吉野ヶ里遺跡はなぜ日本百名城に選定されたのか
【佐賀県・神埼郡 2023.1.18】
佐賀県の北東部、福岡県との県境近くに吉野ヶ里遺跡はあります。弥生時代の典型的な環濠集落で、120haにおよぶ広大さもさることながら、弥生時代700年間の歴史がぎっしり詰まっているのも見逃せません。
そしてこの遺跡に注目した一番の理由はというと、「日本百名城」に選定されていることです。
日本百名城は、選定の基準自体がはっきりしないのですが、すくなくとも「見た目が美しく感動的」というだけで選定されるものではありません。保存状態が良好なことは大いに関係しているようですが、見事な堀や石垣あるいは建物が残っているにもかかわらず選に漏れている例はたくさんあります。
ましてやここは弥生時代の遺跡です。なぜ選定されることになったのか。訪ねてみることにしました。
吉野ヶ里歴史公園
この地に古代の遺跡が残っていることはずいぶん前から認識されていたようです。
大々的に発掘調査が行われることになった発端は、1980年代に佐賀県が企業誘致のためこの地に大型の工業団地を建設することを決め、そのための事前調査を行ったところ、思わぬ大規模な発掘発見があり、工業団地建設は縮小となったようです。
そして1989年ごろから一部を一般公開することになり、2001年から遺跡公園として開園したとのことです。
南内郭
堀と柵とで不規則に区分けされているようですが、よく見ると、ちょうど輪郭式に郭(くるわ:曲輪)が配置された城のように、主要な場所ほど内側に置かれ、結果として何重にも堀と柵で囲まれ守られていることに気づきます。
どうやらこの南内郭が、城でいうところの二の丸に相当する部分で、これから向かう北内郭が本丸部分ではないでしょうか。
北内郭
北内郭に到達するまでには、柵で囲まれた道は折れ曲がり、さらに堀があり門があり、この入口は防御機能をそなえた、まさに城でいえば虎口です。
ボランティアガイドの方の説明によると、当時はこの村に1200程度の人が住んでいたそうで、ほかに奴隷が3000人ほどいたということです。
その奴隷は罪人であったり、戦で打ち負かした他所の村から連れてきたものであったりということで、他に当時から身分差別があって生まれながらの奴隷がいたのではないか、との質問には明確な解答は得られませんでした。
倉、墓地
出土品、展示品
当時は土葬だったようで、甕の中におさめて地中に埋めていたため人骨は比較的良好な状態で残っているみたいです。
なかには「頭部のない成人男性の人骨」も複数見つかっており、戦では倒した相手の首を切って持ち帰るのが慣習になっていたのではないかと推理されています。
吉野ヶ里遺跡はなぜ日本百名城に選定されたのか。答えは明確にでました。
村づくりは郭を輪郭式に配置し、外周だけでなく郭ごとに堀と柵でかこみ、随所に物見櫓をたて、本丸相当部へは虎口を通らなければたどり着けない。これはまさに城の原形です。
【アクセス】佐賀市街から車で
【入場料】460円
【満足度】★★★★☆