不学者の富嶽百景・なぜ日本人は富士山に惹かれるのか

【静岡県・富士市~富士宮市~静岡市 2025.12.8~10】
富士山は不二山と書かれることがありました。この世にふたつとない山と言いたかったのでしょう。
ところで古事記にも日本書紀にも富士山についての記述がないという事実はけっこう有名なようで、ネットにも豆知識のようなものからウンチクを傾けたものまで種々のブログなど書き込みがあります。
アマゾンで見かけましたが、記紀に富士山のことが書かれていないという事実を謎として、一冊の本まで書かれているようです。(まだ読んでいません)

ところが記紀の編纂時期と前後して詠まれた歌をあつめた万葉集には富士山を詠んだ歌がいくつか収められています。
我妹子わぎもこ(愛しい娘)に、逢ふよしをなみ、駿河なる富士の高嶺の、燃えつつかあらむ【作者不明】
この歌は恋歌ですが、第一に富士山が当時は噴火していたことを記しています。さらにその富士山を恋心のたとえに使っていますが、世俗的なものではなく崇高なものと見立てているようです。

天地あめつちの 別れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振りけ見れば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 富士の高嶺は【山部赤人】
この歌になると、「天地が別れたときから神々しく高く貴い駿河の冨士の高嶺 – – – -語り継ぎ言い継いでいこう冨士の高嶺は」とはっきり冨士が不二の山であることを表しています。

次の歌は古文体で読みづらいという方は最後の部分のみ注目してください。
なまよみの 甲斐の国 うち寄する 駿河の国と こちごちの 国のみ中ゆ 出で立てる 富士の高嶺は 天雲あまぐもも い行きはばかり 飛ぶ鳥も 飛びも上らず 燃ゆる火を 雪もち消ち 降る雪を 火もち消ちつつ 言ひもえず 名づけも知らず くすしくも います神かも 石花の海と 名づけてあるも その山の つつめる海ぞ 富士川と 人の渡るも その山の 水のたぎちぞ日の本の 大和の国の 鎮めとも います神かも 宝とも なれる山かも 駿河なる 富士の高嶺は 見れど飽かぬかも【高橋虫麻呂】
「日出る国大和の鎮めとしておられる神、宝となっている山」
この歌においては富士山は神格化され、神の宿る山あるいは神そのものとして仰がれています。

なぜ記紀には富士山のことが記されていないのか。
記紀とおなじで万葉集が編纂されたのも大和の国においてです。大和の人が東国へ旅して富士山を見てきたか富士山を歌に詠んだひとが大和の国を訪れていたか、どちらにしろ遠く離れているという理由で当時の大和において富士山の存在が知られていなかったということはあり得ないでしょう。

むかしから山岳信仰はありました。
さきに記した最初の歌にあるように当時の冨士山はつねに煙をあげ時には大小の噴火もありました。(富士山の最期の噴火は1707年)
(信仰の対象である)不二の山が怒っている(噴火している)、そんなことをひろく知らしめたところで世間に不安を与えるだけです。

飛鳥時代から奈良時代にかけての大和は、地方の豪族をしたがえて中央集権で日本をおさめることに躍起でした。そのさいにすべての人がまとまるための象徴とされたのが天皇であり、象徴であらしめんがために神話を創作して天皇を神の末裔とし現人神あらひとがみとして祀り上げました。
天皇が神の末裔であり現人神であることを告示するために書かれたのが古事記であり、天皇の活躍をえがき天皇が不二の存在であることを宣伝したのが日本書紀です。
さて天皇を不二の存在として記した記紀に、不二の存在である富士山がならんで登場するのはどうなのでしょうか、しかも一方の不二(富士)は怒っている(噴火している) – – – とやかく考えるのはやめとこ、知らん顔して記紀に記さなければすむことやで – – -と考えたのかどうなのか。

かぐや姫

大淵笹場
大淵笹場
かぐや姫と富士山のマンホール
今宮茶畑から大淵笹場の途上で

「竹取物語」はかぐや姫を主人公にした日本最古の物語ですが、静岡にはかぐや姫が月ではなく富士山に帰るという民話がいくつか残されています。
たとえば。
竹から生まれた女の子はたいそう美しい娘にそだち、数々の求愛者が輝くほどに美しいかぐや姫の歓心を得ようと訪れます。しかしかぐや姫は首を横に振るばかり。(ここまでは全国版とほぼおなじ)
ついには帝までがみずから訪れ、かぐや姫も情にほだされしばらく一緒に暮らすことになります。
(この帝が天皇のことなのかは不明。帝ではなくこれを国司としているものもあります)

