明治天皇陵のふもとにある乃木神社をたずねて
【京都市伏見区 2024.8.24】
「天下は一人の天下にあらず乃ち天下の天下なり」という言葉が中国の兵学書・六韜のなかにあります。天下は君主一人のものではなく万民のものだという考えで、現代の感覚からいっても至極真っ当な言葉です。
この言葉を下敷きにして吉田松陰は「天下は万民の天下にあらず、天下は一人の天下なり」と言っています。「一人の天下」の一人とは天皇のことです。
単純に読むと、偏執的なまでのガチガチ尊王思想のようですが、吉田松陰がのこした名言の2つ3つでも知っていれば、そんな単純なものではなくさらに深い意味があるはずだと容易に察しがつくはずです。
すなわち封建制の江戸時代から近代国家へと生まれ変わる段階で、天皇を中心としてその下(もと)で万民がまとまって国を形作りさらに国を動かしてゆく、というようなことを言いたかったのでしょう。
尊王思想ではありますが、天皇は神ではなく万民と一体となっていると捉えるべきです。
ところが、その天皇を神格化することで尊崇の対象とし、万民は天皇と一体であるがゆえに日本国民であるならば天皇にはたとえ命を賭してでも忠心を尽くさねばならないと、なんとも国民にとっては理不尽な理屈を押しつけてくる連中があられます。思想的には、本来美徳であるはずの愛国主義が右傾化しさらに先鋭化して国家主義へと流れたとでも言えばよいでしょうか。
(ちなみに国家主義とは国家を第一とし、国民よりも国家を優先する考え)
そもそも日本において天皇は尊敬される存在でした。
なかには天皇のためにみずからの命を捧げることに大義を感じた人がいました。たとえば楠木正成。
もしかすると、乃木希典(乃木大将)は明治天皇が崩御された後、自分が生きている大義名分がないと考えたゆえに自決を選んだのでしょうか。
ちなみに乃木希典は、冒頭にかいた吉田松陰とおなじく、松下村塾を創設した玉木文之進から薫陶を受けています。
明治天皇陵を仰ぎみる乃木神社
明治天皇が崩御されたのが明治45年7月30日、そして9月13日に大喪の儀がおこなわれますが、その日の夜まさに明治天皇の遺体をのせた車が出発する合図の号砲がひびいた刹那に、乃木希典は妻静子とともに自刃します。
乃木希典の辞世の句は、「うつし世を神去りましし大君の御あと慕ひて我は逝くなり」
この乃木神社は近畿を中心にした全国の民間の人々の尽力により創建されたそうです。
そこには政治的な干渉はなく、純粋に乃木大将を敬慕する一般の人たちの志から生まれたと言ってよいでしょう。
乃木大将は軍人としてはけっして有能ではなかったようです。じっさい旅順攻略に行き詰まっていたときには乃木を解任しろとの怒りの声は少なからずありました。
乃木大将がそれほどに敬慕されたのは、軍人として有能ゆえではなく人として有徳ゆえのものでした。
逸話はたくさんあります。その逸話がマスコミ(おもに新聞)で紹介されるにしたがい、乃木希典は人としての美徳を兼ね備えた徳人、武士道をまさに具現する軍神としてひろく知れわたります。
そして明治天皇の大喪の日に殉死。それ自体がセンセーショナルですが、そこには天皇にみずからの命をささげようとする忠心が鮮やかに顕れたかもしれません。
乃木大将を軍神として崇め、その軍神がみずからの命を賭して天皇への忠心をつらぬいたことをひろく国民に知らしめることがプロパガンダとなったのはいつからなのでしょうか。
日清戦争の公的な記録については、真実をただしく伝えていた決定稿が没にされ軍部にとって都合よく改竄されていた事実が、のちにその没になった決定稿が世に現れたことで後世に知られることになりました。
(渡辺延志氏の著作「日清・日露戦史の真実」による)
太平洋戦争における大本営発表の欺瞞を知る我々としては、そのあとの日露戦争においても真実がそのまま伝えられたとは到底信じられません。
幸せに成りたい(鯛)にしろ、全てに勝ちま栗(かちまくりと勝負時にゲンを担ぐ勝栗)にしろ、下手っぴなダジャレでしょう。
清廉潔白で物静かな老爺のイメージがつよい乃木希典とダジャレとはまったくイメージが合わないのですが、たしかに学習院長時代にも本人がダジャレを言って生徒たちを笑わせていたとの記述を読んだ記憶があります。
ダジャレをいう乃木希典では神にしづらいので、そこのところは抹消したということでしょうか – – –
【アクセス】JR桃山駅から徒歩10分
【満足度】★★★☆☆