信玄が落とせなかった高天神城を勝頼が落としたことは賞賛すべきか

【静岡県・掛川市 2025.12.12】
高天神城といえば、武田勝頼を思い浮かべます。
さほど戦国時代の歴史に興味のない方からすると、そいつぁだれだ?となるのかもしれませんが、誰もが知っている武田信玄の跡取りです。信玄の四男とされています。
信玄と正室とのあいだに生まれ最初から後継者とされていた嫡男・義信は謀反の疑いで切腹(幽閉されて病死との説がいまでは有力)、次男は盲目のため出家、三男は夭折。
ということで四男の勝頼が後継者に指名されます。

たんに武田家の後継者であればメデタシメデタシだったのでしょうが、だれの跡を継ぐかといえば先任者はあの傑物にして英雄の信玄。これは重荷でしょう。
しかも勝頼の母は、武田家の同盟者である諏訪氏の娘。諏訪氏は諏訪神社上社の神職を世襲する名族ではありますが、武田家の本拠が甲斐国であるのにたいして諏訪は信濃国の一地方。諏訪神社といわれても見たこともないし、家中ではそいつぁだれだ?の受け止め方だったのではないでしょうか。

勝頼は信玄に従って戦をかさね武功をあげますが、つねに力が入り過ぎた戦ぶりでした。
本人が凡庸でしかも謙虚な性格であれば、信玄のもとにそろう名将ぞろいの重臣たちに支えられて武田家を(そこそこに)維持してゆくこともできたのでしょうが、勝頼は凡庸ではなかった。
凡庸ではなかったからこそ父・信玄を越えたいと渇望したのでしょう。

高天神城

現地にあった案内図より抜粋
山頂の石垣は昭和初期に造った模擬天守が焼失した残骸
(この図は北が下になっています)

カーナビに目的地として「〇〇城」と入力して検索した際、それが山城だと「該当なし」で非協力的な対応をされることが多いのですが、今回借りた車のカーナビは新しいのか古いのか知りませんが、「高天神城」と入力一発で目的地表示をしてくれました。
ただし到着したのはなぜか搦手口(裏口)、どうせなら大手口(表口)から登城したかったのですが、まあ良しとします。

高天神城の歴史はといえば、今川氏の勢力下で維持されていたものの武田氏と徳川氏が(一時的に)同盟して今川を滅ぼした段階で徳川の支配下にはいります。
さらに武田と徳川が同盟を破棄して争うようになると、信玄が2万とも3万ともつたわる大軍勢で包囲しますがなんとか持ちこたえます。
ところがその3年後、この年は信玄の没した翌年になりますが、勝頼がやはり2万の軍勢をひきいて強襲し降伏させます。
この戦勝によって勝頼の名は全国に知れわたります。理由は信玄でさえ落とせなかった城を跡継ぎ息子が落とした。
このとき勝頼は父・信玄を越えたと勘違いしたのかもしれません。

搦手口から二の丸へ

搦手門跡から整備された道を上がる
ネットで調べたところ大手口からの登城道も
同じように整備されていました
三日月井戸(右) / 水溜まりではない
急峻な山に築かれた山城の意味が右下の崖をみて納得
二の丸

二の丸から馬場平へ

土塁跡 / 虎口か?
曲輪から曲輪へは堀で区切られている
防御をかためた通路
堀と土橋
井櫓曲輪 / ここには櫓があった
馬場平からの眺め

信玄は「死後3年は我が死を隠せ」と遺言しました。これは勝頼が徳川氏や織田氏と対等に戦えるようになるまでの時間を取るべき(時間稼ぎ)と考えたのでしょう。
ところがいわゆる西上作戦として京へ向かう武田の軍勢が突然反転して甲斐にもどってしまったのですから信玄の死は隠しようもなく、なかでも織田軍と徳川軍は信玄の死を好機ととらえ武田氏への反攻をはじめます。

