千利休の謎・利休はなぜ切腹したのか

2022.11/18記

千利休の像

堺市の大仙公園に千利休の像があります。
利休は当時としてはたいへんな長身で、180cmほどあったと伝わっているので、この像はずいぶん小ぶりということになります。

画像は【aruku-20】より
https://yamasan-aruku.com/aruku-20/

秀吉の茶の湯と、利休の茶道

千利休の生涯をたどってゆくと必ずぶつかるのは、なぜ切腹したのかという疑問です。
どうして秀吉から切腹を命じられたのかではなく、なぜ切腹を命じられる前に処し方を考え回避しなかったのか。
利休の最後の数ヶ月をつぶさに見ると、いずれ切腹を命じられる日がくるのを泰然と待っていたとしか考えられません。それは自分が死ぬ以外にもはや道はないと悟っていたかのようです。

利休が切腹を命じられたのは、秀吉の怒りを買ったためといわれています。その原因については諸説あります。
1)茶道に対する考え方の違い – – 秀吉は茶の湯をほがらかに楽しむものと考え、利休は「一期一会」の思いで全霊をかたむけてもてなすものと考えていた。

2)秀吉は侘茶(わびちゃ)を嫌っていた – – 利休が晩年に愛用した「黒樂茶碗」について秀吉は地味というより陰気くさいと嫌悪し、赤樂茶碗なら「まだマシだ」とこれを使った。この話にはオチがあり、そんな秀吉の態度に怒りを覚えた利休は土に肥しをまぜて赤みのある「赤樂茶碗」をつくって秀吉に供したとか – – これはいくら何でも作り話でしょう。

3)秀吉は狭い茶室に身をかがめて入ることに我慢ならなかった – – 利休のつくる茶室が2畳という狭小なものになり、客が茶室にはいる際の入口は頭をさげ上半身を折らないと通れない「にじり口」になります。

4)利休が茶道具の価値観を変えたこと – – 利休のめざす侘び茶とはきらびやかでなく、余計な装飾がなく、簡素ななかに深い味わいのある、精神的な豊かさを求めるものです。そのため茶道具は従来の大名や豪商が大金をつんで集めた名品ではなく、名もない陶工が焼いた器や百姓が野良作業に背負っている竹籠に目をむけ、言うならばタダ同然のものに「侘び」というあたらしい価値を見出します。そして当時茶道の頂点にたつ利休が認めたとなると、そのタダ同然だったものが並みの名品をうわまわる価値を得ます。
利休の意図するところがどうであれ、第三者の視点で見ればこれは錬金術の一種と映ったかもしれません。しかも茶道に関していえば、利休の価値観が絶対であり秀吉の価値観は入る隙さえありません。

5) 利休が目利きした茶道具は例外なく高値がつけられるようになります。それを良いことに安く入手した茶道具を次々に高値で売りさばき私腹を肥やしているとの噂が流れます。だれかが意図的に流したのかもしれません。

「さかい利晶の杜」にあった待庵室内の写真

茶頭から政権の中枢に入った利休

利休は晩年には茶の湯(道を極める意味では茶道)を通して豊臣政権の中枢にふかく関わってゆきます。
九州の豊後から島津氏の圧迫に窮して助けを求めにきた大友宗麟にたいして、秀吉は「内々の儀は宗易に、公儀のことは宰相に存じ候、いよいよ申し談ずべし」と伝えています。
表立てたくない内密のことは宗易(千利休)に、公の政治的なことは宰相(豊臣秀長)に相談しろという意味です。秀長は秀吉の弟であり豊臣政権をささえる要のような存在ですから、その秀長が右手であれば利休は左手に相当するほど政権内でも重要な位置を占めていたことがわかります。

6)朝鮮出兵に反対した – – 秀吉にとっては大望の総仕上げともいえる中国・明を征服のため、まずは朝鮮へ出兵する計画を進めていたところ、利休は反対します。
しかしどの程度の反対姿勢だったのかは不明で、これがもとで秀吉と利休が対立したという資料はありません。

