岩村城をまえにして、恋と愛と夫婦について語る

【岐阜県・恵那市 2025.11.5】
今日これから訪ねるのは、岐阜県・恵那市の岩村城です。
前回の妻木城のブログでも書きましたが、このあたり一帯はともに平安時代に始祖をもつ名門の土岐氏と遠山氏がしのぎを削っていた土地で、岩村城は遠山氏宗家の居城でした。
鎌倉幕府がたおれ南北朝時代になると、土岐氏が足利尊氏のもとで勲功をあげ美濃の守護となり、この時点で遠山氏は土岐氏の後塵を拝することになります。さらに室町時代になると土岐氏が美濃全体の守護職であるのに対して遠山氏は美濃の一部地域の地頭職にすぎず、遠山氏は土岐氏に従属する立場になります。

時は移って下剋上に象徴される戦国時代。土岐氏の家臣であった斎藤道三が主君を追い出して美濃一国の主君になります。ところがその道三を嫡男の義龍が敗死させ、さらにその義龍が病死し浮足立っているところを織田信長が攻め立てて斎藤家を壊滅させます。
こうして美濃一国は西から織田氏(信長)、東から武田氏(信玄)が餓狼のごとく領土拡大をねらう草刈場と化してゆきます。

このような状況下では、弱小の武家はより強い方に臣下の礼をとって家の存続をはかる以外に生き残る道はありません。ところがこのときの遠山家当主であり岩村城主である遠山景任かげとうは、巧妙なのか細心なのか、それとも単に行き当たりばったりなのか、武田に臣従しながら織田にもよしみを通じ、信長からその信長の叔母にあたる「おつやの方」を正妻としてもらい受けます。
ここからドラマが始まります。

藤坂~初門~一之門

登城口にあった案内板より抜粋

➀の現在地より番号にしたがって登城します。
後に掲載する画像にはわかりやすいように案内図にある番号を記すようにします。

➃藤坂
この石畳道は原型をとどめていなかったため
昭和の末に修復復元したようです。
この水路が当時からあったのかは不明
➄初門 / 門があったわけではなく、
坂道が大きく曲がって防御機能を高めていることから
初門から石階をのぼってゆくと、
➅一之門に着きます / ここには門と扉があった
一之門をふり返る
左右に曲輪があり、櫓があったことがうかがえる

おつやの方(以後、おつや)については信長の叔母ではあっても年が離れていない、あるいは逆に年下だったとの説もあります。本名については不明、ただおつやは漢字で書くと「御艶」であり、たいそうな美人であったとされています。
艶には色気という意味合いもありますが、色っぽいかどうかは別にして、信長の親族の女性は妹のお市の方が類まれな美人であったように美人家系であったことは確かなようです。

おつやが岩村城主・遠山景任のもとに嫁いだのは30歳頃と思われます。
当時としてはずいぶん晩婚のように感じられますが、おつやはそれまでに政略結婚で斎藤家の某氏のもとに嫁ぎ、夫が戦死し、実家に戻り。さらに織田家の某氏のもとに嫁ぎ、夫と死別し、実家に戻りと同じことを2度経験しています。
それゆえ嫁ぐのはこれが3度目、いままでとの違いといえば、今回は(歴史に名をのこす)信長主導の政略結婚ゆえ嫁いだ先のことがそれなりに後の世に注目されることになったということです。

おつやは過去2度とも夫の死とともに実家に戻った経験からなにごとか心に帰するものがあったのでしょう、「他所から嫁いできた城主の嫁」であることを良しとせず、みずから城下をあるいて視察し、親しく民と話し、やがて奥方様あっての岩村と領民からも慕われるようになってゆきます。
ところがおつやはよほど伴侶と連れ添うという意味での運が悪いのか、3人目の夫である景任とも嫁いで5年ほどで死別します。(景任の死因は病死とも戦死ともいわれており、正確なところは不明)

