諏訪大社の謎:喧嘩に負けた神様が軍神になった理由
【長野県・茅野市、諏訪市、諏訪郡下諏訪町 2024.11.4】
諏訪大社は上社の前宮、本宮、そして下社の春宮、秋宮の4社からなりたっています。
もともとは上諏訪神社、下諏訪神社というべつべつの神社だったものが明治時代に国の管理になってから統合され一つになったようです。またそれぞれに前宮・本宮、春宮・秋宮の2社があるのは伊勢神宮に外宮・内宮があるように、あるいは京都に上賀茂神社と下鴨神社があうようにそれぞれ関係した別々の神様を祀っているなどそれほど珍しいことではありません。
いぜん出雲大社について書いた折に古事記にでてくる大国主命(オオクニヌシ)から天照大御神(アマテラス)への国譲りの話に触れましたが、諏訪大社の由緒はそこに密接に関係しています。
アマテラスの使者として天上界(高天原)から地上界(葦原中国)へ降臨した武甕槌神(タケミカヅチ)は、オオクニヌシに対して現在貴方が治めている葦原中国はそもそもアマテラスの子孫が治めるべき土地ゆえ、いまここで譲りわたすようにと要請します。
それに対してオオクニヌシが判断は息子にゆだねると返答したところ、息子のひとりは畏れ多いと恐縮してすぐにでも譲ることを約します。ところがもうひとりの息子である建御名方神(タケミナカタ)は剛力無双を誇示するように巨岩を軽々とかついで現れ、タケミカヅチに対して力勝負で決めようと不敵に挑戦します。
ところが勝負はあっけなく、赤子の手をひねるように投げ飛ばされたタケミナカタは出雲から一目散に逃げだし、たどり着いた先は科野(信濃)の諏訪湖。ところがあっさり追いつかれ殺されそうになると葦原中国は差し上げますと命乞い。あげくに今後けっしてこの地(信濃諏訪)から外へは出ませんと誓います。
このタケミナカタが、上社本宮と下社春宮秋宮の主祭神です。(上社前宮の主祭神は妃の八坂刀売神ヤサカトメです)
ここで腑に落ちないことに気づきます。なぜ平素はいばった乱暴者で負けたとなるとあまりにもカッコ悪いこのタケミナカタが祭神しかも主祭神なのでしょうか。しかも神格はといえば水神、風神でありさらに軍神でもあります。
タケミカヅチが鹿嶋神社の軍神として祀られているのは上記の逸話からも納得できますが、タケミナカタが軍神として祀られることに諏訪の人たちは納得したのでしょうか。と、おもって調べてみると上のタケミナカタの話は(大和が編纂した)古事記に書かれているだけで、諏訪および信濃につたわる地方史には異なるニュアンスで書かれているようです。
たとえば、オオクニヌシが信濃を平定するためにタケミナカタを派遣した、あるいは信濃で勢力を拡大するタケミナカタをアマテラスが討伐した等々。
上社前宮
上社前宮は諏訪4社のなかでもっとも歴史がふるく、言い換えるとタケミナカタとヤサカトメはここにまずは腰をすえたということのようです。
そののち上社本宮、下社春宮秋宮がつくられるとともにタケミナカタは引っ越します。
さらに、前宮は本宮の摂社という位置づけがなされます。摂社とは本社(この場合は本宮)に付属するものですから格下になったわけです。
※明治時代に見直され前宮、本宮は同格の2社と改定されます。
さらにさらに、タケミナカタを先祖とする諏訪大社の大祝(おおほうり:諏訪大社において最高位にある神職)も長くこのあたりに居住していましたが、明治維新以後大祝職が廃止されます。
いくつもの事情で上社前宮はいまではすっかりさびれた感がありますが、歴史的には最重要と言ってもいいかもしれません。
上社本宮
諏訪大社においては最初にたずねた上社前宮以外には本殿がありません。
ここ上社本宮においては背後の守屋山が御神体になり、それゆえ御神体にあまり近づかないようにとの対処なのか一般参詣者は拝殿にも近づくことができません。
上社前宮にのみ本殿があるのは江戸時代に前宮が本宮の摂社になった(格下になった)歴史があり、そのため本宮の御神体を勧請する意味でつくったとの記述もありましたが、正確なところはわかりません。
タケミナカタが出雲でころりと負けて諏訪まで逃げてきて追いつかれて詫びを入れただけで終わったのでは祭神しかも軍神として祀られることはなかったはずです。
諏訪地方では異なる書き方をされていますが、大和においては負け犬として解釈されているのは確かです。
タケミナカタが諏訪へ逃れてきたのは国づくりの頃ですからあきらかに紀元前と考えられます。
それゆえ西暦72年に伊勢で生まれたとされる日本武尊(ヤマトタケル)が東征をおこなったときにはタケミナカタあるいはその子息がすでに信濃にいたということになります。
ヤマトタケルの東征については、草原で火攻めにあったので草を薙ぎ払って逃れたためその剣を「草薙」と名づけ、蛮族をすべて焼き殺したのでその地を「焼津やきづ→やいづ」と呼ぶ、などなかなか興味深い記述があります。
それはさておき、いまでいう東海から関東、東北で難なく征伐をかさね、常陸から甲斐をへて信濃に入ります。
