ひきたと読めば引田天功、ここはひけたと読む引田城

【香川県・東かがわ市 2025.9.17】
東西に横長な香川県のずっと東の端、まもなく徳島県との県境をこえて鳴門海峡から淡路島に到るというあたりの、瀬戸内海に突きでた岬の山上に引田城はあります。
なお「ひけたじょう」と読みます。「ひきた」と読めばマジシャンの引田天功、「ひいた」と読めば興ざめということで誰も訪ねてはくれなくなります。

それでは歴史をざっと。
そもそもは室町時代の守護職・山内氏の家臣である寒川氏の、そのまた家臣である四宮氏の居城でした。
守護の家臣の家臣ですからそれほどの大物ではありません。すなわちさほど大物でもない人物の城だったわけで、そのまま終われば今の時代に国の史跡に指定される(続日本百名城に選定もされている)こともなかったでしょう。

織田信長がこの世の現れなければ、おそらく最初に武士として天下統一を成し遂げたのは三好長慶であろうといわれています。その三好氏の出身地は徳島県(阿波)の三好市、三好郡あたりで、そこから讃岐へと勢力をのばしこの引田城も我が物とします。
信長の出現で三好氏の勢力は畿内から一掃され、四国でも土佐の長曾我部氏の台頭でしだいに影が薄くなってゆきます。そんななかで本能寺の変により信長が横死。
信長の死による時世の混乱に便乗して畿内へ攻めあがろうとした長曾我部氏を抑えるべく、秀吉は若い時から馬廻衆をつとめていた仙石秀久を差し向けます。
仙石久秀は淡路島を攻めくだりこの引田城にかまえて果敢に戦いますが、そこは四国の虎の異名をもつ長曾我部元親のこと、力攻めに攻め立てたため仙石勢はたまらず城を捨てて敗走します。

この時点での引田城は石垣も石組もない、土塁と堀だけで防御された室町時代の山城のまんまだったものと思われます。
秀吉は天下統一も大方なし終えたころ、信長の従兄弟でもあり重臣ともいえる生駒親正に讃岐一国をあたえます。
引田城に石垣の防御が取り入れられたのはこの親正の時代のことと推定されます。 
しかし石垣で守りを固めたもののその後は戦乱もなく、江戸時代に入ると一国一城令が出され、引田城は廃城となりしだいに朽ち果ててゆきます。

引田城・北曲輪から北二の丸

登城口近くの駐車場にあった案内図より抜粋

赤で記された【現在地】から北曲輪へ上がり、北二の丸へ、そこから時計回りに一周して東の丸、化粧池、天守台、本丸とみて、北二の丸へもどって元の駐車場へと下ることにします。

登城道というより、登山道と呼ぶ方がふさわしい?
このあたりが北曲輪 / 標識は完備
崩落防止のためシートでカバー

一瞬目が点になりましたが、
これは北二の丸のなかでも「上段の石垣」。
見処となる北二の丸の石垣は脇道を下りたところにあります。

朽ちながらも健気に?のこる石垣
必要以上に手を加えていないところが良い

物見台、東の丸、化粧池

東の丸と思しきあたりにのこる巨石
物見台跡?と思われる
なんだか人の手が入った、虎口跡のような
現代につくられた灯台
ここも見晴らしがよく物見台として使われていた?
化粧池
画像ではわかりませんが、池の縁にも石組がのこる

ネットで調べると城内の女性たちが化粧するのに使っていた池と説明がありますが、ほかに井戸跡なども見られないので飲用水の水源でもあったのかも知れません。

天守台、本丸

ロックラかよ、というような岩登りをこなすと、
いかにも物見台があったと思われる曲輪に出ます
そこから瀬戸内海を眺める
天守台跡
本丸石垣
ここから本丸上へ上がれるようですが、
崩落がひどいのでやめておきます。

引田城は江戸時代初期に廃城になったということで朽ちているのは仕方ありません。
むしろ必要以上に手を加えずに保存に努めているところは感心しました。

それにしてもこの本丸の石垣など、ずいぶん危うい状態のところもあります。
ここに上がって怪我をしたところで無理に上がった人の自業自得ですが、国の史跡を壊すのであれば刑罰ものです。
早急に上がれないように処置をすべきです – – – とはいえ真っ赤な三角コーンを並べるのはやめてください !!!

【アクセス】車にて
【満足度】★★★★☆