秀吉出世の地・長浜へ満開の桜を見にゆく
【滋賀県・長浜市 2022.4.9】
秀吉は出自もたしかでない下賤の出ですが、織田信長に出会い、その人物に惚れこむことで草履とりから侍、侍大将から家臣へと破格の出世をつづけます。
やがて近江の国を治めてきた浅井家を滅ぼすことに成功した秀吉は、この地を信長から授けられ、ついに12万石の城もち大名へと成りあがります。
しかし秀吉がもっとも輝きながら躍動していたのはこの頃までではなかったでしょうか。
明智光秀との出世競争、信長の死、そこから天下人へ。
そのあたりの経緯には、なにやら怪しい印象が付きまといます。
それはさておき、秀吉が躍動していた時期の、長浜の街を訪ねてみましょう。
長浜上陸
竹生島を発った船はおよそ30分で長浜に着きます。
豊公園
長浜の船着き場から5分ほど歩くと豊公園です。
長浜城をかこむ公園で、ここも「日本さくら百選」に入っています。
前方に見える桜花の巨大な連なりからして期待できそうです。
先週末の時点では三分咲きとのことだったのですが、この一週間でいっきに開花しました。
そもそもを言えば、秀吉が建てた長浜城の天守閣については詳細が残っておらず、いま目にしている天守閣は後世長浜のシンボルとして造られたものです。
天守閣にもいろいろある
https://blog.kojodan.jp/entry/2019/02/25/191515#:~:text=
天守閣の中は、長浜城歴史資料館になっています。
展示品の大半は古文書とその解説でマニア向けといえます。
秀吉の主君・織田信長にとって、自領である尾張・美濃と京をむすぶ経路上にあるここ近江は、戦略的にもたいへん重要な地でした。
そこで信長は、そのころ無双のスーパー美人といわれた自分の妹・お市を、近江の領主である浅井久政の嫡男(跡取り息子)長政に嫁がせ同盟関係を強化します。
そのうえで越前の朝倉家との戦いに挑むのですが、浅井父子は朝倉家との長年の友諠を絶ちがたく、信長との同盟関係を破棄して朝倉家に味方します。(金ケ崎の戦い)
秀吉の活躍もあってなんとか危機を逃れた信長は怒り心頭で、すぐに態勢を立て直し朝倉家ともども浅井家も討ち滅ぼすため出陣します。(姉川の戦い)
姉川の戦いで大勝した信長は、秀吉に命じて浅井家の居城である小谷城をかこませ、秀吉は得意の調略により浅井家の家臣をつぎつぎに寝返らせ、ついに浅井家は滅亡します。
この功により秀吉は近江一国を信長から拝領することになり、琵琶湖岸に新たな城を築き、今浜と呼ばれていた地を長浜とあらためます。
この地名の変更はいうまでもなく信長への追従で、一文字いただいたのでしょう。
なおこの時期に苗字も木下から「羽柴」とかえますが、これも信長の重臣である先輩ふたり、丹羽長秀と柴田勝家におもねったものです。
「追従」とか「おもねる」というと、どこか卑しく感じますが、そんな卑しく見られるようなことでも必要とあらば平気でやってしまえるのが秀吉のすごさだったと言えます。
豊國神社
長浜は秀吉にとって出世の地ですが、ここはその名もずばり出世稲荷。
豊国神社の隣にあります。
大通寺
豊国神社から北東へ15分ほどあるくと大通寺につきます。
大通寺は正式名称を真宗大谷派長浜別院大通寺というそうで、文字どおり浄土真宗の大谷派ですから東本願寺を本山とする別院ということになります。
なぜ寺の門を、山門あるいは三門というのか
https://kaxtukei.com/sanmon-blog
大通寺は外からは切り絵展示もふくめて無料で見られます。
本堂から先、写真のわたり廊下をとおって広間など奥の部分は有料(500円)です。
写真撮影禁止なので画像はありませんが、拝観料を払ってみる価値はあります。
長浜八幡宮
大通寺からさらに10分ほどあるくと長浜八幡宮です。
京都男山の石清水八幡宮から分霊して創建されたそうで、戦国時代に荒廃していたものを秀吉により復興されたそうです。
【アクセス】近江今津→竹生島より観光船で
【料金】長浜城(歴史資料館)410円、大通寺500円
【満足度】★★★★☆ (満開の桜をふくめて)