能登半島一周 その参(輪島~能登島~七尾)
【石川県・輪島市、七尾市 2023.5.18】
昨夜は輪島に泊まりました。
夕食はうまい魚を食べたいと、家内とふたりして散々ネットでさがして良さげな店に行ったのですが、定休日でもないのに営業しておらず。おそらくGWもすぎて観光客がすっかり減ったので臨時休業しているのでしょう。たしかに観光客がいなければとても成り立っていかないだろうと思われるほどに、日が暮れてからの人通りはほとんどありません。
仕方がないので「行く予定だった店」から薄暗い筋を入ったところにある、少々さびしげな(失礼!)店に入りました。けっこう年配のご主人と奥さんとふたりで切り盛りしている店で、年季は入っているけれど、カウンター端におかれたテレビでは昔の時代劇が映っていて、裏筋によくある家庭料理の店かいなと思ったのですが – –
ビックリするほど旨かった!!!!! ご主人は関西で料理の修行をしたとか、だからことさら口にあったのかもしれません。
「割烹名月」なかなかやるな。
輪島
本来なら輪島からさらに北上して能登半島の北端あたりまで行き、そこから珠洲市を訪ねる予定でした。
ところが珠洲市は先日の地震の被害もまだ生々しいようで、観光目的で訪れるのは気が咎めるため予定を変更し、輪島市内をすこしばかり散策して、ここから折り返して南へ、七尾市を目指すことにします。
「キリコ」とよばれる燈篭と、威勢のいい掛け声とともに練り歩く、能登のキリコ祭りは江戸時代からつづく伝統的な祭礼です。
ところで輪島はむかしから栄えた港町で、室町時代には日本の十大湊に数えられていたそうです。
能登島大橋
能登島大橋を渡ってみたくて、いったん能登島に入りました。橋の向こうは七尾市です。
七尾美術館
長谷川等伯(信春)は、武家の次男として生まれますが、絵筆の才を見込まれて代々仏画師をつぐ長谷川家に養子入りします。
後世の評価は、同時代に画壇に君臨した狩野永徳をもしのぎ、画聖とも呼ばれるようになりますが、その才能はどこでどのように育まれたのか。
安部龍太郎氏の小説「等伯」では、息子の久蔵が一時期狩野派に弟子入りする設定になっています。
そして父・等伯ではなく、狩野永徳を目標に絵描きの鍛錬をつんでいることについて、永徳は狩野家の伝統をきわめ極限まで狩野流を成長させたもので、鍛錬をつんでゆけばその域に達することができるかもしれない、しかし等伯はそれがひとつの天才であって、等伯でなければその域には達することができない、という意味のことを久蔵に言わせています。
山本謙一氏の小説「花鳥の夢」は狩野永徳を主人公にした作品ですが、そのなかで等伯が狩野派の門を叩き、そこで二人が交錯する場面があります。画板に目いっぱい題材を描きこむ永徳にたいして、等伯は画面の真中にすら大きな余白を残します。不審に思いむしろ侮蔑する永徳にたいして等伯は、この絵を見る人に対して「絵の中に居場所を与えている」と語ります。その一言に等伯のもつ天賦の才を見せつけられ、永徳は愕然とするという印象的な場面です。
等伯と永徳の才能の違いについてまではわかりません。等伯に天賦の才があったのは確かでしょうが、永徳にもそれに劣らぬ才能はあったはずです。
ひとつ感じたことは、長谷川家が日蓮法華宗に帰依しており、等伯自身が日蓮宗の寺院のために仏画を描いていたこと。法華とはきたない泥の池に咲く清浄な蓮の花のことです。
また能登という地で30歳(頃)まで過ごしたがために、冬の厳しさ、そして冬の厳しさゆえに春をむかえる歓びを知っていたであろうこと。
これらが生来もつ天賦の才にプラスされて、尋常でない才能が熟成したのではないでしょうか。
七尾城址
室町時代には、官領職につく家柄はきめられており、武家では三職七頭とよばれる十家だけがその地位に就けました。とくに三職は名門中の名門であり、斯波氏、細川氏、畠山氏の3氏。(上杉、土岐などはその下の七頭にふくまれる)
その畠山氏のうち七尾畠山氏の初代当主は能登国の守護職をつとめ、室町時代末期(戦国時代に入るころ)この山上に城を築きます。七つの尾根に曲輪を置いたことから「七尾城」とよばれ、険しい山間地を巧みに利用して難攻不落の城とうたわれますが、あの軍神・上杉謙信により落城させられます。
七尾城はたいへん見応えがあります。なんといっても野面積みでこれほど良好な石垣が残っているのは他に知りません。
ぐるっと一周回って1時間ほどです。ほとんどの観光客は調度丸から本丸まで上って、それで終了にしているようですが、あまりにもったいない。訪れる機会があれば、ぜひ1時間の、時空をこえた散策を楽しんでください。
【アクセス】輪島~能登島~能登島大橋~七尾美術館~七尾城址 レンタカーで移動
【料金】キリコ会館:630円、七尾美術館・長谷川等伯展:800円
【満足度】★★★★☆