ここで信長が電光石火のごとく動きます。
すぐさま岩村城を占領し、景任に跡取りがいなかったことから自分の五男である御坊丸を遠山家の養嗣子ようしし(家督相続人となる養子)として入れ、おつやを後見役にさだめ岩村城を事実上支配します。 

土岐門、畳橋、追手門

⑦土岐門から一之門あたりを見下ろす
⑧畳橋跡
こちらの石垣上から向こう左手前の石垣へと橋を架け、
橋をわたって城内へ入る仕組みになっていた
さらに敵が攻め来ると、橋板が畳を剝ぐように外された
高石垣 / この石垣上に⑨三重櫓があった
畳橋があった空間を見下ろす
このあたり一帯の門構えが⑨追手門と呼ばれていた
(追手門は大手門のことで、城側が守備だけでなく
攻撃もしやすいよう縄張した場合に追手門とよんだ)

おつやにとっては自分が御坊丸の後見役にすぎないことも、うらで信長が実権を握っていることもしたる問題ではありません。亡夫・景任の喪に服しながらも城下をまわり民と語らうことを休む日はありませんでした。
この頃からおつやは「女城主」と呼ばれるようになります。

この一連の動きに激怒した武将がいます、武田信玄。
そもそも信長の養女が信玄の嫡男・勝頼に嫁ぐなど両者は同盟関係にありましたが、その信長が強引に勢力拡大をはかり、逆らうものは武家にかぎらず、比叡山を焼き討ちするかと思えば一向宗徒をなで斬りにし、篤信な仏徒である信玄としては許容しがたい暴挙でした。
そこに同盟関係をむずび不戦を誓約していた両者にとっての、地理的には境界線であり、立場的には仲介役である岩村城と遠山氏を一方的に攻撃、占有されたのですから信玄が怒らぬはずがありません。

信玄は信長を討つために上洛を決意します。
そして俗にいう西上作戦にあわせて、飯田城(?)の城代であり武田二十四将にも数えられる秋山信友(虎繁)に岩村城を落とすことを命じます。

秋山信友は勇猛なだけでなく、智将でもあったようです。
しかも戦国最強とうたわれた武田の軍勢をひきつれての攻城です。

八幡曲輪、霧ヶ井

追手門をぬけてもさらに守備固めと思われる曲輪跡
八幡曲輪へ
⑩霧ヶ井 / いまでも水が満ちています
敵が攻め込んできたさいに、井戸の中に城主秘蔵の
蛇骨を投げ込むと霧が湧き出るとの伝説があります。
石垣の上に⑪八幡神社のさびれた社があります
八幡神社があることから八幡曲輪とよばれていますが、
当時はこのあたり一帯に居住用の家屋があった

ところが岩村城は落ちません。
武田軍が戦国最強の矛なら、岩村城は戦国最強の盾かもしれません。難攻不落そのもの。
しかも信友が勇猛な智将なら、おつやは勇敢な女傑です。
力攻めでは味方の損害ばかり大きくなると判断した信友は包囲戦に切りかえます。
対するおつやは籠城の準備は万端、長期戦を覚悟して信長に救援をたのむため使者をおくります。
(どのようにして使者が重囲された城から抜け出したかは後で説明します)

ところがこのあたりから風向きが変わってきます。
信長は畿内にあって足利義昭の呼びかけに応じた諸将、浅井・朝倉、松永久秀、石山本願寺など多方面の敵と相対しており岩村城へ援軍をおくる余力はなく、さらに信玄率いる武田本隊が破竹の勢いで西上との報をうけ、さすがにおつやも、ともに城をまもる兵士も領民も動揺しはじめます。
信友の智将たるゆえんは、そんな城内の微妙な士気の低下を見逃さず、すかさず降伏勧告の使者をおくります。