7)家康暗殺計画を拒否 – – このころ豊臣家にとってもっとも危惧すべき相手は徳川家康でした。
秀吉と石田三成はひそかに家康暗殺の策をねり、茶頭・利休に茶の席に家康を呼び出し毒殺するよう持ちかけます。しかし利休にとって茶の湯とは「一期一会」ととらえ、最善のもてなしをすることが真髄です。そのような茶の席で、茶に毒をいれ客を殺すなど言語道断、利休はもちろん断ります。
ここで利休が拒否したことにより毒殺計画は未遂におわりますが、計画に前向きだった秀吉、三成だけでなく、反対した利休もまたこの秘密を共有することになります。豊臣政権にとってこれは爆弾をふところに抱えているのも同然の危険なことです。
この説は利休がなぜ切腹を命じられたかという観点からはたいへん説得力があるのですが、裏付ける資料が残っていません。
また家康毒殺計画というのは、信長が本能寺の変で横死する直前に企てていたとか、秀吉亡きあと五大老のひとり前田利長が中心になって進めていたとか、いくつも話として伝わっており、真偽のほども定かではありません。

秀吉の弟・秀長は豊臣政権内にあって、次第に独裁化する秀吉とそれに戸惑う家臣たちの間をとりもつ役であり、また石田三成や小西行長をはじめとする文治派と、加藤清正や福島正則をはじめとする武断派の緩衝材ともなっていました。この秀長がいたからこそ豊臣政権は円滑に機能していたといって過言ではありません。
その秀長が病にたおれ亡くなったのが天正19年(1591年)1月22日、利休が堺の自宅での蟄居を申し付けられるのが同年2月13日、そして京に呼び戻されたうえで切腹するのが2月28日。秀長の死でそれまでなんとか繋がっていたものがプツリと切れてしまったかのような急展開です。

千利休屋敷跡
屋敷跡/ 右奥は現存する井戸(椿の井戸)

堺市内「さかい利晶の杜」に隣接して、千利休の屋敷跡があります。
建物はありませんが、井戸は当時のものが残っており、この井戸で利休は産湯を使ったはずだとボランティアガイドの方が力説しておられました。
画像は【aruku-21】より https://yamasan-aruku.com/aruku-21/
写真を撮影した2022.2月時点ではコロナ禍で閉館していたので、同年11月に再訪しました。

石田三成の存在

利休は切腹に先立ち、京から追放され堺の自宅での蟄居を命じられます。その発端となったのが大徳寺山門事件です。
大徳寺は臨済宗・大徳寺派の総本山、当時も有数の規模をほこる禅寺で、多くの名僧を輩出しています。たとえば一休さんでおなじみの一休宗純もそのひとりで、侘び茶の創始者とされる村田珠光が一休禅師に師事したことから、大徳寺は茶の湯の世界ともふかい関係をもっていました。
また秀吉は信長の死後みずからが中心となってこの大徳寺で信長の葬儀をおこない、さらに寺内に信長の菩提寺として塔頭・総見院を建立し、自分が信長の後継者であることを世間に印象付けています。
すなわち利休にも秀吉にもたいへん関係の深い寺院です。

天正17年(1589年)、利休の援助によりこの大徳寺の山門(三門におなじ、正門のこと)は上層を改修増築し、金毛閣とよばれる立派な二層の門に生まれ変わります。
大徳寺で古渓派をひきいる古渓宗陳はこの利休の多大な寄進と助力に感謝し、利休を模した木像を金毛閣の上層すなわち2階部分に安置することを決めます。その利休像は杖をつき雪駄をはいた姿であり、釈迦像や釈迦の弟子たちの像とならんで安置されることになります。
このとき利休ははじめ固辞し古渓の熱心な依頼で承知したともいわれていますが、詳細は不明です。

大徳寺・山門金毛閣

大徳寺山門金毛閣は近くで見ることができません。
また正面側は前に勅使門があって全姿を見ることができないため、この写真は後ろ(裏側)から撮影しています。

画像は【aruku-35】より
https://yamasan-aruku.com/aruku-35/

ここに石田三成が絡んできます。
石田三成が頭脳明晰であったことは間違いないのですが、秀吉に重用されその庇護のもと自在に仕事を進めてゆくうちに、自分の意にそぐわないものはすべて邪魔者と考えるようになったのか、ほかの実力者たちとの衝突が目立つようになっていました。
金毛閣上層に利休像が安置されており、しかもその利休は雪駄をはいており、大徳寺に詣でるには関白・秀吉公ですらも(土足の)その股をくぐることになる、曲解なのか捏造なのか滑稽ですらあるそんな噂が流れはじめたのは金毛閣が完成した直後の、天正19年1月のことです。
大徳寺には古渓派とならび春屋派があり、その中心的存在の春屋宗園(しゅんおくそうえん)と三成は親しくしていました。金毛閣に雪駄を履いた利休像が古渓の発案で祀られている、これは古渓、利休ともども追い落とすチャンスと、考えたのかどうなのか。

