桃太郎のモデルは吉備津神社に祀られている

【岡山市 2023.6.6】
岡山といえば桃太郎があまりに有名ですが、そもそも県をあげて売り出しているようで、野菜(トマト)や果実(ブドウ)、さらにはジーンズのブランド名にもなっています。また岡山駅から西へはしるJR線はずっと吉備線と呼ばれていましたが、いまでは桃太郎線と名前をかえています。
なぜ吉備線が桃太郎線にかわったかというと、岡山市の西から総社市にかけての一帯がかつて「吉備」とよばれた地方ですが、そこには吉備津神社、吉備津彦神社があります。そしてこれらの神社に祀られる吉備津彦命(きびつひこのみこと)こそが桃太郎のモデルとされているからです。

吉備津神社

吉備津神社の参道は松並木
入口には注連縄(しめなわ)

「日本書紀」によると、紀元前1世紀頃、北陸、東海、丹波、西道の4地方を統治するためそれぞれに皇族出身の将軍が遣わされました(これを四道将軍という)。
そのなかで第7代孝霊天皇の皇子である彦五十狭芦彦命(ひこいせさりひこのみこと:のちの吉備津彦命)は西道平定を担い、山陽道を西進し吉備へといたります。そしてここで反抗する豪族を征伐したそうです。
ところが吉備津神社につたわる縁起(由来の記録)では、この地に温羅(うら)とよばれる鬼がいて人々に害を及ぼすため、都から吉備津彦命がやってきて、「鬼の城」に棲む温羅とたたかってやっつけた、ということになっています。(そのなかで温羅が鯉に変身して逃げるところを、吉備津彦命は鵜に姿をかえて追いかけて捕まえたというくだりがあります)
これが土地に伝わる伝説、いわゆる昔話になると、桃太郎は桃から生まれ – 昔から桃の産地だったのでしょう -犬、猿、雉をつれて鬼の征伐に向かうとなっていますが、これも吉備津彦命が変身した逸話がもとになっているのでしょうか。
もっとも日本書紀からして聖徳太子が登場するあたりまではほとんど神話の世界ですし、吉備津神社の社伝にいたっては吉備津彦命が没したのは281歳のときとしているので、まっとうに信じられるものではありません。しかし何の知識もなく訪ねるよりは、なにやら怪しげな話でもちょっと記憶にとどめておけば、現地にいった時にずいぶん興味深く見て回ることができます。
そして興味をもつことは、まちがいなく楽しむことに繋がります。

北随神門から拝殿へ
本殿(左)と拝殿(右)は繋がっている
本殿

本殿はたいへん珍しい建築様式です。
まず漆喰でかためた「亀腹」とよばれる基台の上に建っています。
屋根は四方向にながれ下る入母屋造りですが、そこに千鳥破風がふたつ並び、その二つを同じ高さの軒が繋いでいます。
これは比翼入母屋造というそうですが、全国で唯一とのこと。
そもそもは入母屋造の建物ふたつを合体したものと考えられているようです。

本殿からつづく廻廊は見事の一言
南随神門から廻廊をみる
廻廊沿いに、えびす宮をみる
廻廊の横にある、あじさい園は間もなく見頃
あじさい園と岩山宮
廻廊を下りてきました / 後方は御神体山である、吉備の中山

宇賀神社

宇賀神社は吉備津神社の末社
道路を隔てて「飛び地境内」の、神池の中にあります
後方の御神体山に、吉備津神社がかすかに見えます

宇賀神社は末社とのことですが、ずいぶん立派な社でした。いまは稲荷神を祀っているようです。

中山茶臼山古墳 – 吉備津彦命の墓

吉備津神社の西端を進むと、登り道がある
墓所へむかう道だけあって、厳かな雰囲気
最後にこの階段を上ります / よい運動になる
吉備津彦命の御墓・礼拝所 / 参拝者はまったくいない
このあたり一帯が古墳のようです

ここが「備前国」と「備中国」の境目になるようです。
なぜこれが重要かというと、吉備津神社はもとは吉備国の総鎮守でしたが、その吉備国が大化の改新後に三国へ分割されたさい、ここ備中国では吉備津神社としてのこり、ほかに分霊が備前国には吉備津彦神社(この近く)、備後国にはべつの吉備津神社(福山市)として祀られます。
いったんここを下りて、吉備津彦神社へ行ってみます。

吉備路をあるく

吉備津神社の前(横?)を通って東へ
道中のマンホールの蓋も、桃太郎仕様
ラブホの残骸が – –

吉備津神社から吉備津彦神社への道は、御神体山の麓にそって続いているのであり、心地よい散策を楽しめるものと期待していました。
ところが、ここでなんとラブホに出くわします。しかも10年どころか20年ぐらい前には閉鎖したものの残骸が、片付けられるでもなく放置されています。
こんな場所になぜラブホをつくることを許可したのかも不思議ですが、残骸をそのまま放置させておくとは – – – ちなみに「売地」の看板が貼ってあるのですから、地主には連絡が取れるのでしょうに。

吉備津彦神社

吉備津彦神社が神池の向こうに見える
神池の中央をぬける参道
随神門から拝殿をみる

吉備津神社は吉備の中山の北に、吉備津彦神社は2kmほどはなれた北東に位置しており、ともにこの中山を御神体としています。
視覚的には、吉備津彦神社の御神体山とした方が分かりやすいかもしれません。
残念なのは昭和初期に失火で社殿のほとんどを焼失してしまったとのこと。今あるものは、本殿と随神門をのぞいて昭和11年に再建されたものです。

左(随神門側)から拝殿、祭文殿、渡殿、本殿(屋根が茅葺き)
左から拝殿、祭文殿、渡殿
本殿
反対側から見る / 手前が拝殿、奥が本殿

【アクセス】JR桃太郎線・吉備津駅~吉備津神社~吉備津彦命の墓~吉備津彦神社~JR備前一宮駅 14000歩
【満足度】★★★★☆