つねに力を入れすぎるほどの戦ぶりで勝利を得てきた勝頼には、ここで守ることに専心するのは臆病としか思えなかったのでしょうか、攻撃こそ最大の防御とでもいうように攻勢にでます。
まず信長の領土である東美濃へ攻め入り、さらに家康の東遠江の攻略もはじめます。このときに行われたのが高天神城攻めです。
猛攻のすえ降伏させますが、忘れてならないのはこの時期には信玄の四天王といわれた重臣たちは皆健在であり、信玄が没して間もないゆえに重臣たちが迷うことなく勝頼を支えようとしたのは疑いようがありません。

西の丸から本丸へ

高天神社ののこる西の丸
的場曲輪
本丸へ
本丸
本丸をかこむ土塁跡
本丸からの眺望

高天神城を落とした翌年、勢いにのった勝頼は家康領の三河へと侵攻します。
ここでおこなわれたのが長篠の戦い。設楽原の丘陵上から戦国最強とうたわれた武田の騎馬隊が駆け下ります、目標は馬防柵で前面をまもり3千丁の火縄銃をそろえて待つ織田・徳川連合軍。
このとき馬防柵とおびただしい火縄銃を目にした重臣たちが、突撃を中止するよう諫言したことは記録に残されています。ときは旧暦5月、梅雨時期でいつ雨が降り出してもおかしくない空模様、雨がふれば火縄銃はつかえません。しかし勝頼は、せめて延期をと戒める重臣たちを老いて臆したかと痛罵し、ついには重臣たちは負けを覚悟で、あるいは信玄の跡取りとはいえもはや武田家に臣従するぐらいならと自死をえらんで突撃します。
この戦いで武田軍は2万の兵力のうち1万の犠牲をだして惨敗します。ちなみに信玄の四天王のうち3名がこのとき戦死。(ひとり残っていた高坂昌信はその3年後に病死)

三の丸、そして下城

周縁を土塁にかこまれた三の丸
左は急斜面、右は崖、鉄壁の防御をほこる
よくみると土塁跡や堀跡がうかがえる

長篠合戦での敗北ののち、武田氏は徐々に力を失ってゆきます。
信玄亡きあとも結束していた四天王がすべて亡くなり、完全に柱をうしなった家中では背反するものがあとを絶たなくなります。そして5年後、徳川家康に包囲された高天神城は落城します。
勝頼としては後詰め(救援)を送ろうにも家来は次々に離反し、味方が来援しないことに絶望した籠城兵がみずから開城した結果です。後詰めも送れない大将と勝頼の人望はいよいよ地に落ち、ここから一気に武田氏は滅亡へと転がり落ちてゆきます。

近年の勝頼の評価はけっして芳しいものではありません。
しかし将器はけっして小さくはなかったと思います。
それを不運というなら父が類まれな傑物・信玄であり、その巨大な英雄のあとを継いだことで勝頼は武将として重圧を背負い続けていたのでしょう。
後世のものが第三者の目で冷静に見ればわかることですが、信玄とて不敗の軍神ではありません。
生涯の戦歴でみても若いころに同じ相手(村上義清)に2度負けたのが唯一の敗北といわれていますが、よ~く見ると引き分けとか勝敗がつかない(戦をせず睨み合いのみ)ものが多数あります。
たとえば先に書いた、高天神城を落とせなかったというのも包囲しただけで攻めてはいないのですから負けではないものの勝ってもいません。

それだから信玄も大したことないというのではありません。
信玄は若いころの村上義清からうけた2度の手痛い敗北から、戦略を練り策略で敵を内部から切り崩し、かならず勝てると確信できないかぎり戦端をひらくことはありませんでした。
まさに「風林火山」の「動かざること山の如し」、これこそが不敗・信玄の真骨頂です。
勝頼は父の存在の大きさに重圧を受けていただけでなく、信玄の戦の周到さに理解がおよばなかったのでしょう。

現地にあった想像図より抜粋

この想像図をネットで見て、すごいぞ高天神城とワクワクしながら訪れました。
最後まで見ていただいた方からすると、そんなすごい画像は全然なかったとご不満かも知れません。

けっして私の撮影の腕がいちじるしく劣っているのではありません。ネット上に上がっているのは大半がこれかこれに似た想像図です。想像図ではない現実の画像をさがしてみると、どれも私が撮影したものと五十歩百歩で迫力なし。
どういうことでしょうか?!?!

【アクセス】レンタカーでまわる
【満足度】★★★☆☆