ところがしばらくするとかぐや姫は「わたしは富士山からきた天女でありそろそろ富士山に戻らなければなりません」と告げ、嘆き悲しむ帝に不老不死の薬を置き土産にして去ってゆきます。
一方の帝は不老不死の薬があったとて、かぐや姫のいない日々をこれから先長く過ごしてゆくのは耐えがたいと、薬を冨士山の火口で焼いてしまうよう侍従に命じます。

なぜ置き土産が不老不死の薬なのか、なぜ帝はその薬を富士山の火口で焼かせたのか、そこは自分で考えなさいということなのでしょう。ヒマな時にでも考えてみてください。

西行

山宮浅間神社・遥拝所へ
遥拝所から富士山をのぞむ

山宮浅間神社やまみやせんげんじんじゃは別名を浅間神社本宮といい、富士山本宮浅間大社のもとになる神社です。
この神社には社殿がなく、遥拝所から御神体の富士山をのぞみます。

御祭神は木花之佐久夜毘売命このはなのさくやひめのみこと、神武天皇の曾祖母にあたります。

西行は平安時代末期から鎌倉時代に活躍した、もとは武士であり出家してから諸国を旅して歩いた僧侶です。その西行が出家する決意をかためた際に呼んだのが、
惜しむとて 惜しまれぬべき此の世かは 身を捨ててこそ 身をも助けめ
そして諸国を旅しながらおそらくは駿河の地を歩きながら詠んだのでしょうか、
風になびく富士の煙の空に消えて ゆくへもしらぬわが思ひかな【新古今和歌集】
この歌になると、富士山は神でもなく神の宿る山でもなく、風景のひとつになっています。もっともここに「風になびく野辺焼の煙」としたのでは、あとにつづく「ゆくへもしらぬわが思ひかな」にたいして結びつきようがなく、富士山が人格化されていることに気づきます。

松尾芭蕉

富士山本宮浅間大社・二の鳥居と富士山
楼門から拝殿、背後に屋根がのぞいているのが本殿

富士山本宮浅間大社ふじさんほんぐうせんげんたいしゃの御祭神はいうまでもなく木花之佐久夜毘売命このはなのさくやひめのみこと。名のもつ意味は木花このはなが桜のことで桜が咲くように美しい姫。別名は浅間大神せんげんおおかみですがこれでは色気も素っ気もない。
ところで中世には富士山本宮浅間大社の御祭神は赫夜姫(かぐやひめ)であると、一部で言い伝えられていたようです。竹取物語・静岡バージョンの影響でしょうか、それはそれで詩的(あるいは情緒的?)で良いのですが、全国区にはならなかったようです。

松尾芭蕉はいうまでもなく江戸時代の俳人(俳聖とされている)で、もちろん富士山を詠んだ句も多数あります。そのなかでもっとも惹かれるのは、
霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き
霧時雨で見えないながらもそこに富士山の姿を思い描いて興に入る。
この状況で興に入れるのも芭蕉ならではでしょうが、霧時雨にかくれた山が富士山だからこそできた句だとも言えます。たとえば霧時雨にかくれているのがおらが村の裏山ではそれが秀峰であってもこの句は成りたちません。
また個人的には数多の富士山をよむ歌や句を読みふけり、いい加減食傷気味になっているところにこの句は衝撃的でさえありました。
芭蕉は江戸時代末期の人ですが、このころには富士山は日本人ならば誰もが知っており、だれもが美しく崇高な存在として慕っていたのでしょう。

北斎、広重

薩埵峠からみた富士山
広重の東海道五十三次にも描かれています
三保の松原
北斎も広重も構図は違えど描いています
(海岸沿いが工事中で、白砂青松の写真はムリ)
日本平
日本平からのぞむ富士山は北斎も広重も描いていませんが、同門で広重の先輩にあたる歌川豊国が「名勝八景」に描いています。

浮世絵の絵師としては北斎のほうが広重のずいぶん先輩になります。
さきに北斎が「富嶽三十六景」を制作します。江戸の人々のあいだで富士山人気がたかまり、人々の富士山への関心と憧れを需要にしてつくられたと言えます。
これが大ヒットし、さらに10景追加して、実際には「四十六景」あります。
このころから観光とか旅行が庶民の楽しみのひとつになってきたのではないでしょうか。
広重の「東海道五十三次」はいまの旅行ガイドにちかいもので、東海道沿いの宿場を紹介することが主な目的です。もちろん北斎の富嶽三十六景の大ヒットをうけて、ある出版元が依頼したのがキッカケです。
このころになると、富士山は神格化どころか人格化されることもなく、庶民が純粋に美しい、すげぇ~、エモい(とは言わなかったでしょうが)憧れていたのでしょう。

