能島村上氏は海賊であり続けたかったのか

【愛媛県・今治市 2025.10.4】
日本200名城(日本百名城+続日本百名城)を制覇するのは目標ではないものの、できるものなら制覇してみたいと思っています。
その200の城の中で、住まいのある大阪から比較的近いにも関わらずなかなか行き難い城のひとつに能島城があります。なぜ行き難いかというと、瀬戸内海にうかぶ小島であること、そして無人島のため定期航路がなくツアーで行くしか方法がないこと、しかもそのツアーは週末と祝日にしか実施されていないこと。

今回愛媛県をまわる旅程を組むうえでは、一番に能島城訪問が週末になるよう注意をはらいました。
週間天気予報でも週末は天気が崩れるとのことだったものの、海が荒れて船が出ない以外はOKということで。
当日、前夜から雨が降り続いていたものの、船着き場に着くころには小降りになり、船が出港するころには完全に雨はあがりました。

能島へ

この船で能島へ

この日のツアー参加者は40人ぐらい。
ガイドがふたり同船し、上陸してからは2グループにわかれて見学します。
往復に30分、上陸後の散策が45分の計75分。料金はひとり3000円。
高いか安いかはそれぞれの判断でしょう。

真ん中にみえる小島が能島
能島の全容 / 島中央の一段高いところが本丸
左は鯛崎島、ここに出丸があった
出丸とは本城から離れた位置にある見張り場的な曲輪
(能島の東より)
このはげしい潮流が島(城)を守る最大の防御
(能島東北角の崎、この上が武器庫などのあった矢びつ)
船溜まり
(能島北部海岸)
南部平坦地 / 右端に現在の船着き場がある
(能島南部海岸)

能島へ上陸

村上海賊ミュージアムにあった散策マップより抜粋

鯛崎島を見ながら東部海岸をすすみ、矢びつのある東北角の崎をまわり、船溜まり(砂浜)を見て、三之丸のある崎をまわって南部平坦地へ。
青の逆 Ⅼ字で記された桟橋から上陸します。

能島村上氏をあつかった書籍でいえば、和田竜氏の『村上海賊の娘』が発行部数から見ても群を抜いて著名ですが、この著作は小説であり史実を踏まえてはいるものの、ほぼほぼほぼ創作です。読んで面白いということではオススメしますが、これを読んで村上氏の実像がわかるというものではありません。
それではと、山内譲氏の『瀬戸内の海賊・村上武吉の戦い』と、歴史読本編集部編の『戦国最強の水軍・村上一族のすべて』の2冊を読みましたが、もうひとつ実像がはっきりとつかめません。

なぜかというと、村上一族は歴代の武士(武家)ではないため村上家としての歴史を残していないことが大きく影響しています。
村上氏が武士でなければ何なのかといえば、和田竜氏も山内譲氏も本のタイトルに書いてあるとおり「海賊」です。
海賊というと、襲撃 → 殺傷 → 略奪のイメージが強いですが、当時の海賊は自分の縄張りを航行する船舶から通行料を徴収する、粗暴な賊徒から守るためにその船を警護するなどを主な生業としていました。
武士(武家)との大きな違いは、幕府に従わず、その幕府が任命した歴代の守護(名門武家)にも従わず、独自の価値観で乱世を生き抜こうとした、アウトロー集団です。
その意味では、楠木正成くすのきまさしげに代表される「悪党」にかぎりなく近いと言えるのではないでしょうか。

南部平坦地
ここに船着き場や倉庫があった
ところどころに石積がのこる

三之丸

三之丸に上がってきました
三之丸先端部
このあたりに礎石などの建物跡が多数見つかっている
はずですが、痕跡はどこにもありません
三之丸から船溜まり(砂浜)と二之丸、本丸を見る
三之丸から二之丸へ

戦国時代といえば下剋上といわれますが、そもそも武家は「家」を残すことを第一に考えていました。
天下制覇(統一)を考えたのは三好氏や織田氏などごく稀で、毛利氏や武田氏にしても限定された地域での勢力すなわち土地を守ることに注力しており、まして弱小武家は勢いのある他の武家に従属することで(ともに勢力拡大をはかるというよりも)生き残る道を求めます。

一方、悪党の代名詞的な存在である楠木正成が名を馳せたのは、鎌倉幕府をたおして天皇中心の建武の新政をはじめようとする乱世のとき。
正成は後醍醐天皇の呼びかけで立ち上がりますが、これは源・北条という武家がまつりごとの中心にいる国の在り方を良しとせず、後醍醐天皇のめざす天皇中心の国づくりに尽力しようとしたものです。
それゆえ、足利尊氏が共にたたかって鎌倉幕府を倒してのち後醍醐天皇に反旗をひるがえしてからも、負け戦になる(同時に楠木家が滅亡する)のをわかっていながら、さいごまで天皇の下で戦います。

村上源氏を始祖としながら悪党のごとき生き様をしていた赤松則村(円心)は、鎌倉幕府を倒したあとの論功行賞への不満もあったのか、いつのまにか後醍醐天皇傘下からはなれ、初戦で足利尊氏がやぶれて九州へ退避するさいには地元の播磨で新田義貞ひきいる宮方の大軍を足止めする形で足利方(武家中心の、のちの北朝)にしたがうことになります。