使者の口上によると、抵抗をやめて開城するのであれば全員の生命を保証する。また武人はこのまま城内に留まるもよし他所へ移るもよし。領民は家に戻って今までどおり仕事に励めばよし。降伏する側にとっては破格の待遇です。
ただ一つだけ条件がありました、それは信友からの手紙の形で使者の手から直々におつやに手渡されます。
そこに書いてあった内容とは、「おつやは秋山信友の妻となること、御坊丸はふたりの養子として育てること」

二の丸菱櫓台、六段壁、長局埋門

菱型櫓台 / このあたりから二之丸になる
もとの地形をいかしたところ曲輪が菱形になり、
それにあわせて菱形の櫓を建てたとのこと

岩村城は登城口から本丸までの高低差は180mほどですが、登城口が標高500mを越えており、本丸を標にすると標高は717mとのこと。

攻め手としては上がってくるだけでも大変なうえに、このあたりは霧が発生しやすく、土地勘のない攻め手は突然の霧の幕にさぞかし難儀したことでしょう。
また山上であるにもかかわらず湧水が豊富で、城内には17もの井戸があったとのこと。これは籠城のさいには計り知れない利点です。

⑫六段壁
六段壁を反対方向からみる
六段壁脇の石階を上がります
⑬長局埋門 / この門を抜けると本丸
長局埋門からふり返ると水晶山が見えました
水晶山は岩村城の背後にそびえる山で、
この山中に隠れ道をもうけて使者が行き来し
また食料を運び込んだりしていたそうです

おつやは信友からの条件を受け入れました。
城を囲む敵からの降伏勧告、その条件が女城主が敵の大将の嫁になること。この部分だけ切り取って見るなら思わずのけぞるような話です。
さらに、下嫁かかという表現があります。あつやは大名である織田信長の親族です。また前夫の遠山景任も弱小ながら大名です。一方の秋山信友は大名である武田信玄の家臣です、武田二十四将とは言いますが、言い換えるなら24人もいるなかの1人にすぎません。おつやにとってはあきらかに位が下がる嫁入りです。

おつやは城兵や領民の命が救われるのならと、忍の一字でこの求婚を受け入れたのでしょうか。
岩村城に嫁いできてからのおつやの生きる姿を見てきたなら、そうではないと断言できるはずです。
攻め寄せてきてから降伏勧告にいたるまで、敵軍勢のやることはすべて敵将のやろうとすることであり、おつやはそのすべてを城内から見ていたはずです。
自軍の兵士を軽々しく損なわないようにと困難とわかればすぐに力攻めは中止し、攻める相手の土地であろうと民の生活を顧みて田畑も家屋も荒らさず略奪もおこなわず、降伏勧告となれば誰の死も求めず。そうした大将としての振る舞いは、城兵を励まし領民を慈しみながら籠城を耐え忍んできたおつやの心に響くものがあったのでしょう。

それは信友とて同じです。こちらが力攻めする際には果敢に立ち向かい、籠城となると粛然としながらも緊張と警戒が緩むことはなく。しかも長い攻囲戦のあいだには、信友がおつやの姿を城壁越しに見かけたこともあるはずです。きっとその美しさに目を見張ったことでしょう。
信友からおつやに届けられた手紙は、降伏勧告の条件提示なんて野暮なものではなく、れっきとした恋文だったのだと思います。

本丸

⑮本丸
⑭埋門
本丸に通じるもう一つの門が埋門として
よく残っているので下から入り直してみます
門と虎口をぬけて曲輪に出たと思ったら – –
まだ先がありました
本丸から見るとこのようになっています
通路はせまく敵兵は集団では上がって来れません
さらに敵兵からは見えない上(奥)の虎口で待ち受けて
これで一網打尽

