にて
出丸、
【アクセス】レンタカーで回る
【満足度】★★★★☆