久留米城についてもっと知ってもらいたい
【福岡県・久留米市 2023.1.18】
久留米城は室町時代後期に、このあたりの土豪が砦をつくり篠原城と呼んだのがはじまりと言われています。
1587年秀吉が九州一円の平定を終え、論功行賞として「九州国割」をおこない、毛利元就の九男・毛利秀包(ひでかね)を7万5千石の大名として入封させます。その秀包が大規模改修をしていまの久留米城をつくり上げたようです。
秀包は秀吉の下、朝鮮の役でも武功をあげ13万石に加増されますが、関ケ原の戦いでは西軍(豊臣方)についていたため、家康の政権下では日の目をみることなく、改易により久留米を去ってのちは毛利輝元の庇護下で長門国内に小さな所領を与えられて蟄居のような暮らしをし、剃髪して仏門に入り、35歳の若さで病死しています。
その後は関ヶ原の戦いにおいて家康側で功績のあった田中吉政が近江八幡より32万石に加増の上で筑後に封じられ、その際は柳川城を主城とし、この久留米城は支城として次男が城主となっていたようです。
歴史は続きます。田中吉政の長男・忠政が子を残さぬまま死んだため田中家は改易され、かわりに福知山城主であった有馬豊氏が入封し、この有馬家が明治維新まで代々この城を守り続けることになります。
さてここまで読んでなにか興味深いことをみつけられましたか。あまりなじみのない人達が入れ替わり立ち代わりしているだけで、それがどうしたんですか、と片付けられそうです。じっさい書きながら記憶に残ったのは「毛利元就はいったいどんだけ子供を残したんや」とその絶倫ぶりに驚いたぐらいでした。
そのためか久留米城は訪れる人もなく、さびしくたたずむばかりなのですが、現地で興味をもって見て歩くと、これはなかなか見ごたえある遺産です。
久留米城
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久留米城は連郭式の平城で、最南部に外郭があり、北へ向かって三の丸、二の丸、本丸と郭(くるわ:曲輪)が連結して並んでいたようです。
そして本丸だけが堅牢な石垣で守られており、その本丸のみが城跡として残っています。
いま見ているのは東南側からで、左に大手口、右角には、天守の代わりともいえる3重の巽櫓がありました。
大手口
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篠山神社
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明治維新後の廃藩置県および廃城令により、久留米城は本丸石垣と一部の堀をのこして破却され、二の丸、三の丸跡地は民間に払い下げられ、本丸跡地には有馬豊氏を祀った篠山神社が明治10年につくられます。
もとはというと、本丸には天守はなく、本丸御殿とそれを取り囲むように7つの櫓が建てられ、それらを多門櫓(石垣の上に長くつづく長屋のような櫓)が繋いでいました。
石垣、櫓台
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石垣の傾斜は直線的なものと、上にあがるにしたがって徐々に傾斜がきつくなる武者返し(あるいは、扇の勾配とよばれる)の中間といったところでしょうか。
なお久留米城の石垣は高いところで15mあります。
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久留米城はたいへん立派な遺構があるにもかかわらず、町の中心から離れていること、有名な武将が関わっていないことなどから訪れる人もなく、忘れられたようにたたずんでいました。
大手口のある南面と、月見櫓台などがのこる東面は整備されていましたが、注目されない西面は清掃されることもないのかずいぶん荒れはてた印象でした。
せめて本丸に篠山神社があるのが救いで、神社保護のため国や市からいくらかの補助はあるのでしょうが、なんとか末永く残してもらいたいものです。
【アクセス】西鉄久留米駅まえから徒歩で往復
【入場料】無料
【満足度】★★★☆☆