二度まで戦火で焼失した東大寺はそれでも甦った

【奈良市・2023.9.12】
東大寺は若草山麓にあった金鐘寺が起源で、この金鐘寺は奈良時代に国分寺・国分尼寺建立の詔が出されると、大和国の国分寺のポジションを与えられます。大和国の国分寺であることは、すなわち全国の国分寺を代表する総本山的な地位も与えられたのでしょう。寺名も金光明寺(金光明四天王護国之寺)と寺名を変えます。
やがて聖武天皇は大仏建立の詔を発します。金光明寺の本尊として大仏の建立をはじめたのか、大仏建立が先でその地が金光明寺に隣接していたのかは不明ですが、大仏建立の過程でもともとあった金光明寺の名は消え、東大寺の名がこのころから記録されています。
奈良仏教のなかで二大勢力といえば、法相宗と華厳宗ですが、興福寺が法相宗の総本山であるのに対して、東大寺は華厳宗の総本山とされました。
仏教勢力はかつての支配者にとっては目の上のコブ。白河天皇が「鴨川の流れと、サイコロの目と、山法師=比叡山の仏徒は思いのままに扱えない」と嘆いたという逸話は有名ですが、奈良の東大寺(興福寺も)の仏徒もなかなか厄介な強者だったようです。
平安時代末期に権力を握った平清盛は、堪忍袋の緒がきれたのか自分の五男・重衡に軍勢をあたえ東大寺(と興福寺)を壊滅させます。奈良時代に建立した際にはその伽藍のあまりの規模に建設費がかさみ国の財政を疲弊させるほどであったにもかかわらず、それでも朝廷主導でさっそく再建がはじめられます。これほどの寺は日本の国にとって、焼失しましたではすまされないものだったのでしょう、大仏は平安時代が終わる直前に、大仏殿など諸堂は鎌倉時代初期に再建されます。
そして次に消失するのは戦国時代の真っ只中、松永久秀vs三好三人衆&筒井順慶連合の戦いにおいてであり、今日はこの戦いのことをもっと知りたくて、朝早くから出向いてきた次第です。

南大門から中門へ

奈良といえば鹿ですが、参道にもいるいる
南大門 / 運慶・快慶作の仁王像はここにある
中門 / 後方に大仏殿の屋根が見えている

人影がほとんどありませんが、早朝ゆえ。
現在、朝8時。東大寺へは7時30分から入れます。
10時頃からは、すげぇ人、人、人です。

東大寺の案内図 (東大寺のHPより一部抜粋)

大仏殿

大仏殿 / イベントがあるのか鉄柱が組まれている
大仏殿 / いつもこれくらい空いている、はずがない
かつての東大寺の再現模型 / 大仏殿内にある

創建当初は大仏殿(ほんらいは金堂または本堂)の左右に7重の塔があったそうで、高さは70m以上、一説では100mあったとか。
ところで模型と比べて、大仏殿の横幅がみょうに短いことに気づきます。
創建時、および鎌倉時代の再建時には横幅11間だったものを、戦国時代に焼失し江戸時代に再建した際には7間に縮小したようです。
支援者は5代将軍・徳川綱吉と母の桂昌院。縮小したのは、やはり資金難が理由でしょう。

大仏殿前の八角灯籠の細工は見事です
虚空蔵菩薩座像(左)、盧舎那仏(中央・本尊)
盧舎那仏、如意輪観音菩薩坐像(右)

大仏殿(金堂)は三尊形式ですが、さらに盧舎那仏(いわゆる大仏)の左後ろに広目天立像、右後ろに多聞天立像がおられます。
なお盧舎那仏は華厳経における中心的存在で、「智慧の光明であまねく照らす」という意味があるそうです。

大仏殿から東域へ

大仏殿の廻廊から出てきたら、修学旅行生の人波
「上院」と呼ぶべき東の域へあがる階段はいい感じ
鐘楼 / 屋根の反り返りが特徴的
さらに上へ上がります
二月堂(左)と法華堂

法華堂(三月堂)は礼堂と本堂をくっつけて一体化した不思議な建物です。
中には9体の仏像があります。この法華堂ひとつに入るだけで、大仏殿に入るのと同じ600円必要です。仏像ファンなら必見、興味のない方はスルーすればよいと思います。
それにしても東域まで見てまわる観光客はほとんどいません。全体にたいへん良い雰囲気で、しかも外から見るだけならすべて無料ですので、ぜひ足を伸ばすべきです。

手向山八幡宮

手向山(たむけやま)八幡宮は、法華堂の南隣にあります。
東大寺を建立する際に、いまの大分県にある宇佐八幡宮(八幡宮の総本社)から、東大寺の鎮守神として勧請したと記録されています。

二月堂
二月堂は下からみると、迫力満点
二月堂の舞台からのぞむ
二月堂にて廻廊階段をくだる

北域から西域へ

講堂跡 / 大柱を支えた礎石がのこる
正倉院 / 入れないどころか見るのもこの位置のみ
戒壇院へむかう趣きのある道
戒壇院は現在改修中で拝観できません

転害門

寺領の北西にある転害門

転害門(てがいもん)は、東大寺の中で唯一創建当時から遺る、天平時代の建築様式を今に伝える遺構です。
名の由来は、「災い転じる門」の意。
この門を起点に、西へ佐保路がのび、かつては平城宮へ通じていました。

転害門の柱にのこる戦禍の跡

やっとここで松永久秀vs三好&筒井連合の戦いに関する痕跡にたどり着きました。
ボランティアガイドさんによると、柱にのこる傷跡は、その当時の戦火の跡だそうです。

そのときの戦禍で東大寺がほぼ全焼したことに関しては、過去にはすべて松永久秀の仕業だと言われてきました。さまざまな意見があるでしょうが、ここでは事実だけを列記します。
○松永久秀は、ここから500mほど北西に多聞山城を築き、そこを居城としていました。
○三好&筒井方はその多聞山城に相対するように東大寺境内に陣を敷きます。
○戦の流れで、松永久秀は三好&筒井の軍勢を攻めるため東大寺内で矢や鉄砲玉を打ち込みます。
○三好&筒井方は、大仏殿の廻廊を武器庫代わりにして火薬なども保管していました。
○その火薬に火がうつり爆発炎上するのですが、まちがいなく松永方が火を放ったとは記録がありません。それどころか三好&筒井方の失火が原因とも伝えられています。ちなみに筒井順慶は興福寺の僧侶あがりの武将です。

多聞山城

転害門からあるいて10分ほどの多聞山城(跡)訪ねてみました。結果から言うと、それらしきものは何も残っていません。ただその距離感から、三好&筒井方が多聞山城に向かい合うように東大寺境内に陣を敷いたことは確信できました。戦を吹っ掛けたのがどちらにしろ、わざわざ東大寺に陣を敷かなければ、そして無防備なまま火薬弾薬を境内に保管していなければ、ほぼ全焼という災禍は免れたはずです。

城の築かれた低山は眉間寺山、多聞天(毘沙門天)を祀るため
多聞山城と呼ばれた / 右の石仏は城の石垣に使われていたもの
いまは中学校の敷地として利用されています
これは大規模な堀切と考えられています

【アクセス】近鉄奈良駅~東大寺(南大門~大仏殿~東域~南域~西域~転害門)~多聞山城~JR奈良駅 15000歩 ※東大寺境内はたいへん広く、境内散策だけで8000歩
【拝観料】大仏殿600円、法華堂600円
【満足度】★★★★☆