二之丸から本丸

二之丸から三の丸をみる
二之丸にのこる建物の遺構(支柱は後世作ったもの?)
二之丸から本丸へ上がる
本丸から矢びつ方向を見る
本丸跡
前方に本丸出丸、その先に鯛崎島をみる
ツアーの哀しいところは、先端まで見にいく時間がない

三島村上(因島村上、来島村上、能島村上)といわれますが、始祖は同じであるものの三家が合体して活動していたわけではないようです。

能島村上氏(ここでは村上武吉、その長男・元吉)についていえば、さすがに楠木正成の時代とはちがって他の武家とはいっさい主従関係をもたず独立した海賊として生きることは不可能だったようで、たしかに〇〇家にしたがって〇〇合戦に加わったという記録も見られるのですが、どうもはっきりしません。

たとえば陶氏と毛利氏がたたかう厳島合戦では、村上水軍の活躍があって毛利軍が勝利したとされていますが、最近の研究ではここにいう村上水軍とは来島村上のことで能島村上が参戦していたのかは不明。(因島村上は参戦していない可能性が大)
厳島合戦のあと水軍力の必要性を痛感した毛利氏(元就)がしきりに村上氏を勧誘する書状がのこっているものの、その間にも能島村上氏は三好氏に従っていたとする記録もあれば、毛利氏から能島村上氏(武吉)への感状(能島村上が毛利軍のために戦功をあげたことに対する感謝状)もありで、実体がどうだったのか掴みがたい。
その後も能島村上氏は毛利氏の下で水軍力を飛躍的に高めたとの記録があるものの、一時期は毛利氏から離脱して敵対する大友氏(宗麟)の側についたという確かな記録もあり、能島村上氏がよほど嗅覚鋭く利につながる相手を選んでいたのか、あるいはなんらかの揺るぎない価値観でしたがう相手を変えていたのか、あるいは単に移り気だったのか、そのあたりはよくわからんとしか言いようがありません。

ひとつ確かなことは織田軍と毛利軍の石山本願寺をめぐる木津川の戦いでは、毛利方の水軍として織田軍の軍船を壊滅させているので、この時点では毛利氏に確固と臣従していたのでしょう。
しかし二度目の木津川の戦いでは、織田軍の鉄板装甲をほどこした新造船に逆に壊滅させられ、そして信長の死後に跡をついだ秀吉が覇権をにぎると、秀吉に重用される毛利氏・小早川隆景との主従関係もしだいに不安定なものになってゆきます。

本能寺の変から3年、秀吉は四国平定を命じます。
小早川隆景の担当は伊予国征伐、このとき村上武吉は意外な行動にでます。
そのころ伊予国の領主は河野氏でした。能島村上氏は勃興期に河野氏の家来ではないものの(形式上は河野氏が守護だったので家来というべき)海賊として付かず離れずの互いに良い関係を保っており、そのときの恩義なのか厚情なのか、能島村上氏は伊予国征伐には従軍を拒否します。(秀吉からの領土の割譲要求に反発したとの説もあります)

おそらくこのあたりから秀吉ににらまれる立場になったのでしょう、まもなく海賊禁止令が発布され、武吉・元吉親子は小早川隆景の領地である筑前に移住させられることになります。

帰航路にて
潮流の関係で渦が生じている
村上海賊ミュージアムにて 船模型
(奥から)安宅船、関船、小早船

ここからは私個人の推論ですが、
能島村上氏は家を残すために、海賊としての己の生き方を変えてまで他の武家に従属することに絶えず忸怩たる思いを抱いていたのではないでしょうか。
主君たる毛利氏・小早川隆景が秀吉の臣下となり、その秀吉からの命令にまで従わなければならなくなったとき、ついに海賊としての矜持が頭をもたげてきたのかもしれません。

それぞれのその後について記しておきます。
楠木正成は湊川の戦いで敗れ自害。長男、次男も戦死。三男の正儀まさのり、その嫡男すなわち正成の孫の正勝まさかつはともに南朝の総大将として戦いつづけついに戦死。こうして楠木家は3代にわたり天皇を仰ぎ、悪党として生き悪党として死して滅亡します。

一方の赤松則村は足利尊氏が宮方に勝利するのに協力した功績で播磨国の守護、さらに嫡男の範資のりすけは摂津国の守護となり、その子孫は備前国、美作国の守護までつとめる名門として生きつづけます。
赤松氏は始祖が村上源氏、すなわち武家ですからこれがふさわしい生き方だったのでしょう。

能島村上氏はというと、関ヶ原合戦のさいには水軍をひきいて東軍の水軍と果敢に戦うものの元吉が戦死。西軍敗北後は毛利氏が防長2ヶ国に大減封されたのにともない居場所を失い、さらに江戸幕府が制海権を完全に掌握したためそこで村上水軍は消滅します。
能島村上氏についていうならば、水軍が消滅して航海することはなくなったものの、海賊としての矜持をもって死んだのであれば後悔することはなかったのではないでしょうか。
航海こうかい後悔こうかいのダジャレでオチをつけた、つもりです)

【アクセス】「能島城跡上陸クルーズ」ツアーに参加
【料金】ツアー:3000円、村上海賊ミュージアム:310円
【満足度】★★★☆☆
ツアーはガイドが付くのであれば、ガイドには必要最低限の知識だけでなく自ら学んで独自の情報を伝える努力をしてもらいたい。むしろガイドなしで時間内に好きなように歩き回れる方がよい。