天正19年1月早々、秀吉が利休像の件を知り激怒したと伝わっている
1月22日、利休をかばう最有力者の秀長が死去
2月13日、利休は京を追われ堺の自宅で蟄居を命じられる
2月○○日、利休はいったん京に呼び戻される
2月25日、利休木像が一条戻り橋で磔(はりつけ)された姿でさらしものにされる
2月28日、京屋敷にて利休切腹
死後、一条戻り橋でさらし首とされる。しかもその首を、磔された利休像が踏みつける演出がなされ連日見物客が絶えなかったとも伝えられています。

一条戻り橋

現在の一条戻り橋にはかつての名残りはまったくありません。
どこに利休の首がさらされたのか想像してみてもイメージが浮かびませんでした。

画像は【aruku-81】より
https://yamasan-aruku.com/aruku-81/

千利休の切腹

利休と秀吉との確執は、利休のきわめる茶道と、秀吉のたのしむ茶の湯との乖離あるいはすれ違いがもとになっているはずです。
もともとが裕福な堺の商人の家に生まれ育ち、嗜み(たしなみ)として茶の湯をはじめた利休と、出生元も定かでない貧民から成り上がり自身を装飾するために茶の湯をはじめた秀吉とが、その茶の湯において同じ道を歩んで行けるはずがありません。
利休は禅の「無相、無住、無念」の心境から身近なものに美を見いだし、「侘び」の世界を完成させようとします。それに対して秀吉は茶の湯にも「見映え」をもとめます。「見映え」とは「見栄え」でもあり、その象徴が禁中での茶会につかった黄金の茶室です。
おそらくこの黄金の茶室の一件あたりから利休は秀吉の価値観を受け入れがたいものと感じ始めたのではないでしょうか。しかし自分が極めようとする「侘び茶」を茶の湯の世界の主流たらしめるには、自分が天下人の茶頭であることが必須です。
利休は秀吉に抵抗しながらも、その庇護下にあることを受け入れざる得なかった、そんな状況だったのではないでしょうか。人一倍自尊心のつよい利休にとっては、忸怩たる思いが鬱積し、そろそろ限界がきていたかもしれません。

もちろん政権のなかにどっぷり浸かってしまったがために、いわゆる政争に巻き込まれたこともあったでしょう。利休自身が政(まつりごと)にさほど執心したとは思えないので、そのことで秀吉本人とはげしく衝突したことはないはずです。しかし一方的に利休の存在を目の上の瘤とみなして足をひっぱる者はいたかも知れません。たとえば、石田三成。

利休が切腹する前にのこした辞世の句(狂歌?)があります。
「利休めはとかく果報のものぞかし 管丞相になるとおもへば」
管丞相(かんじょうしょう)は菅原道真のことです。
菅原道真は父祖代々の学者の家にうまれ、もって生まれた文才と人並みはずれた勉学で文人のトップの座につきます。そして朝廷の執務に関わる中で、しだいに朝廷内でも中心的な存在になってゆくのですが、その道真の出世を妬むものの讒言(ざんげん)で足をひっぱられ、九州の太宰府に左遷されます。
道真は、讒言により太宰府に左遷されたことを恨みながら失意のうちに没したそうで、その恨みが怨霊となって道真の死後につづく天災や飢饉をまねいたと伝承されています。
しかし利休の句には、恨みだとか祟りだとか激しい感情はうかがえません。

最後には(管丞相のように)冤罪を着せられ死を賜ることになるが、秀吉公のもとで(管丞相が自分の道をきわめたように)自分も茶道を極めることができた。
茶道を極めるためには最高権力の庇護のもとにあることがなによりも肝要である反面、その最高権力者との確執もいずれ避けらなくなることはわかっていた。
句のなかにただよう皮肉な響きは、みずからに対する自嘲だったのかもしれません。

天正19年2月28日朝、検死役として3人の武人が利休宅を訪れます。
そのとき検死役が、貴殿が頭をさげて謝りさえすれば切腹は免れるとの秀吉からの伝言を伝えたともいわれています。それに対して利休は、自分が謝るいわれはない、と一言。
終始おだやかに、泰然として切腹したそうです。

堺・南宗寺にある千家一族の墓 / 中央が利休の墓

【雨読寸評】

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