小学校唱歌

音止めの滝と富士山
白糸の滝と富士山

1番)あたまを雲の 上に出し 四方の山を 見おろして かみなりさまを 下に聞く 富士は日本一の山
2番)青空高く そびえ立ち からだに雪の 着物着て 霞のすそを 遠く曳く 富士は日本一の山
1910年(明治43年)尋常小学読本唱歌に初出の「ふじの山」です。
すくなくとも私が小学生の時にはこの歌は教科書にも載っており当たり前のように教室で歌っていました。
いまの時代には教科書には載っていないにしても、日本人ならば知っていて唄えて当然という歌ではないのでしょうか。

ところがこの「ふじの山」、一時期歌詞がすっかり変わってしまいます、題名も「富士の山」へ変更。
1941年(昭和16年)太平洋戦争勃発の年にそれまでの尋常小学校と高等小学校が併合して名前を変えた国民学校の唱歌です。
1番)大昔から 雲の上 雪をいただく 富士の山 幾千万の 国民の こころきよめた 神の山
2番)いま日本に たずね来る よその国人くにびと あおぐ山 幾万年の のちまでも 世界だいいち 神の山
口ずさもうにも曲を知りません。かりに曲を知っていてもこの歌詞では口ずさむ気にもなりません。
古代には国民にとって神であった富士山は、神格化された山になり、人格化された山となり、ついには神の面影をのこした美しい山として親しまれるようになりました。その富士山がここにきて無理やりに神に戻されてしまいます。
もっとも長くはつづきません。敗戦とともにもとの「ふじの山」にもどります。

太宰治

田貫湖 / 逆さ富士
静岡県富士山世界遺産センター
つくり過ぎてゲップが出そうな、逆さ富士

太宰治の短編小説『富嶽百景』は私小説ではないでしょうか。
拗ねたように生きる若者が富士山のみえる里で、友人や婚約者や茶店のおかみさんや娘と触れ合いながら人間的に成長してゆく姿を描きます。
太宰治といえば『人間失格』や『斜陽』の作風からデカダンス(退廃主義)と言われていますが、本人はエッセイ『デカダン抗議』のなかで書いているように、むしろ理想主義をめざしていたとか。

その成長する姿の描き方に趣向があり、主人公がどのように富士山を見ているか、その捉え方の推移で心の成長を示してゆきます。
はじめのうちは、
東京の、アパートの窓から見る富士は、くるしい。冬には、はつきり、よく見える。小さい、真白い三角が、地平線にちよこんと出てゐて、それが富士だ。なんのことはない、クリスマスの飾り菓子である。
あるいは、
これは、まるで、風呂屋のペンキ画だ。芝居の書割だ。どうにも註文どほりの景色で、私は、恥づかしくてならなかつた
そこから、
富士に雪が降つたのだ。山頂が、まつしろに、光りかがやいてゐた。御坂の富士も、ばかにできないぞと思つた。
そして意味も知られずその一文だけが有名になった、
富士には、月見草がよく似合ふ
と思えるようになった心境をへて、
おい、こいつらを、よろしく頼むぜ、そんな気持で振り仰げば、寒空のなか、のつそり突つ立つてゐる富士山、そのときの富士はまるで、どてら姿に、ふところ手して傲然
がうぜん
とかまへてゐる大親分のやうにさへ見えたのであるが、私は、さう富士に頼んで、大いに安心し、気軽くなつて

そして
私は、ふたりの姿をレンズから追放して、ただ富士山だけを、レンズ一ぱいにキャッチして、富士山、さやうなら、お世話になりました。パチリ

(太宰治の『富嶽百景』は本を購入しなくてもネットにある「青空文庫」でいつでも無料で読むことができます)

掲載した富士山の写真は着色こそしていませんが、明るさ、コントラスト、彩度、レベルの強弱ですべて加工しています。みずから加工して気づいたことですが、ガイドブックにある富士山の写真は色相や色バランスにも手を加え、さらには部分的に着色もしているのではないでしょうか。
色彩的にはガイドブックの写真のように美しい富士山を肉眼で見ることはできません。
しかし富士山を自分の目でみた感動は、どれほど美しい写真からも得ることはできません。不学ながらそれだけは学びました。
(ついでながら、ブログタイトルの不学と富嶽はウケねらいのダジャレのつもりです)

【アクセス】レンタカーでまわる
【満足度】★★★★★



富士山,静岡

Posted by 山さん