信友にはふたつ誤算がありました。
主君である信玄は、敵であり信長の叔母である女城主との婚姻を二つ返事で(あったかどうかは記録にありませんが)許してくれますが、五男の御坊丸をふたりが養育することは認めず信玄の膝元である甲斐の国に送るよう厳命します。信長に対する牽制の意味での人質です。
もうひとつの誤算とは、西上すべく快進撃をつづけていた武田軍の動きがぴたりと止まり、やがて信玄病死の知らせが隠密裏にとどきます。(信玄の死因は肺結核または胃癌とされています)

信長はおつやが選りにもよって敵将に嫁いで敵方になったことに激怒し、我が息子が人質として甲斐へ送られたことに憤怒しました。こうなると信長の怒りは誰にも鎮めることはできません。しかも執念深い。
1573年2月、信友とおつやの婚儀がおこなわれる。
1575年5月、信玄の跡をついだ勝頼が、長篠の戦いで信長・家康連合軍に大敗する。
それでもこの2年の間は、ふたりにとって幸福な時だったのではないでしょうか。4度結婚したおつやにとって信友は間違いなく最良の夫であり、四十を前にしてはじめて夫のかたわらで安らぎをおぼえる生活だったのではないでしょうか。
若くして先妻に先立たれ独り身を通してきた信友にとっては、四十をすぎてむすばれた恋女房は戦に明け暮れる日々に安らぎをあたえてくれる宝だったかもしれません。

しかしそんな生活に信長の怒りの矛先が向かってきます。
信長は長篠の戦いで完勝すると、武田軍が態勢を立て直すときを与えず岩村城に押し寄せます。
そもそもは嫡男の信忠に攻城をまかせていたもののいつまでも落とせないことに業を煮やし、みずから指揮をとると水晶山が補給路に使われていることを看破しここに陣をおきます。
勝頼はなんとか援軍を送ろうとするのですが、いったん瓦解した軍団からは脱走するものがあとを絶たずなかなか軍備が整わず。
籠城5か月にして食料の枯渇した岩村城は、信長からの降伏勧告に応じます。
信長が提示した条件は、①信友、おつや、主な重臣数名については自害は許さず、生きたまま城を出るべし。(これは信長の目の前で処刑することを意味します)➁その他のものの命はすべて保証する。

本丸から遠望

二の丸・六段壁方向
登城口方向
⑯出丸をのぞむ

(重臣数名は致し方ないとして)城兵がみな許されるのであればと、信友もおつやも迷うことなく城を出ることを選んだのでしょう。しかもふたり一緒であれば、なんら不安も恐れもありません。
夫婦というものは、お互いが相手を必要としていることこそが絆であり、その気持ちがあってこそ夫婦生活は続くのではないでしょうか。「必要とする」なんて言葉をつかうと身も蓋もないと言われるのであれば、お互いに求めあうといっても良いでしょう。
そのお互いに求めあうことこそが夫婦の愛なのかと問われたら – – – 結婚して数十年にもなるベテランとしては照れくさくて答えられません。

【アクセス】レンタカーで
【満足度】★★★★★(文句なしの満点)

【追記】
ここから先は「追記」の形でしか書く気になれませんでした。

その他のものの命はすべて保証するといわれて城を出た城兵は、待ち受ける織田軍勢にことごとく殺されてしまいます。
信友、おつや、数名の重臣は岐阜に連れ帰られ、長良川の河川敷で逆さ磔さかさはりつけの極刑に処せられます。
逆さ磔とは文字通り頭を下にして磔にされ、そのためゆっくりと血液が(下の)頭に溜まってゆき、激痛に悶絶しながら目、鼻、耳、口、あらゆるところから血をながし最後には眼球まで飛び出して息絶えるそうです。

ちなみに甲斐に人質としておくられた御坊丸は大切に育てられ、長篠の戦いのあとには信長のもとに還されています。これは勝頼が織田家との和睦を図ろうとしての行動と思われますが、信長は完全に無視し、むしろ息子が無事に戻ってきたことで呪縛がなくなったかのように、一気呵成に武田氏を滅亡に追い込みます。