信濃では諏訪まで往ったという記述はありませんが、当地が山たかく谷ふかく、岩はけわしく坂はながい、人は杖をついても登り難いとその往来の困難さを語っています。これは外の者にとっては攻めにくく現地のものにとっては守りが固いことを意味します。
ヤマトタケルも山中で道を見失い進むべき方向さえ分からなくなったところに白い犬が現れて導いてくれたおかげで美濃へと抜けることができたとなっています。
信濃の地が要害堅固であることをやたらに詳しく書いてあることは注目すべきでしょう。
ここでもうひとつ気になる記述があります。
ヤマトタケルが峠で食事をしていたところ山の神が悪だくみをもって白い鹿になって接近します。ヤマトタケルはその正体を見抜き、蒜(ひる)で叩いたところそれが鹿の目にあたって死んでしまうとなっています。
鹿をたたいた蒜とはニンニクのことです。
さらにその峠を越えるときには、蒜をかんで人や牛馬の体にぬると無地通過できるようになったと記されています。
後半部はニンニクの効能を考えると頷けるのですが、前半部の蒜で鹿をたたくとは何を伝えようとしているのでしょうか。しかも蒜ニンニクの登場の仕方があまりに唐突です。
そもそもニンニクの歴史を調べてみると、日本に伝わったのは7~8世紀で、一般に食すようになったのは江戸時代と書かれていました。ヤマトタケルの東征は西暦1世紀のことですから地元の伝承として伝わっているのではなく、あきらかに創作と考えるべきです。
ヤマトタケルの父である景行天皇は143才まで生きたことになっているので、日本書紀のなかでもこのあたりはほとんど創作であることは了承していますが、それにしてもなぜわざわざニンニクを登場させたのでしょうか。
※ここにでてくる峠ですが、長野から岐阜へ抜ける道上に「神坂峠」とよばれる地があります。この峠であることはほぼ間違いありません。
下社春宮
最初に建てられたのは春宮でしたが、そののち建て替えのさいに同じ図面をつかって秋宮が建てられます。
それからは半年に一度、8月1日に春宮から秋宮へ、2月1日には秋宮から春宮へ神様を遷す神事、遷座祭が行われることになります。
そして遷座祭の本番では柴舟とよばれる5トンもの巨大な舟がひかる神事がおこなわれます(お舟祭り)
下社秋宮
手持ちの書籍にも納得のいく記述がなく、タケミナカタがなぜ軍神となりえたのかを探る道筋がここにきてプッツリ途切れてしまったと腕組みしていたところ – – むかしは思考が行き詰まったらトイレに行くとひょいと新案なり妙案なりが浮かぶと言われたものですが、いまの時代にはとりあえずパソコンを弄ってみるにかぎります。
するとアマゾンのKindle版電子書籍で、福澤健太郎氏の「出雲大社の起源を探る-遥かなる出雲の記憶」に出合いました。
この著作は全国の古墳を時代ごとに表にならべて当時の各地における勢力図と信濃の豪族の立ち位置を詳細に解釈してゆく労作であり良書ですが、参考にするところが大でした。
1)まずタケミナカタが出雲からどのようにして遠く諏訪まで来たかというと、信濃の北で海に面する越後までは陸路ではなく海路だと解説します。
※ここで思い出してください、下社春宮・秋宮でおこなわれる遷座祭のさいに舟が登場するのはここに起源があると考えられませんか。
2)出雲は古代から朝鮮半島との海路がひらかれており、また越後にも同じく朝鮮半島との海路があった。すなわち遠く離れているとはいえ共通点がある。
※このことは出雲、信濃両所にのこる弥生時代の古墳から鉄器が出土していることから立証できます。(鉄器は弥生時代に朝鮮から渡来したとされています)
3)石を積みあげてつくる石積塚古墳は、現在長崎県の対馬、香川県や徳島県、そして信濃に多く残っていますが、信濃のものに関しては出土品から渡来人(朝鮮民族)のものであると確認されています。
※ふたたび思い出してください、ヤマトタケルの逸話に唐突にニンニクが出てきたこと。ニンニクの生育と食習慣は朝鮮民族の方がはるかに先であることは間違いありません。
4)福澤氏は朝鮮からの渡来として(ニンニクについてはまったく触れていませんが)馬の存在をあげています。さらに越後が豪雪地であったのに対して信濃がずっと雪が少なく広大な山腹と草原にめぐまれ馬の飼育に適する環境だったため、この地で放牧がさかんに行われるようになったのではないかと述べられています。
タケミナカタは態度がデカいだけで弱虫とは言わないまでも膂力は並の上ぐらいだったかもしれません。
しかしその子息は(ヤマトタケルでさえも難渋するような)山々にかこまれた要害堅固な地で身を守りながら、馬を有し、鉄器を得て、これなら膂力は並の上でも武力となると当時としては最強であったかもしれません。
忘れていました、ここにニンニクパワーが加われば百人力、軍神に祀り上げられるのも当然です。
手塚治虫のマンホール
手塚治虫氏は、鎌倉時代に諏訪大社下社大祝をつとめた金刺家の末裔だそうで、その縁でアトムと諏訪大社下社のマンホールがつくられたと案内板にありました。
【アクセス】車と徒歩
【料金】4社とも無料です。また4社とも近くに無料駐車場があります。
【満足度】★★★★☆